青の一族

第1章 出雲と青銅器の時代——なぜ出雲は特別なのか


4 神話と書かれた歴史と民間伝承

4-1 出雲4-2 民話と風習 北と南


4―1 出雲

 ここで『記』『紀』の神話について、今まで見てきた考古学的資料や民間伝承とも照合し、考察してみたい。

『記』の大国主神の段までに出てくる地名で実際の場所に比定しうるのは以下の通り。
「伊耶那美命(いざなみのみこと)を比婆山(ひばのやま)に葬った」……島根県 安来市伯太町 比婆山(ひばやま)久米(くめ)神社
「伊賦夜坂(いふやざか)が黄泉(よもつ)ひら坂」 ……島根県 東出雲市揖屋町 揖夜(いうや)神社
「三女神が胸形(むなかた)の奥津宮・中津宮・辺(へ)津宮にいる」……福岡県 玄界灘 沖ノ島 大島 宗像市
「須佐之男が出雲の鳥髪に降りる」 ……島根県 鳥上山の西 横田町大呂付近
「須佐之男が須賀に宮を作った」 ……島根県 雲南市大東町 須賀 須賀神社
「大穴牟遅神(おおなむちのかみ)が兄弟と気多(けた)の岬に着いた」……鳥取県 鳥取市 白兎(はくと)海岸
「穴牟遅神が伯耆国(ほうきのくに)の手間山で赤猪を捕まえる」 ……鳥取県 南部町(旧会見(あいみ)町) 天万(てんまん)
「須佐之男が大穴牟遅神に宇迦能山(うかのやま)のふもとで住めと言う」……島根県 平田市
「大国主神が御大(みほ)の岬で少名毘古那神(すくなびこなのかみ)に会う」 ……島根半島の東端
「八千矛神(やちほこのかみ)が沼河比売(ぬなかわひめ)と結婚する」 ……新潟県 糸魚川市 沼河は今の姫川
「海から来た神が私を御(み)諸山(もろやま)に奉れと言う」 ……奈良県 桜井市 三輪山

