青の一族

第2章 弥生後期までの各地の動静:神武の東征はあったのか 北部九州の神話が少ないのはなぜか


 弥生後期というと紀元1年から200年頃のことだ。この時代は次に来る古墳時代に先駆けて、各地で侵略や闘争、移住といった過程を通して各地方の権力の統合と強大化が進んだ時期だと見られる。200年頃にはまた各地でそれぞれ特徴的な土器や祭祀具が現れる【図⑨】。それらの移り変わり、またこれを推進した力について見てみよう。
図9 200年頃から古墳時代前の地域の特色(『日本の歴史 王権誕生』から)
200年頃から古墳時代前の地域の特色

1 出雲勢力と四隅突出墳

 弥生後期の前葉に現れた大型墳墓が四隅突出墳だ。最初に四隅突出墳ができたのは斐伊川の上流の山の中、広島県三次(みよし)市だ。三次市の矢谷墳丘墓から出土の土器や器具からは、出雲や吉備との盛んな交流が推測されるという。四隅は三次の西の千代田町、東の庄原市、岡山県の津山市にもあって、山の中で横に並んでいる。庄原・津山は三次とともに交通の要衝だ。川を介して日本海側の出雲から瀬戸内側の広島・尾道・福山・岡山・姫路にも通じている。
 地勢的条件を考慮すれば、先に述べたように彼らは運輸業による富を得ていただろうと考えられる。四隅突出墳は側面に石を貼りめぐらせた当時最新の土木技術を使っているが、これは高句麗から渡ってきたという。当時の出雲が文化の先進地域だったと同時に財力があったことを示している。
 私は初めに四隅を作った人々は鉱物探索・金属加工集団だったと考えている。先に岡山県新見市には国司神社がたくさんあったと述べたが、新見・津山といえば四隅突出墳が最初に出現した地域のひとつで、これを作った勢力と大国主が関係していたことが想定できる。銅鐸に関係の深い大国主の伝説が中国山地の随所に見られること、彼らの本拠地が鉱石のある山の中であることから、四隅突出墳の被葬者は上のような集団の首長だとするのが自然に思える。四隅ができる前の弥生中期、三次市の花園遺跡では21の墓と50の墓が別の区画に作られていた。これは集団の違いを示唆する。先住民の中に入った別の集団が彼らで、これが後に支配層になっていったと思われる。
 墳墓で行われる祭祀は農業共同体のものというより、一子相伝の秘密の技術を継承するのにむしろふさわしい。金属集団は精錬や加工の技術、金属の採掘場所などを少人数だけが知っていたというから、その首長が死んだときはそれを受け継ぐべき次の首長が墓での祭祀を行ってその権利を得たことをみなに知らしめることに意義があった。この儀式は首長の権威を強調することになるので、後に稲作地帯の首長らもこれをまねて自分たちの権威を高めようとしたのではないかと思う。また、山間の首長たちは緩やかに同盟を結んでいたと思われる。同じような条件の場所に同時に四隅が現れるからだ。彼らは縄張りを持ってお互いに連絡しあいながら時には助け合い、融通しあったりもしただろう。そして墳墓祭祀は出雲平野の同族の間にも広まり、ついには北陸人までその儀式を取り入れることになる。
 初め山の中に発した四隅は平野に降りた後、出雲から但馬にかけての日本海沿岸で2世紀末にいっせいに現れる。57年に漢が倭奴国王に金印を授け、107年には倭国王帥升(すいしょう)が倭から漢に遣いしているが、これが出雲の首長だとしてもおかしくない。出雲市の西谷2号、3号墓から出土したガラス、鉄製品は朝鮮半島や中国大陸産で、棺内に敷かれた朱が洛陽のある中国陝西省産らしいからだ。出土土器は丹後・吉備・越からのものがあり、被葬者はまさに中国地方日本海沿岸の盟主として漢に朝貢していたのだろう。しかし200年頃に西谷9号墳(60×55㍍日本最大)が作られた後、四隅墳丘墓は忽然と姿を消す。