青の一族

第1章 出雲と青銅器の時代——なぜ出雲は特別なのか


2 渡来人の足跡と青銅の祭器

2-1 稲作・墓制・青銅器 /  2-2銅鐸 /  2-3地域の統合と祭祀の移り変わり /  2-4青銅器製作と出雲


2―1 稲作・墓制・青銅器
 弥生時代早期(800BC頃)に水田・環濠集落・住居型・磨製石器などがセットで北部九州にもたらされた。稲作をもたらした渡来人は、住居型や土器から見て慶尚道から来たという。稲作は長い時間をかけて日本の集落と文化に大きな変化を起こした。
 その後、稲作は日本各地に広まるが、遠賀川(おんががわ)式土器が出土する地域が多く、同じ母体を持つ集団による入植と考えられている。700BC頃までに中国・四国地方が弥生化され、600BCには大阪、500BCには奈良、400BCには中部・東海地方以東の弥生化が進み、300~200BC頃関東に達する。九州南部はあまり稲作に適さない土地のためか保守勢力が強く、400BC頃やっと九州全土に稲作が普及する。だが遠賀川式土器集団は伊勢湾で進行を阻まれる。中部地方以北は縄文人の勢力が強く、木曽川以東では水神平(すいじんびら)式土器が取って代わる。実は稲作の伝播はこんな単純な図式で進んだわけではないらしいが、大まかにはこのような理解でいいと思う。弥生人は縄文人の中に溶け込みつつ、また地域の伝統の根強いところでは並行して存在する形で集落を形成していったものと思われる。そして弥生中期以降は各地が独自性のある土器を使うようになる。
 そのほかに人々のまとまりが見えるのが墓制で、弥生前期でほぼ終わる支石墓(しせきぼ)は渡来人の移住が西北九州から始まったことを示している。北部九州には縄文時代から雑穀畑作が伝わっていたことも知られている。支石墓は朝鮮半島西部の人々の習慣で、日本の支石墓は北部九州・出雲・愛媛・松山・徳島・日向にある。弥生初期の福岡平野は木棺・土廣墓(どこうぼ)で、これは朝鮮半島東部の人々の習慣だという。それ以外の北部九州平野は支石墓で、弥生中期までには甕棺墓(かめかんぼ)になる。
 弥生時代の文化で特筆に値するのは青銅器だろう。最初の青銅器が日本にもたらされたのは紀元前5世紀頃のことだという。その後、弥生前期末にまとまった数の集団が来て技術が伝えられたらしい。佐賀県三日月町土生(はぶ)遺跡で弥生中期初頭のヤリガンナの鋳型が見つかり朝鮮系無紋土器も多数見つかることからここは渡来人の村だったと考えられている。また、小郡市・久留米市などでも銅ヤリガンナが見つかっており、佐賀平野は彼らの拠点のひとつだったと思われる。
 弥生前期唯一の鋳造炉の遺構が発見されたのが和歌山県御坊(ごぼう)市堅田(かただ)遺跡だ。ここには稲作発祥の地である朝鮮半島忠清道の松菊里型住居跡が見つかっているので朝鮮半島西部から来た人々がいたことは間違いない。ヤリガンナの鋳型も出土した。愛知県名古屋市朝日遺跡で見つかったⅠ式銅鐸(どうたく)の鋳型は弥生中期初めのものと見られる。銅鐸の直接の祖型は朝鮮半島忠清南道扶余合松里遺跡の銅鈴で、銅鐸の鉛は初め忠清道産だったという。
 青銅器は大きく剣・矛に代表される武器型と銅鐸に分類されるが、銅鐸は近畿地方中心、武器型は北部九州中心に分布する【図①】(この図作成時よりのちに九州の吉野ヶ里遺跡などで銅鐸が見つかっているが、分布としてはこのような傾向は依然あると思う)。青銅器は弥生時代の祭祀に重要な役割を持ち、権力や同盟の象徴となるので詳しく見ていくことにする。