 神話では大国主が山陰地方を統一していった過程がよくわかる。まず因幡の千代川(せんだいがわ)の八上比売(やがみひめ)と結婚する。日野川流域の会見では八十神(やそがみ)に殺されそうになるが難を逃れ、木の国の大屋毘古神((おおやびこのかみ)のところへ逃げていってまた災難に会うが助かる。その後大屋毘古のアドバイスで須佐之男命のところへ行き、その娘の須勢理毘売(すせりびめ)と結婚して宝物を手に入れ、それを以って八十神を討って国を作ったという。木の国の話では具体的な地名は示されない。
 その他の挿話で注目すべきは治療の話だ。赤裸のウサギに正しい治し方を教え、大国主自身が焼け死んだときは貝の女神たちが生き返らせる。彼は木ではさまれても無事だ。
 須佐之男のところでの話は青年通過儀礼だと考えられる。難題をクリアして初めて一人前と認められるわけだが、大国主はこれをやり遂げ、結果として大刀・弓矢を得て国を平定することができる。また須佐之男が大国主に宇迦能山本に住めといっているので須勢理毘売の本拠地は平田市で、つまり大国主は出雲平野を支配下に置いたことがわかる(2章7―2項参照)
 焼けた石をつかまえる話の赤猪は焼けた金属だ。金属集団ならではの話だと思う。
 その次に大国主は八千矛神という名前で高志国(こしのくに)の沼河比売と結婚する。私はこの話は出雲が平形銅剣を祭祀に用いた頃の話だと思う。その頃出雲は越に支配を広げ、越には後に四隅突出墳が作られる。その次に「大国主は大和に上ろうとして……」という表現がある。つまり、大和に進出したのだろうがここではその詳細は語られない。
 それから、阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)、少名毘古那神、御諸山の神の話があって、最後に須佐之男の系譜の大歳神(おおとしのかみ)と宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)のことが見える。
 少名毘古那は新しい金属の知識や技術を持って後からやってきて国作りを助けたのではないか。京都府亀岡市の鍬山(くわやま)神社には大国主が少彦名とともに治水工事をした様子が亀岡祭りとして残っているという。また石川県羽咋(はくい)市の気多大社の平国祭(へいこくさい)も同様の話を伝えている。〈クイ〉という語は〈杭〉のことでもあり、金属器を使って溝を掘り治水と田を作る工事を行ったこと、またその技術が想起される。大国主は言い伝えの通り国土開発の統帥者だったのだろう。
 さて、大国主が大和を制圧した話はないのだが、大国主が祭ったはずの御諸山の神大物主が大国主の幸魂奇魂とされたり、大和の大神、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)が大国主と言われることなどからも、出雲の一族が後に歴史書をまとめた権力者たちの祖先よりも先に大和入りしていことは間違いないだろう。話にあるように大国主は国を譲って隠棲したのだ。しかし、『崇神紀』には「疫病がはやったので大物主神と倭大国魂を祭った」とある。倭の大国魂とは大国主のことだと後に言われる。さらに『崇神紀』には、「倭大国魂と天照大神をいっしょに天皇の居所に祭っていたが天照を外に出した」とある。これは、天の神である天照大神が譲ったかたちだ。『垂仁紀』には「崇神天皇は根本を祭らなかったので早死にだった」また、「御子が口をきかないのは出雲の大神の意志だ」という記述がある。それほど大国主は恐れられた。それはなぜだろう。
 神話を読めば大国主神は怪我や病気の治療に秀で、殺しても生き返る不思議を具えているのがわかる。三諸山の大物主は祟りの神であり酒の神だ。少彦名も酒の神とされる。酒は古代においては薬でもある。狭井(さい)神社の東北にある山ノ神遺跡からは醸酒に関係する珍しい土器が出土した。万葉集の三輪の枕詞は〈うま酒〉だ。ここで酒造りが行われていたのだろう。
 大和の山辺地域に伝わる祭りを調べてみると、
●鎮花祭(くすりまつり) 狭井神社 祭神は大物主の荒魂で忍冬、ゆり根を奉る
崇神天皇のとき疫病がはやり、大田田根子(おおたたねこ)に大物主を祭らせたのを起源とし、垂仁天皇のとき勅命で渟名城稚姫(ぬなきのわかひめ)が創祀したと伝わる。必ず行うべしという祭り。
●三枝祭(ゆりまつり) 率川(いさかわ)神社 祭神は媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)
推古天皇の勅命により始まったとされる。文武天皇の『大宝年中』(701年)に記録がある。ゆりは薬草。
●網腰神社(夏越(なごし)の社) 祓戸(はらえど)の大神を祭る(『延喜式神名帳』)
 おんぱらさん
 これらはみな疫病除けの祭りだ。『記』「神武段」で神武が比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)を娶る話のところでは、「姫の家は狭井河のほとりにあって山百合がたくさんある」とわざわざ書いている。狭井川は別名薬川だ。また、狭井川流域は今でも出雲屋敷と呼ばれているという。『紀』に「療病の方法を定め、害獣・虫まじないはらう法を定めた」とあるように、大国主は薬や疫病を払う力を持っていると考えられていて、薬を扱う家柄の姫と結婚することでさらにその性格を強めたのではないか。
 だから私は、『神武記』の神武と伊須気余理比売が結婚する話は、実は大国主が本来の主役ではないかと考えている。『紀』では神武の妻は媛蹈鞴五十鈴媛となっている。
 また前述した伊和大神は、播磨の宍粟(しそう)郡・揖保郡を中心に風土記に伝説が残る神で酒造りに携わったらしい。伊和の神が大国主とともに大和に入り三輪の神になったのではないかとも考えられる。その後その後裔は大和盆地から伊勢に進んでそこで国づくりをしたので伊勢津彦の伝説ができたのだろう。
 大国主とは当然一人の人物ではではないだろう。その名は出雲族の首長を指し、長期間にわたって各地で国土開発をし、人々に影響を及ぼした。
 島根県赤来市赤穴八幡宮の宮司、倉橋家に伝わる『家伝殺虫散』(1600年頃)はウンカと猪の防除について記す中世唯一の農薬指南書で、この種のものとしては最古の記録だという。また、出雲の人々は民間療法を伝えて全国を歩いたという。大国主はそうした疫病祓いの伝統の祖でもあった。また、少彦名神を祭る神社も各地にあるが、薬の神として祭られているところが多い。
 銅鐸は古来虫を封じる道具だった。そして上に述べたように大国主は疫病よけの象徴だった。しかも国土開発の功労者だった。その人物を、『記』『紀』には力ずくではないとは書かれているものの、本当は武力によってその地位から追い落としたに違いなく、それを強行したいわゆる天孫は後味が悪く、また恐れもしたのだろう。そうした観念が大国主の祟り神という側面を生んだのだと思う。『紀』で大国主を追った勢力が「現世のことは天孫に任せ、大国主は冥界の王となれ」と言っている。『紀』が編纂されたときには大国主は冥界の王という認識があり、彼の存在は「死」に関連づけられていた。
 後の天皇たちも大国主を恐れた。推古天皇は600年頃の女帝だが、この治世の間に大地震が起こり天皇は宮のある飛鳥の四方に神社を建てて大国主を祭ったという。この話を伝えるのはその神社のうちのひとつ、兵庫県西宮市の大国主西神社だ。このように大国主は祟り神だった。それが『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこかむよごと)』にもつながるのだろう。これは出雲の国造がその任につくときに1年間の潔斎の後に朝廷で賀詞を述べるもので、その内容は「大穴持は国を譲った。皇孫の都を自分の魂や子供たちに守らせ、天皇の御世が永久であるように祝い奉仕する」という約束だ。その確認のための儀式は716年から833年まで15回あったという。実に百年以上も続いたわけだ。
 以上考察したように、出雲は長く続いた銅鐸の祭りの発信地であるとともに、原料の供給地でもあった。出雲は広範囲な銅鐸祭りの信奉者たちの共通した祖先的存在だった。金属集団はその技術で魔術師的要素をまとっており、そこから巫女が発生したが、大国主は実質を伴った疫病除けの神でもあり、それが転じて祟り神になって語り伝えられた。また大国主は実際に国土開発の功労者であって人々の尊崇を集めた存在でもあったのだろう。私はこうしたことが出雲と出雲の人々が特別だった大きな理由だと考える。
 もうひとつ、大国主の話は『古事記』に詳しいが、これを編纂・献上したという太安万侶は多氏(おおし)の出だ。なぜ大国主が特別なのかの理由はそこにもあると思われる。上に書いた『神賀詞』の儀式は奈良時代に始まる。その理由も多氏に関係があると私は考えている(8章7項参照)

