青の一族

第2章 弥生後期までの各地の動静——神武の東征はあったのか 北部九州の神話が少ないのはなぜか


2 瀬戸内勢力


2-1吉備と特殊器台2―2 伊耶那岐・伊耶那美の国産み神話


2-1吉備と特殊器台

 弥生中期の後葉から各地が独自の青銅祭器を持つようになるが、瀬戸内は平型銅剣でまとまっていた。弥生後期になると吉備に特殊器台(文様や赤色で装飾された筒形・壺型土器)の祭祀が始まり周囲に影響を及ぼすようになる【図10】。1世紀には九州のものが畿内に流れ込んだり畿内のものが九州まで行ったりするようになる。この交易に中心的な役割を果たしたのが吉備だろう。その財力をもって青銅器の祭祀から脱し、独自の道を歩むことを考えた。
図10 岡山県に分布の中心がある特殊器台
青銅器祭祀
 吉備の特殊器台は韓国の海金市にそっくりな土器があって、そことの直接交流を思わせる。、岡山市の吉備津神社に加夜臣奈留美(かやのおみなるみ)が吉備津彦を祖神として祭ったという説がある。加夜=伽耶(かや)は倭人が多くいた朝鮮半島の国で、今の金海市だ。
 島根県境港市にある余子(よご)神社は天目一筒神(あまのまひとつのかみ)を祭る。神主は、吉備氏の祖、孝霊天皇の子孫だという森氏だ。天目一筒は、天照大神と須佐之男の誓約で生まれた五男神の一人、天津彦根神(あまつひこねのかみ)の子とされ(『古語拾遺』)鍛冶の神で多くの別名がある。中国地方に伝承が多く、三重にもある。境港市の近くに弥生時代後期に鉄加工が行われていたと見られる大集落、妻木(むき)晩(ばん)田(だ)遺跡がある。妻木晩田は1世紀から3世紀頃に栄えた。
 境港市の南の米子市は日野川河口にあって、そばに孝霊山という山がある。この山は別名韓山、高麗から来た人が運んだという伝説があるという。境港から米子に進んだ人々は日野川沿いに入植しながら南進したと思われる。日野川流域には楽々福(ささふく)神社があって、孝霊天皇を主神とし、細(くわし)姫、若建吉備津彦(わかたけきびつひこ)、大吉備津彦(おおきびつひこ)、彦狭島(ひこさしま)、阿礼(あれ)姫、百襲(ももそ)姫、稚屋(わかや)姫を祭る。みな『記』『紀』で孝霊天皇に関係が深い神たちだ。〈ササ〉は鉄を表す。 
 この人々は旭川経由で岡山に出て、これが吉備の始まりだと私は見る。その同じルートで朝鮮の文物を直接手に入れて、さらに瀬戸内流通網で九州から畿内までの幅広い地域と交流するルートを掌握したのだと思う。
 出雲には特殊器台の原型と見られるもう少し小型の土器があった。吉備の祖先は初めは出雲連合の一員だっただろう。しかし、そこからの独立を図ったのだ。
 紀元前後頃に中国山地に現れた四隅突出墳は150年頃に定着し、200年頃に巨大墳ができたが、その頃吉備では楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)という独自形式の古墳を作っている。前方後円墳の前身とも見られる形の墓だ。