図① 銅鐸と銅矛・銅剣・銅戈の分布
銅鐸の分布

2―2 銅鐸

 銅鐸は西日本一帯から東海地方に及ぶ広い地域に流布した。また非常に長い歴史を持つ。最初の銅鐸は弥生前期末頃に現れる。私は弥生前期の終わりを300BC頃と想定した。最終的に銅鐸が全く廃棄されるのはAD250頃なので、実に550年にわたって祭祀の重要な道具だったわけだ。その間、形体や大きさ、使われ方に変化もあり、中心的な地域も変わっていく【図②】。
図② 銅鐸の形式と年代 『出雲の銅鐸』から
銅鐸の変遷
 銅鐸製作では、鋳型の最古のものが弥生前期末の京都府向日(むこう)市鶏冠井(かいで)遺跡から出土した。最古の小銅鐸は大阪府茨木市東奈良遺跡で弥生中期後半の溝から出土したが、摩滅が激しいので作られたのはかなり前だという。また、弥生時代には青銅器製作センターと目される次のような遺跡がある。紀元前2世紀から1世紀の古い時代のものはこれらのセンターで作られたと考えられている。
  大阪府 東大阪市 鬼虎川(きとらがわ)遺跡
  奈良県 磯城(しき)郡 唐子(からこ)・鍵(かぎ)遺跡
  大阪府 茨木市 東奈良遺跡
  福岡県 春日市 須玖岡本遺跡
 銅鐸の大量埋納遺跡は次のようなものがある。
  島根県 雲南市 加茂岩倉遺跡 39個
  島根県 出雲市 荒神谷(こうじんだに)遺跡 6個
  滋賀県 野洲(やす)市 大岩山遺跡 24個
  兵庫県 神戸市 桜ケ丘遺跡 14個
 2022年現在発掘されている銅鐸の数は500個で、県別に多い順に並べると以下の通り。
  兵庫県 56個
  島根県 54個
  徳島県 42個
  滋賀県 41個
  和歌山県 41個
 1996年に出雲で大量の銅鐸が発見された。その時点で出土している銅鐸の数は全国で430個、それに加えて39個が出雲の加茂岩倉遺跡から出たことになる。出雲出土の銅鐸は形式が系統立っており、意図的に集められたものだという。その同笵(どうはん)(同じ鋳型で作られた製品)鐸は最初期の型のものも含めて、中国地方東部・近畿・福井・岐阜・四国東部に広がっている【図③】。出雲と関わりのある地域は広く、私は出雲が特別だった背景のひとつには銅鐸があったと考える。
図③ 出雲と同笵関係の銅鐸群 『出雲の銅鐸』から
出雲とどうはんの銅鐸
 九州は従来銅鐸文化はなかったと考えられてきたが、最近の発掘によって吉野ヶ里などで銅鐸が見つかっている。出雲の銅鐸と同范のものがあり、図3のネットワ―クがさらに広がることになる。
 上記以外の銅鐸関連遺跡は、
  佐賀県 鳥栖市 安永田遺跡
  福井県 三国町 下屋敷遺跡
 鋳型の出土遺跡は、
  兵庫県 尼崎市 田能(たの)遺跡
      姫路市 名古山遺跡 今宿丁田遺跡
  福岡県 福岡市 赤穂ノ浦遺跡
      春日市 大谷遺跡 岡本4丁目遺跡
  佐賀県 神埼郡 吉野ヶ里遺跡
 これらの遺跡からすると福岡・出雲・神戸周辺・琵琶湖周辺に製作拠点があったようだ。
 銅鐸を何に使ったのかについて議論は多くあるが、私は農耕儀礼だったと考えている。初めは実質的な効果が期待されたのだと思われる。というのも、ある種の金属音が害虫を追い払うのに効果があることが現代科学でわかっているからだ。また、『本草綱目』(1578)に「蝗はその性金声をおそる。上古の人蝗送りと名づけ金鼓を以是を追事を始め……」とあるから16世紀の人もこれを知っていたわけだ。鐸の内側の突帯や身にある穴は音響を考えたものであるという。明らかに銅鐸を鳴らすこと自体に意義があったのだ。
 銅鐸に絵が描かれる時期がある。それは紀元前1世紀から1世紀頃のことで、私は、絵は害虫防除に関係する図柄だと考えている。トンボやイモリは害虫を、スッポン・サギは害魚を食べる。I形の道具を持つ人は、『古語拾遺』(807年)に「麻柄(おがら)を以って桛(かせ)に作りて之をかせぎ乃ち其の葉を以って之を掃ひ」とあるように、かせで虫をはらっているのだと思う。シカ・イノシシを射るのは害獣駆除の図だ【図④】。
図④ 銅鐸の絵
銅鐸の絵
 銅鐸は、その虫を追い払う音色と銅の赤く光り輝く色で農耕祭祀の中心的役割を担っただろう。村の人々は銅鐸を打ち鳴らしながら村の田を巡り歩き、その行列は虫送りとして里と山の境界まで行って虫を放逐した。兵庫県で近年までこれに似た虫送り神事があったのは知られているし、出雲にゆかりの深い諏訪神宮の湛(たたえ)も似たような神事だという。銅鐸の出土場所は里と山の境界が多いのだが、これもそうした神事を想定すれば至極自然なことだ。初めの祭りは生きる糧を得るための必死の行動だった。祈りは切実だった。銅鐸が楽器として使われた祭祀の時期は、首長も生活の安定を願う住民の実質的な代表としての存在だっただろう。しかし、想像するに音の防虫効果はそれほど高いとは思われない。いつしか音より銅の金属色のほうが人々の目を奪うようになって、銅鐸は見る祭祀具へと徐々に変化したと考えられる。