4―2 民話と風習 北と南

『白雪姫』の話に出てくる小人たち(ドイツ語ではZwerg英語ではDwarf)は鉱山で働いていた。北欧神話の妖精ドウェルグは武器や宝を作る優れた匠だ。dwarfもまた鍛冶や工芸をする伝説上の種族とされている。今は英語でdwarfといえば小人のことだ。大国主と共に国造りを行った神、少名毘古那は小人だった。新羅の伝説上の王、脱解(だっかい)にも小童だったという話がある。彼は57年から80年までが在位とされる。この頃まだ新羅の国はできていないが、弁辰地方は優れた鍛冶技術を持っていた。また、大分県宇佐八幡宮の『託宣集』には「八幡神(鍛冶神)は竹葉に乗った3歳の童だ」とあるそうだ。これらのことからも少彦名は鍛冶関連の渡来者だったことがうかがわれよう。
 木を引き抜いて青や白のリボンをつける祭りはテュルク・モンゴル系のものだという。『記』『紀』『古語拾遺』にもこれとそっくりの儀式の仕方が描かれる。モンゴルでは5が聖なる数字で、日本の神話に登場する天孫降臨の五伴緒(いつとものお)などに反映されている。また相撲は高麗技と呼ばれ豊作祈願のパフォーマンスだった。モンゴルで相撲に似た格闘技が盛んなのは周知のことだろう。遼寧式銅剣の源は、中国の影響もあるもののボルガ地方まで行くらしく、刀子や鏡も同様だという。オルドスの剣の鋳型といい、初期大和政権の中心となる文化は朝鮮半島のさらに北からやってきたしるしが多くある。事実、百済も新羅も自分たちの祖先は高句麗だといっている。朝鮮半島にその名の残る扶余は高句麗のさらに北の民族だった。シベリア、イエニセイ族のシャーマンの冠は鹿の角飾りで、南ロシアが源らしいが、扶余の鹿を信仰する風習が日本にも伝わってきたとする説がある。鹿にまつわる祭りやトーテムは日本にも多い。応神天皇と名を取り替える敦賀の気比大神は伊奢沙和気(いざさわけ)というが、イザサは朝鮮語で鹿を意味するらしい。
 しかし、日本に縄文時代から根づいている風習は南からのものだと思われる。主に太平洋側の地域にそれらが強く残っていて、神話にも南方海洋族の伝承と考えられるものがある。台湾の原住民に、大洪水の後に生き残った兄妹が岩の周りを回って結婚し子孫を残す話が伝わっているという。これは伊邪那岐・伊邪那美の柱を回って結婚する話と共通だ。日・月・海の三兄弟が天父と地母の間に生まれたという話はインドシナ、ミクロネシアのギルバート諸島に見られるという。
 もうひとつの南の特徴は母系社会だ。伊邪那岐・伊邪那美神話で女のほうが先に声かけするのは古い時代の母系社会の名残で、南の風習だ。後に権力を握った北方の勢力が男主導の社会の実現のために男が先に声掛けするように改めたのだろう。父系出身原則が公的に成立するのは7世紀末で、その前は父から子への権力移譲はなく、いとこやまたいとこが族長を継ぐのもあたりまえだった。子供は母のもとで育てられるのが原則だから、力を持つ豪族の娘を妻や母に持つことが重要だった。また生活習慣でも、例えば南方ではかまどは家の外にあるが、5世紀頃から家の中に作る北の習慣が定着してくる。徐々に朝鮮半島の習慣が南にとって変わるようになるが、母系社会はかなり根強く残ったのだ。
 南は水平志向なのに対し北は垂直志向だ(天から降りるなど)。周りの自然が海か山かの違いでそうなるのは当然とも言える。日本の神話は北と南が融合した構造になっている。