第2章 弥生後期までの各地の動静——神武の東征はあったのか 北部九州の神話が少ないのはなぜか
6 海洋族と海の道
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6-1 安曇氏・久米氏・宗像氏/6-2 太平洋側のルート/6-3 田村遺跡/6-4 竹島古墳
弥生中期頃から人々の移動が激しくなるが、これには船が大きな働きをしたに違いなく、海洋族の活躍を思わずにはいられない。海で活動するのが仕事だから、海洋族の陸地の本拠地は一応想定できるものの、土地に長く蟠居する豪族たちとは性質が違う。彼らの行動は広範囲をカバーする。どういう海路でどういった人々が行き来したのか。
6―1 安曇氏・久米氏・宗像氏
海洋民族といえばまず安曇(あずみ)氏だ。この氏族の名前は『記』の祖先を述べる記述に真っ先に出てくる。安曇氏の本拠は福岡県志賀島とその東の粕谷地域で、日本海・瀬戸内海・淡路島を含む地域に勢力があったという。渥美半島の〈アツミ〉は〈アズミ〉だろうと言われている。そして信州にも安曇の名を残している。近江にも安曇(あど)川がある。
しかし安曇氏より古い海洋氏族は久米氏なのではないかと思える。『記』の神武の大和入りに同行する大久米は目に刺青をした南方海洋族の風俗だ。久米氏の本拠地は志賀島と言われる(安曇氏発祥の地は福岡の東の粕屋という説もある)。志賀島は奴国に贈られた魏王の金印が発見された場所だ。福岡県糸島市の久米神社には志賀海積(わたつみ)三神が祭られている。上・中・下の小童の神だという。『記』『紀』神話に出てくる上・中・下の三海神は別の名になっている。『記』『紀』の時代には久米氏自体が大伴氏の配下としての地位でしかない。しかし古い時代、たぶん大国主の時代にいちばん活躍した海洋族は彼らだったのではないか。
久米氏の名は至る所に残っている。島根県比婆山久米神社の祭神は伊邪那美命だ。また伯耆国衙(こくが)(律令制の役所)が鳥取県西部にあったが、ここの古地名は久米郡八代郷だ。岡山県にも津山市の南に久米郡がある。また、愛媛県松山市の南一帯は久米評(こおり)だったがここは古墳の集中地域だ。香川県の松山市に久米池南遺跡があるがこれは弥生中期後半からの村で、高松平野中央部の村に対して軍事的優位に立った村だという。さらに南の海には久米島もあるので、相当広範囲に活躍した力のある海洋族だと思われる。
〈クメ〉は〈クマ〉でもあるので、いわゆる熊襲のクマは久米氏のことだという説がある。私も球磨川流域は久米氏が住んだ場所ではないかと思う。しかし隼人が久米氏だとは思えない。隼人は南方種族だが、久米氏は初期の大和政権と深い関わりがあり、大和政権は朝鮮半島との関係を抜きには語れないから、伝承の通り北方、つまり玄界灘が本拠だろうと思う。
一般に久米氏は海洋族ではなく軍事氏族だと言われる。しかし初めから軍事だけで成り立つ氏族はいない。先にも述べたように、船を操る人々は金属や帆の製作などの特殊技能を持っていた。その中で金属に特化すれば武器を持つ軍事集団になる。久米氏は金属製品製作を行いつつ、船で他国に乗りつけそこで軍事行動を行う氏族になっていったのではないか。彼らの神が小童だというのも金属製作集団を思わせる。
久米氏が安曇氏に先んじると考える理由はもうひとつある。渥美半島の東、浜名湖までの地域は三遠式銅鐸が集中する地だという。三遠式は200年頃に作られた銅鐸のいわば最終形で、濃尾平野で作られたという。銅鐸は先に述べたように出雲勢力と深いつながりがあるが、その最後の形が安曇(=渥美)の名とともにあることは、安曇氏が後代に出たと想像できるのではないか。
さらに後代になると玄界灘に宗像(むなかた)氏が出る。本拠地は志賀島のすぐ北の宗像市周辺だとされているが粕屋という説もあり、つまり安曇氏と同じだ。久米氏の時代には志賀海積三神だったものが宗像三女神に変わっている。これは朝鮮半島での軍事行動が活発になる4世紀頃に筑前大島・沖ノ島が重要な航路となったからだろう。沖ノ島祭祀は4世紀後半から9世紀まで続くという。時代の古い順に久米氏―安曇氏―宗像氏と繁栄する海洋氏族が移り変わったようだ。
6―2 太平洋側のルート