2―3 地域の統合と祭祀の移り変わり

 弥生中期の後半はひとつの画期だという。まず中期中頃に朝鮮半島との交渉が西南部から東南部にシフトする。108BCには漢の武帝が平壌に楽浪郡を置いた。楽浪郡設置は漢の豊かな文物の流入によって文化的に向上する面と、民族の自主独立の機運を高めた面とがあるという。朝鮮半島でその動きは著しいようだが日本にもそれは伝播した。中期には瀬戸内地域を中心に防衛的性格の強い高地性集落が現れる【図⑤】。村の並列的な独自性が崩れて、有力な村が他の村を支配下において地域を統合していくことになったようだ。その過程は全体を通して見れば三百年かそれ以上の年月をかけて徐々に進行したもので、集中した軍事行動の結果ではないと思われる。小地域ごとに武力行使の結果としてある集団がある集落を支配下に置き、あるいは同盟を結んで同じ形の祭祀を行い、同族としての意識を高めていく。そうして弥生後期が始まる1世紀には瀬戸内流通網ができあがっていた。つまり、畿内のものが九州に運ばれ、その逆もあったことが考古学の成果としてわかったのだ。
 図⑤高地性集落分布の移り変わり
 ㊤弥生中期後半から後期初め(前1世紀後半~1世紀)の第1次高地性集落
 ㊦倭国乱(2世紀後半)の頃の第2次高地性集落(『日本の歴史 王権誕生』から)
高地性集落1
高地性集落2
 なぜ瀬戸内で初めに統一に関わる抗争が生まれ、その後も引き続きこの地に高地性集落が多いのかの理由について私は、ひとつは北部九州の人々が東へ移住し始めたことだと考える。北部九州へは技術者の招聘などで朝鮮半島からの移住者が常にあっただろうし、平野が狭い。弥生時代は筑後川の幅がもっとずっと広く、小郡市あたりにも港があった可能性もある。必然的に人々は新しい土地を求めることになる。自然の流れとして瀬戸内に向かうことになるだろう。もうひとつの要因は、瀬戸内が縄文時代以来の石器の流通網を持っていたことだと思う。香川県の金山産サヌカイトは弥生前期・中期を通して瀬戸内沿岸の各地に運ばれていた。瀬戸内海を制することが流通の覇権を意味する。そしてそういった社会的成熟も統一が始まる条件のひとつだと考える【図⑥】。
図⑥ 瀬戸内地域の石器の流通(『考古学と生活文化Ⅴ』から)
瀬戸内海の石器の流通
 弥生中期末になると高地性集落にも変化が見られる。場所はそれまでと同じで東瀬戸内から畿内が中心だが、石鏃(せきぞく/石のやじり)の大型化と量産がピークに達し、鉄鏃(てつぞく)の出土もある。この時期に畿内では銅鐸工作集団の統合・再編が行われたと考えられる。そして中期の終わりに銅鐸はいっせいに埋められる(1次埋納)。銅製品の工房は主に畿内にあったので、この地域の抗争で村社会に変革・再編が起き、祭器としての青銅器の生産も村の祭祀の変化とともに変わったのであろう。そして、その後に各地で独自の青銅器の祭器がシンボルとして生み出されるようになる。
 弥生後期の初頭には日本の広い範囲で集落の断絶や集住が起きたという。これは主に気候の寒冷化によるもののようだ。だがこの時期中国では前漢が滅び王莽によって新(AD8~25)が建国されているので、中国と関係の深い地域ではその混乱の影響は無視できない要素だっただろう。この頃日本全体でも墓の副葬品が減っているという。
 小地域武力闘争の結果、弥生中期の後葉から後期の前葉の頃には西日本がいくつかのグループに分かれ、以下のようにそれぞれが独自の青銅器の祭器を持つようになった【図⑦】。
図⑦ 弥生中期末~後期前葉の青銅器祭祀(『日本の歴史 王権誕生』から)
弥生中期末から後期前葉の青銅器祭祀
  北部九州……中広形銅戈(なかひろがたどうか)
  四国西部・対馬・周防・出雲西部・隠岐……中広形銅矛(ちゅうびろがたどうほこ)
  出雲・伯耆・因幡・但馬……中細形銅剣(ちゅうぼそがたどうけん)C
