青の一族

第8章 6世紀—豪族たちの抗争


6 敏達天皇


6-1 敏達天皇の名6-2 6世紀の新羅と倭6-3 蘇我氏の政策


6―1 敏達天皇の名

 欽明は任那を回復せよと言い残して没する。そのあとを継いだのは敏達天皇だ。
敏達天皇に至る系譜は『紀』では以下の通り。
系図

 敏達天皇の諱は〈おさだのぬなくらのふとたましき〉だ。〈おさだ〉は大和にある彼の宮の場所だ。〈ぬなくら〉の語は、『神功紀』「住吉三神が三神の和魂(にきみたま)を大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)に祭るように託宣した」に見える。住吉大社はもとは摂津(神戸市東区)にあったともいう。〈ぬなくら〉は水がたまった場所を示す言葉だと推測されるが、摂津国菟原(うばら)郡住吉郷(神戸市東灘区)がヌナクラだったという説がある。いずれにせよ〈ぬなくら〉は神功皇后にゆかりの名だ。敏達の曽祖父にあたる仁賢天皇は播磨(神戸市西区周辺)にいた。祖父にあたる宣化天皇は多治比氏と猪名川流域の氏族に関わりが深い。また、神功皇后といえば新羅との関わりも深い。

6―2 6世紀の新羅と倭

 8章2項で述べたが、6世紀に新羅は着々と朝鮮半島制覇の道を歩んでいる。540年には安羅が新羅に併呑され、562年に新羅は大伽耶に総攻撃をかけ、すべてが新羅に併呑された。
 安羅が新羅に併合される前年の539年に欽明天皇が即位している。『欽明紀』は、それから20年の間に新羅が大伽耶に侵攻していくのを百済に阻止させようと倭が援軍を出す様子を詳しく伝える。しかし、前述したように、倭軍の中には新羅に通じている者もいた。その中心人物が敏達天皇だったのではないか。『紀』によると欽明15年に敏達は皇太子になる。すると、21年、22年には新羅からの朝貢がある。23年には新羅は任那を滅ぼすのだが、その同じ年に倭に朝貢もするのだ。
 これには高句麗の影響も大きかったと思われる。弱体化したとは言え、まだ高句麗は大きな国には違いなく、これが新羅に対抗するため倭に修好の使節を送ってきたからだ。『欽明紀』によると欽明26年、565年に筑紫に高麗人が来て山背国(やましろのくに)に置かれ、570年には高句麗の使節船が加賀に来航して正式な国交が始まった。571年に欽明が没し、敏達が即位する。高句麗は573、574年と続けて越に使節を送り、574年に敏達は新羅に圧力をかけ金官国から調を取ることに成功した。これは習慣となって645年の大化の改新頃まで続いたようだ。
 高句麗も668年に滅亡するが、そのあとに興った渤海は、727年を皮切りに倭に対して200年間に34回の使節を派遣している。朝鮮半島の東を通っての交流は能登、山城から大和に入る。この道筋に当たる地域は継体天皇の地盤でもある。
 敏達天皇は神功皇后から継体天皇に至る若狭・近江勢が奉じる天皇だったと思う。

6―3 蘇我氏の政策

 蘇我氏が欽明の後すぐに一族の血を引く用明を天皇の地位にすえなかったのは、力をつけた新羅に対抗するには敏達の影響力が必要だったということではないか。しかし、敏達を天皇位につけるにはたぶん条件があった。敏達が、欽明と堅塩媛の娘の額田部皇女(推古天皇)を皇后にすることだ。敏達の最初の妻は息長真手王の娘の広姫(ひろひめ)だったが、『紀』によれば彼女が皇后だったのはわずか七か月ほどだ。広姫が亡くなったので、18歳の額田皇女が皇后になったと『紀』は記す。広姫は押坂彦人大兄(おしさかのひこひとおおえ)・逆登皇女(さかのぼりのひめみこ)・菟道磯津貝皇女(うじのしつかいのひめみこ)を生んでいる。後の天智・天武天皇の祖父が押坂彦人大兄だ。だから記録上、広姫が皇后だった期間を作らないわけにいかないのでこうした記述になったものか。あるいは広姫は排除されたか。いずれにしても蘇我氏が国際情勢を踏まえつつ自らの勢力を伸ばすことを考えた結果と言えると思う。
 蘇我氏にとってもうひとつの重要な施策は吉備を抑えることだった。吉備は新羅との親交が深い。『欽明紀』16年に「蘇我稲目が穂積磐弓(ほづみのいわゆみ)に命じて吉備五郡に白猪屯倉(しらいのみやけ)を置かせる」、17年に「備前児島郡に屯倉を置き、葛城山田直端子(かずらきのやまだのみつこ)を田令(たっかい)とする」という記事が載る。吉備は屯倉だらけだという。蘇我稲目が中心となって吉備の解体を実行した。それとともに彼は各地の津を整備した。宣化元年、536年に筑紫に那津(なつの)宮家(みやけ)を置いたのも、那珂川の掘削工事を指揮したのもたぶん稲目だという。
 蘇我氏は570年頃には敦賀から山城の相楽(さがらか)に至るルートを整備し、高句麗との国交を進める。古市大溝・丹比道(たじひみち)の整備にも蘇我氏が関わったという。これは当麻から丹比に抜ける道で、7世紀初頭、推古朝に官道の竹内道として整備された。今の国道166号線にあたるようだ。また斑鳩町の龍田神社を通る龍田道は大阪に入ると渋川道と呼ばれ、6世紀には物部氏の統制下にあった。当時、大和盆地から大阪湾に至る今の大阪平野地域は広く物部氏の領地だった。長瀬川・大和川・渋川道・龍田道はみな物部氏が掌握していた。それをわがものにしようとした蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす事件が起きる。587年の丁未の役だ。
 こうして敏達天皇没後はしばらく蘇我氏の天下になる。