青の一族

第1章 出雲と青銅器の時代——なぜ出雲は特別なのか


3 水運と人の移動

3-1 船で移動する3-2 人々のネットワークと大国主


3―1 船で移動する
 古代、人と物の移動の主な手段は船だったろう。
 弥生時代の青銅器原料輸送に使われた鉛はどう日本に入ってきたのか。ひとつのルートは朝鮮半島から対馬、そして九州の北の港へ、というものだろう。いわゆる奴国が青銅器の製作の拠点だから、原料はここで製品になったものが多かっただろう。だが私は出雲に直接来るルートもあったに違いないと思っている。
 2013年に滋賀県高島市の上御殿遺跡から、朝鮮半島にも国内にもそれまでなかった中国内陸部オルドス式の銅剣鋳型が出土し、どこからどう入ってきたものか謎とされているが、朝鮮半島を陸伝いで来たのでなければ海路しかないだろう。
 青龍銘を持つ銅鏡が出土した遺跡は丹後半島から丹波地方を点々と南下する。丹後は弥生時代ガラスの玉造りが盛んで、弥生後期から古墳時代にかけて土器や墓制で強い独自色を見せる地域だ。独自に半島や中国との交流を持っていたのではないか。また越地域には6、7世紀に高句麗からの使節が直接何度も来ている。8世紀には渤海からの使節が来て以後二百年にわたる派遣があり、多くは加賀に着岸している。これは遣唐使よりも頻繁だった。日本海にはユーラシア大陸に沿ってリマン海流が流れていてその末は朝鮮半島の東岸を南下する。日本から朝鮮半島へはやはり対馬経由かもしれないが、中国や朝鮮半島からの人や物は北部九州からしか入らなかったわけではないと考えられる。釜山から対馬に南下して東にまっすぐ進めば出雲大社近くの日御碕だ。渤海からの航路を思えばこれは指呼の間と言えるだろうし、山陰以東の地に荷を運ぶなら九州に上陸するよりずっと効率がいい。事実、前4世紀までの雑穀、水稲の伝播は朝鮮半島の西から海路で壱岐の北を通り直接島根半島に着くルートがあったことを示している(図12参照)。しかも宍道湖は大きな潟湖で船を泊めておくのに都合がいい。
図12 
畑作・稲作の伝播(『日本の歴史 王権誕生』から)青銅器祭祀
 一方、小さな船で果敢に日本海を渡った人々も、日本列島に着いた後は海岸沿いに移動してさらに多くの定住地を探しただろう。出雲に来た人々は海岸沿いに東へ進む。伯耆、因幡、但馬、丹後へと。また川を遡って山に入っただろう。山に入る目的はまずは鉱床探しだ。  さて、出雲の人がまず遡ったのは斐伊川だろう。川を遡って水源で水路が途切れると船を担いで尾根を越え、反対側の水源に船を下ろして川を下り、山の反対側の平野に到達することもあったと思う。出雲の斐伊川上流に船通山(または鳥上山)の名があるが文字通り、船で山を越えたのだ。時代が少し下っても鉱物探しという目的は変わらなかっただろうが、船で各地を結ぶ仕事は水路を利用した運輸業にも発展していったと考えられる。船を操るには、部品として必要な金属や帆の製作を始めとする最新の技術を要求したので、海洋族は海や水をよく知る人々であると同時に金属や帆作りの特殊職能集団でもあった。
3-2 人々のネットワークと大国主
 人々は船で川を移動したが、川はまた人々の生活の場でもあるので、そこに集まって住む人々の間に部族連合のようなものができていったと考えられる。ひとつの川に一部族、または同族連合というように。移動して新しい土地で生活を始めようとする人々は入植先に自分の故郷の名前をつけるものだ。アメリカのニューヨークはイギリスのヨークから来た人々がを作った町だ。私は名前の類似は同部族のいたしるしだと考える。例えば、
  斐伊川、日野川(鳥取・福井)、揖保川(兵庫)、揖斐川(愛知)、氷川
  那珂川(福岡・栃木・茨城)
  大淀川(宮崎)、淀川(大阪)、仁淀川(高知)
  川内川(鹿児島)、千代川(鳥取)、仙台
  敦賀湾、駿河湾
  阿波、安房
など。そして後から来た人々は先に海を渡った先達たちを頼って同じ場所に移住しただろう。弥生人たちは水路を使って移動し、ネットワークを作っていった。
 鳥取平野の千代川流域は土師氏の本拠地だという。出雲出身の野見宿禰系の人々だ。またここは伊福部氏がいたところでもある。伊福部氏が歴史に登場するのは少し後代だが、彼らは鍛冶技術の〈フキ〉(風を起こす)が氏族名になった人々で、大己貴を祖とし、もとは野だたら集団だったらしい。兵庫県の豊岡盆地を流れる円山川沿いは天日矛の地だが、日矛の義父は須佐之男の系譜で物部系でもあり、また九州のイト国に関係があったともいう。だが伊福部氏の系図では、天日矛は大己貴の子孫となっている。丹後国一宮籠神社に伝わる『海部氏系図』では大己貴の息子が彦火明で別名饒速日、海部氏はその子孫だ(火明命は『記』『紀』に登場する天孫族の皇子。饒速日は物部氏の祖とされる神)。岡山県新見市には国司神社がたくさんあるが、元は国主神社といって大国主を祭っていたという。国主神社は岡山・広島に多いという。また津山市の中山神社は鏡作神を祭っているが元は大己貴を奉祭していた。須佐之男命を祭る島根県須佐神社の社家須佐氏の系譜は、大国主―カヤナルミ―須佐氏となっている。播磨一宮の伊和神社は大己貴を祭神とするが、大己貴と伊和大神は同体でその息子は出雲建子、またの名を伊勢津彦といい、火明と同体で伊勢氏の祖だという。これらはみな金属関連の氏族で中国地方の川の流域にそれぞれ本拠地があるが、伝承で見る限りすべてが大国主の子孫といってもいいくらいだ。伊和大神の伝説によれば大国主―伊和大神―伊勢氏というつながりがある。斐伊川―揖保川―揖斐川つながりだ。伊勢・尾張は金属関連の氏族が多いところだ。とすれば中部地方にも大国主を祖と仰ぐ人々がいても不思議はない。関東でも大己貴、あるいは出雲系の神を祭る神社が半数以上ではないかという印象だ。実際大己貴を祭る神社は至る所にあって、これなら「大己貴が国を譲れば皆譲る」と言われたのももっともだと思える。出雲は中国地方に限らず日本各地の広い地域で金属関連の仕事に従事する人々すべての祖先的存在であって、原料輸入の元締めだった。その地域は広く、期間も長い銅鐸文化圏を形成している。だから出雲にはすべての型の銅鐸がそろっているのだと私は考える。あるいは元締めには必ずひとつ同氾品を納めるという取り決めがあったのかもしれない。