  瀬戸内……平形銅剣(ひらがたどうけん)
  淡路・大阪湾沿岸……大阪湾型銅戈
  広島から中部地方の広い範囲……銅鐸
 この時期の青銅器生産の拠点は北部九州の奴国(なこく)だったという。一方対馬で、この時期の細形銅剣や各種異形青銅器、漢・韓式土器がかなり出土するようになる。福岡県の糸島平野でもこの種の土器が出土するが、青銅の雑器類は九州本土ではほとんど出ない。また朝鮮半島南部、特に金海付近で中広形銅矛が集中して出土する。このことから対馬の集団が北部九州と楽浪との交渉を担うと同時に独自に局所的貿易圏を形成していたことがわかる。この時期、島根半島西部にも銅矛が入っていて同じ文化圏にあったと言える。対馬の貿易相手はどこだったのか。出雲を玄関口とする中国地方とそれ以東の地域だったのではないだろうか。各地が青銅製品を持ったのだから需要は大きかったはずだ。荒神谷遺跡の大量の銅剣は、傍証とはならないだろうか。
 この時期が奴国の最盛期だった。それがもたらした富によって奴国は漢に遣いを出すことができ、後漢の光武帝が倭の奴の国王に金印を授けたと『後漢書』に記されるのがAD57だ。但し、『魏志』は「倭人の遣いや通訳の往来のある国は三十カ国」としており、弥生後期後半には奴国に限らず各地の首長が独自に中国まで出かけていったようだ。
 各地が青銅器の祭祀に独自性を見出し始めた弥生後期の始まりの頃(紀元前後)に中国山地に四隅突出墳(よすみとっしゅつふん)が出現する。四隅突出墳の原型は弥生中期中葉の出雲市中野美保遺跡の方形貼石墓(ほうけいはりいしぼ)、中期後葉の出雲市青木遺跡の初期四隅に見られ、その貼石技術は高句麗に源があるという。四隅突出墳は集団の首長を葬った施設で、内部で飲食の儀式が行われたらしい。ここに全国に先駆けて集団の祭祀から首長個人がクローズアップされる祭祀への移行が始まった。
 またAD50頃岡山平野では耕地面積が飛躍的に伸びたという。この理由は、
 1、海岸線が後退して沖積平野が広がった。
 2、地域統合の結果、岡山平野の首長が優位を占め労働力を確保した。
 3、瀬戸内流通網のおかげで吉備児島産の塩を売った。
 など、いろいろと考えられる。岡山付近には高地性集落が三百年を通して常に存在する。ここは瀬戸内の中心であり、交通の要所であり、中国地方で最も広い平野を擁しているのだから常に外からの攻撃に備える必要があっただろう。あるいは自分たちが近隣に攻撃を仕掛けている間の防衛に必要だったのかもしれない。ともあれ、各地の首長が力を伸ばしてより広い地域へ影響力を及ぼすようになったらしく、祭りは1世紀後半頃からまた新段階に入る【図⑧】。
図⑧ 弥生後期中頃の各地の祭祀(『日本の歴史 王権誕生』から)
青銅器祭祀
  北部九州・対馬・四国西部内陸……広形銅戈・矛
  吉備……特殊器台
  出雲・因幡・伯耆・越……四隅突出墳
 四国東部から中部地方までの広い範囲は近畿式銅鐸で、これに若狭湾・近江・美濃・伊勢湾・東海・飛騨、天竜川の西まで三遠式(さんえんしき)銅鐸が重なる。三遠式は大型で、1世紀末頃から美濃平野で作られたと言われる。
 伊勢湾・東海・北陸ではいっせいに青銅器生産が始まる。またこの頃に伊勢湾・東海・広島・出雲・北陸・北部九州の南側の地域に高地性集落が現れる。そして200年頃には出雲に西谷9号のような巨大四隅突出墳が出現する。西谷2・3号墳からガラスの腕輪や朱が出土しているが、これらは中国大陸産で朱は陝西省(長安の所在地)のものに似ているという。猪目(いのめ)洞窟遺跡からは沖縄地方のような南海に生息するゴホウラ貝も出土していて、出雲の広い範囲の交易が想定できる。
 同じ頃岡山には古墳の前身のような楯築(たてつき)墳墓が作られ、歴史は古墳時代へと移っていく。そして青銅器は祭祀の道具としての役目を終える。

