青の一族

第2章 弥生後期までの各地の動静——神武の東征はあったのか 北部九州の神話が少ないのはなぜか


5 大和盆地


5-1 唐古・鍵遺跡5-2 大和盆地の集落の変遷

5―1 唐古・鍵遺跡

 大和盆地の三輪山の南北には古墳時代初期の大古墳が集中するが、この地に弥生時代から古墳時代まで絶えることなく続いた集落跡が唐古・鍵遺跡だ。唐古・鍵は土器の出土量から言っても、他地域との交流の範囲から言っても他に抜きん出た弥生時代の中核集落だ。大和の中心と言っていい村なので、この遺跡の弥生前期からの推移を見てみる。
 唐古・鍵には弥生前期に稲作技術を持った集団が移住してきたようだ。中期の方形周溝墓の人骨が復元されて、顎の骨のきゃしゃな大陸系の人だということがわかった。集落は西・北・中央・南の地区に分かれ、それぞれが初めは溝で仕切られていたが後に全体を囲む大環濠集落に発展する。各地区に違った特徴があって初めから出自の違う集団がそれぞれに入植したのではないかと考えられる。
 初めは西地区が中心で、弥生時代最古の大型建物があった。その柱は紀元前5世紀のものもあり、建物自体もっと古いものがあった可能性もあるという。前期から中期にかけて、二上山のサヌカイト製石器と石包丁をここと中央地区で生産していた。木器未成品の貯蔵穴もこの地区にあって周辺地域に器材を供給していた。鶏の頭部の土製品が出土しているが、これは山陰の影響と思われる。また中期中頃に4―3項で述べたイノシシの下顎の骨を吊り下げる祭りを行っていた。この祭祀跡は池上曽根遺跡のほか岡山県の南方(みなみかた)遺跡からも出ている。弥生中期後半に瀬戸内、特に吉備からの搬入土器が増え、西地区で吉備の大型壺が出土している。
 中央地区では吉備の大型器台が出土した。中央地区では玉造りをしていたようだ。姫川産のヒスイも出土している。ここの石包丁生産は中期に素材を紀ノ川産の結晶片岩に変えて行われた。また井戸祭祀は全村で行われたが、中期の中央地区の井戸に生駒西麓産や摂津産の水差しや尾張産の壺が供献土器として廃棄されている。
 南地区では中期中葉の終わり頃には青銅器の生産が始まっていて、中期末から後期初頭にかけて集中的に銅鐸や武器形青銅器、おそらく鏡や釧(くしろ)も生産されたが、その後急速に終息し、生産拠点は盆地南部の大福遺跡に移ったらしい。しかしその生産量は膨大で他の遺跡に抜きん出ている。南地区で中期後半から後期初頭頃の土器に楼閣の絵が描かれたものが出ている。その他の絵画土器も南地区に多い。少量だが鉄器も出ている。北部九州では中期の後半に高殿祭祀が盛んになったが、青銅器生産や祭祀のしかたから、南地区に来た人々は北部九州出身者ではないかと思われる。後期初頭には木製品生産体制も南地区に集約されていく。
 さて唐古・鍵遺跡で暮らした人々はどこから来たのだろう。稲作技術を持っていて面長の大陸系なら遠賀川の人々だろうと想像される(だが、最初の入植者が遠賀川系とは限らない。復元された人骨は弥生中期のもので前期とは相当の時間の開きがある)。そして西地区には山陰を経て瀬戸内からの人が、中央地区には淀川流域を通じて北陸からの人が、南地区には北部九州の人が来ていたように見える。村の変遷はいろいろな時期に様々な地域からの入植があったことを表している。実際この遺跡の出土品は半径300キロメートルの交流範囲を示すという。
 注目すべき点は、唐古・鍵遺跡への前期から中期前半の搬入土器は伊勢湾からのものが多いことだ。これは少なくとも最初期の頃から大和盆地と伊勢湾地域は交流があり、伊勢湾からの入植者がいたか、伊勢湾の土器が優秀で大和の人がこれを入れたかのどちらか、あるいはその両方のどれかが事実だったということだ。
 以上見たように、人々は様々な地域から様々な時期に移住してきている。先住者を頼って後から故郷を同じくするものが住み着くこともあり、それが集落やひとつの集落内でもグループを作ることがあったのだろう。実際銅鐸の同笵関係や後の銅鏡の分有関係から見ても、氏族間にはかなり広範囲で複雑なネットワークができている。これは移住が長期間にわたって分散して行われたのであり、大掛かりな1回の軍事行動の結果ではないことを示している。唐古・鍵に限らず弥生時代は、地域が狭いために耕作地の奪い合いをする必要がある場合以外は、住み分けをしつつよそ者も受け入れるのが基本だったと考えられる。
 弥生後期末、180年頃に唐古・鍵遺跡の南東に纏向遺跡が出現するが、それと時を同じくして唐古の環濠が埋められ、村に人の往来が少なくなる。弥生中期末に周辺母集落が廃絶する中、ときに洪水の被害にあいながら営々と続いてきた唐古がとうとう侵略された様子だ。だが村は廃絶したわけではなく細々と経営は続いていた。そして土器年代の布留(ふる)式(300年頃)から周りの衛星集落とともに復活する。一方、纏向は340年頃突然消滅する。