2―2 伊耶那岐(いざなき)・伊耶那美(いざなみ)の国産み神話

 伊耶那岐はもとは対馬の人という説がある。伊耶那美が葬られたのが島根県の安来市で黄泉比良坂(よもつひらさか)(現世と死者の国である黄泉国との間にある坂)は東出雲市にあるという。安来市の比婆山久米神社には伊耶那美が祭られており、飯梨川上流の広瀬町梶に伊耶那岐の墓伝説がある。仁田町には伊耶那美の地名も残る。
 これらを見ると、伊耶那岐は朝鮮半島から対馬を経由して出雲に入り、伊耶那美と結婚したように思える。そしてその後彼は瀬戸内に移ったのではないか。『記』は、伊耶那岐と伊耶那美が天の浮橋に立って矛で海水をかき回してできた島が淤能碁呂島(おのごろじま)で、二人は初めこの島に降り立ったと記す。淡路島には当地がオノゴロジマだとする伝説があり、伊耶那岐が隠れたとする伊弉)神宮(いざなぎじんぐう)もある。
 国産み神話で最初に淡路島ができたとされることは銅鐸と何らかの関係があると思う。銅鐸が一番多く発見されているのは、兵庫県で淡路島と接する位置にある桜ヶ丘遺跡を中心とする神戸市周辺だ。淡路島にも多い。そして徳島県では29遺跡から42個の銅鐸が出土しており全国で3番目に多い。銅鐸のことを〈サナグ〉とか〈サナギ〉と言う。〈イザナギ〉の名がそれを表している。彼は銅鐸製作に関わった初期の人物だと私は思うし、実際に伊耶那岐が銅鐸の神だとする説もある。
 国産み神話については、瀬戸内東部地域で共有されていた伊邪那岐・伊邪那美の物語を、後に吉備が瀬戸内の盟主的存在になったときに自分たちのものにしたのだと思う。神話では二人が生んだ島は淡路島・四国・九州・大倭秋津島などとされる。ここで、おかしなことに気づく。瀬戸内海上の小さな島にもいちいち名前をつけているのに、中国地方と近畿地方、そしてことによると北陸まで含む広大な地域をひっくるめて大秋津島というひとつの名で表しているのだ。これはいかにも不自然だ。また、そんな古い時代にそうしたひとつの名で表されるような広域連合があったとも考えられない。私は〈大倭豊秋津島(おおやまととよあきづしま)〉の〈大倭〉の〈倭〉のところに別の地名、〈吉備〉が入っていたのではないかと考える。そして〈豊秋津島〉は安芸(あき)(今の広島)だろう。つまり、最初の国の名は岡山・広島を中心とする瀬戸内連合を指していた。
『記』にはまず大八島を生んだとあるが、八という数は中国で聖数とされる。ところが天孫降臨の段でも5人の随伴者がいるように古い話では5が決まりの数だ。須佐之男が天照大神の玉から生んだ子は五男神、阿波の大(おお)気都比売(けつひめ)の身体からできたのは稲・栗・小豆・麦・大豆の五穀と蚕だ。つまり古い時代は朝鮮半島経由の北方文化を取り入れていたのだ。日本を大八島をとして八を修辞に使っているこの記述は、この神話の原型ができたときより後の時代、中国の文化を取り入れたときのものと考えられる。
 瀬戸内海東部がこの神話の発祥だとするもうひとつの理由はそれぞれの島の名だ。対馬・隠岐島・壱岐島・秋津島に天の字がつけられている。自分たちと祖先を同じくするか、または朝鮮半島由来の氏族の国を表すと思われる。大分県の姫島に比定される女島、長崎県五島列島に比定される知訶島、男女群島に比定される両児島の別名にも天の字がある。これらも朝鮮半島由来とみなされていた可能性は高いと思う。次に、讃岐の別名は飯依比古(いいよりひこ)だが、他の男国にはみな〈ワケ〉がついている。後代にワケは高貴な皇子につけられる名になるが、古い時代〈ワケ〉は〈分かれた〉という意味で分家の扱いだ。しかし讃岐だけは〈ヒコ〉なのは、吉備が讃岐とはサヌカイトを通じた縄文以来の特に深いつながりがあって、等格扱いしたからだと考えられる。これも吉備を中心にした発想だ。伊邪那岐・伊邪那美が「帰ってから」生んだのが吉備児島だという表現は、大和が本拠地ならおかしいという疑問も出ようが、吉備がふるさとなら何の不思議もない。
 矛の先から滴らせた塩が積もって国となったとはいかにも塩生産の盛んな地域の神話らしい。瀬戸内の塩生産は縄文時代から行われていた伝統の産業だ。
 児島に続く島々は朝鮮半島および中国大陸との交易に重要な海の拠点だ。つまりこの話がまとめられた時代は、吉備が瀬戸内海のいわば覇者になり、朝鮮半島地の交易を牛耳る立場なった1世紀頃のものなのではないかと思う。
 伊邪那岐自体の神話は瀬戸内に留まらない。親神としての伊邪那岐の神話は南九州にもある。もちろん北部九州にもその他各地にも伊邪那岐信仰は多くある。