東日本、とりわけ伊勢や尾張の人々はどのように朝鮮半島と接触を持ったのだろうか。ひとつは若狭湾経由の接触があっただろう。実際、若狭と伊賀や尾張との関連を示す事象はある。しかし九州の南から四国・紀伊半島を経由して伊勢湾に達する海の道もあったに違いないと私は考える。
1章2―1項で弥生中期初頭の佐賀平野と前期の和歌山御坊市に松菊里型住居の跡があったこと、弥生中期初頭に名古屋の朝日遺跡で銅鐸生産の跡があったことを述べた。
2章3―1項で宇土半島と濃尾平野の赤い土器(山中式)の共通点を指摘した。神話では日向に天孫が降りるときに伊勢の神々が同伴する。南九州と伊勢湾氏族との緊密なつながりを考えざるを得ない。
縄文時代の紀元前8世紀~4世紀にかけて朝鮮半島から雑穀が伝わったことは述べた。その際に宮崎から東に向かい四国の土佐に達するルートがあった。その行き先はたぶん田村遺跡だった。
6―3 田村遺跡
高知県南国市の田村遺跡は九州以外で例外的に早くから稲作が行われていたところだ。遺跡には縄文から弥生にかけての頃に松菊里型住居が見られる。田村遺跡で作られた松菊里型土器そのものも出土しているが、実は遠賀川式土器よりさらに古い段階の土器がここにあった。形は縄文晩期の深鉢だが技法は弥生時代のもので遠賀川式ができる移行段階の土器と考えられるという。弥生前期初頭には既にここに太形蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)・柱状片刃石斧(ちゅうじょうかたばせきふ)・扁平片刃石斧・磨製石包丁・磨製石鏃があり、前葉には磨製石鎌と磨製石剣が加わって、大陸系磨製石器が出揃う。水田は前期中葉に営まれた。そのほか36個の管状土錘(どすい)(土製の漁網のおもり)が出土。他に例を見ない多さだ。漁業の営みが盛んだったことがわかる。
高知では文化は西の九州から順に伝播したというより、田村から東西に広がったと言える。弥生中期後半から中部瀬戸内の土器の手法が流入する。中期末から後期初めにかけて青銅器が入る。田村を境に高知の西側は矛、東は鐸だ。
四国山地を東に流れる吉野川流域の松ノ木遺跡や銀杏ノ木遺跡は、縄文以来瀬戸内と太平洋を結ぶ要衝だという。後期前葉の松ノ木式土器のように、瀬戸内と太平洋沿岸双方の文化を取り入れた独自の土器形式を生み出して広域にもたらした例もある。しかし、田村では土器の手法は瀬戸内から強いインパクトがあったものの、瀬戸内の青銅器の平形銅剣はまったくない。土器は使い勝手のいいものを選ぶことが優先されることがある。それは思想的な文化を共有するのとは違う。田村遺跡は黒潮が運ぶ南九州の文化と瀬戸内の文化と思想が出会う場所、南九州と近畿をつないでいた【図15】。これは伊勢湾沿岸と九州が海の道で直接交流していた証拠のひとつだ。
図15 田村遺跡 『南土佐から問う弥生時代像 田村遺跡』から

田村遺跡は弥生中期後葉に衛星集落とともに消滅する。その時期は瀬戸内流通網が機能し始める時期に重なる。
6―4 竹島古墳
竹島古墳は山口県周南市にある4世紀前半の前方後円墳だ。正始年号銘の三角縁神獣鏡(250~300年頃のもの)が出土しているが、呉(ご)製の劉氏作神馬画像鏡も出ている。魏(ぎ)と呉の鏡が同時に出たのはここだけだ。つまりこの地域の盟主は初期大和連合の一員として魏と交流を持ったほかに、呉ともたぶん独自のルートで連絡していたことになる。これも南海の道があったことの傍証だ。愛媛県の愛南町や宇和島市には大分県姫島産の黒曜石を交易する拠点集落遺跡がある。これも豊後水道を行き来する縄文時代からの海の道だ。
ここまで各地の弥生後期の様子を遺跡を中心に見てきた。弥生後期には大きく分けて北部九州・出雲・瀬戸内・丹後・濃尾平野といった地域に大きな勢力ができてきたこと、そしてこれらの地域は海の道を通してそれぞれが交流していたらしいことがわかった。奈良盆地はそうした勢力が早くから入植を始め、いろいろな氏族が混在する場所だった。西日本では奈良盆地が最も大きい平野だったから自然のなりゆきだ。当時はまだ海岸線が現在よりずっと上にあって、大阪平野はまだ平野と言えるほどの土地がなかった。奈良盆地、大和の地は弥生後期から数えて約800年間権力の中心地となる。
『記』『紀』の神武神話はこうした各氏族の大和入りの様子を描いたものだと私は考えているが、前述した伊邪那岐・伊邪那美神話と神武神話の間に高天原神話がある。ここに登場する神々について検討する。