2―4 青銅器製作と出雲

 出雲の富と力が銅鐸と深い関わりがあることは、特に古い各種銅鐸が出雲に集まっていることからも理解できるだろう。では銅鐸製作と出雲はどう関わったのか。
 弥生時代の青銅器に使われた鉛は日本産のものはまったくないという。始めは朝鮮半島の忠清道のもの、弥生中期頃からは華北産のものが使われ、鉛の産地で成分を調合したと考えられるという。錫・鉛は日本には少なかったようだが、銅は豊富なので国産の銅を使った可能性もないとは言えず、工人は錫・鉛を持って山中を歩き、銅を見つけたらすぐそこで生産したという説をとる人もいる。また、出雲には自然銅の産出はなかったという。銅鉱はあるが地下深くにあるのでこの時期にはそれを取り出すことはできなかった。
 実は、縄文から弥生の早期に、稲作をもって海岸沿いに移住してきた人々とは別に山中に移住してきた人々がいた(第2章4―3項参照)。彼らは鉄や銅の鉱石採掘や金属加工をし、製品を各地に運ぶ仕事をしていたのではないだろうか。『魏書』に「(弁辰)国は鉄を出し、韓、濊(わい)、倭みなこれ(鉄)を採る。(楽浪・帯方)二郡に供給する」とある。濊族は2、3世紀頃朝鮮半島の東南部にいた。中国山地は鉄の豊富なところなので、倭が鉛や錫を輸入し鉄を輸出するのはありうることだ。事実、朝鮮半島で日本産の鉄が出ている。
 銅鐸などの製品については、金属製作跡がないので製作はされなかったという説がある一方、高度の専門的技術を持った工人集団がその内部で製法を口伝し、秘密を守るために作業後には工房を破壊したのではないかという説もある。私は後者を取り、それを最初に行ったのが出雲と九州の工人集団だったと考えている。前述の移住者の痕跡が九州と中国地方にあるからだ。そして出雲の九州に対する優位性は朝鮮半島に近く、しかも本州にあるというその地理的位置にある。青銅器の原料の鉛を朝鮮半島や中国大陸に依存していたのだから、出雲は生産地というよりは原料輸入優位に立っていたのだと考えられる。銅鐸は兵庫・徳島・滋賀・和歌山に多い。出雲はそれらの地域に材料を供給したのだろう。
 銅は国産も使われただろう。滋賀県野洲市周辺には銅鉱が多いという。野洲市大岩山遺跡からは大量の銅鐸が出土したのは自然に見える。そして、金属器製作には野だたらに必要な風の吹く場所が必須だ。生産地はそうした場所が選ばれたのではないかと思う。