5―2 大和盆地の集落の変遷

 唐古・鍵遺跡は纏向の出現前まで大きくなり続けた突出した母集落だったが、大和盆地の他の地域では、高地性集落の出現や中核集落の廃絶もあった。
 弥生前期に唐古・鍵が中核集落になり、その後保津・長柄に分村する。南部では東新堂から三輪・大福が分村する。弥生中期前葉にはさらに分村し、美濃庄・平等坊(びょうどうぼう)・岩室・多・中曾司・四分・三倉堂ができる。その後に佐紀・岡・鴨津波(かもつば)・竹之内などに新村ができる。
 弥生中期の青銅器の出る遺跡は唐古・鍵遺跡のほかに平等坊・岩室遺跡・中曽司遺跡・勝山池遺跡だ。天理市・桜井市・橿原市周辺にある。それから御所市の鴨都波遺跡と斑鳩町の神南(じんなん)遺跡がある。神南遺跡は二上山の北の大和盆地に入る隘路にある。
 そして弥生中期後葉に曽我川上流に高地性集落が現れる。その後盆地南西部の鴨津波、その北の中曽司が廃絶し、続いて盆地東部に高地性集落ができる。このとき母集落が大幅に廃絶したが、集落自体はその後爆発的に増加したという。これは侵攻勢力がかなり大規模に新しく大和盆地に定住したということだろう。これとは別に中期後半から末にかけての時期に大洪水に見舞われ、地域の統廃合が進んだということもあったらしい。
 弥生後期の青銅器遺跡はまず、唐古・鍵から移った大福遺跡があって、それから広大寺池遺跡(奈良市池田町)・佐紀遺跡・竹之内遺跡(北葛郡当麻町)・萩原遺跡(駒市平群谷)と、全体に大和盆地の中から外に向かって分散したように散らばる。広大寺池は和邇(わに)氏の本拠地に近い。佐紀は纏向に続く大古墳密集地だ。竹之内は葛城氏の本拠地で交通の要衝、萩原は平群(へぐり)氏と、のちに大和朝廷で力を持つ氏族の土地に分散している。言い方を変えれば、そうした氏族が勢力を伸ばし大和盆地を窺う態勢になったということではないか。
 以上見たように、唐古・鍵では弥生後期に南地区の九州系と思われる人々の活躍がめざましい。村のこの位置に青銅器工房を設けた理由は、吹き降ろしの風が炉の温度を上げるのに良いからということがあったらしい。そうした技術を持っていたのが九州から来た工人だったとも言えるかもしれない。また、高殿の絵のある土器が出土しているので、彼らは大阪湾型銅戈の集団の一派だったかもしれない。
 しかしそれも長くは続かず、すぐに盆地南部に新勢力が現れる。そしてそれまでの青銅器遺跡は廃絶してしまう。