青の一族

第8章 6世紀—豪族たちの抗争


7 出雲国


7-1 6世紀の前方後方墳7-2 意宇郡と多氏7-3 出雲国造神賀詞


7―1 6世紀の前方後方墳

 前方後方墳は美濃地方に発した墳形だが東の勢力のしるしでもある。古墳時代初期には作られたが、前方後円墳勢に押されてその後は消えていた。ところが6世紀の中頃に出雲国西部に94メートルの前方後方墳、山代二子塚古墳ができる【図42】。
図42 6~7世紀の出雲の古墳(『古墳時代の王権と集団関係』から)
6~7世紀の出雲の古墳
 6世紀の古墳は、前半は継体天皇関連のものが大型で、後半には雄略の陵墓参考地に治定されている。河内大塚山古墳(羽曳野市335㍍)と、欽明天皇陵と言われる見瀬丸山(みせまるやま)古墳(橿原市318㍍)が突出している。しかし、それ以外の古墳は数も規模も大幅に縮小し、西日本で100メートルを超える古墳は大和の梅山古墳(明日香村140㍍)、福岡県久留米市の田主丸大塚(たぬしまるおおつか)古墳(103㍍)、総社岡山県市のこうもり塚古墳(100㍍)の3基だけだ。関東には広い範囲に14基あって、そのうち4基が行田市にある。一般に関東は流行が遅れてやって来る傾向がある。近畿で古墳造営が下火になっても関東ではまだしばらく作られ続ける。
 そうした状況の中で、出雲の94メートルという規模はかなりの勢力の存在を示す。しかもこの時期にきて前方後方墳だ。これは誰が作った古墳なのか。
 島根県松江市を流れる意宇(いう)川の中流のほとりに山代二子塚古墳はある。出雲国の源流は宍道湖の西、銅鐸出土で有名な荒神谷遺跡などのある出雲市を中心とした地域だと言われる。それに対して東の松江市に5世紀末頃から急激に台頭した勢力によって山代二子塚古墳は築かれた。そこは意宇国(おうのくに)だ。6世紀後半には、24メートルと小規模ながら、「額田部臣」の銘が象嵌された鉄剣が出土して有名になった岡田山1号古墳ができる。
 意宇国は4世紀末に松江市に作られた前方後円墳、廻田(さこた)1号古墳(真名井古墳58㍍)から始まったという。松江市には5世紀末から始まる須恵器生産の大井窯跡がある。安来市にも門生(かどう)窯跡がある。この頃土器製塩も始まったようだ。大井窯は6世紀後半には窯業を独占する形になった。こうした殖産事業を通して意宇国は力を伸ばしたようだ。
 6世紀の中頃、ここでは新しい葬送習俗を採用する。〈脚付き子持ち壺〉という特殊な須恵器を古墳の周囲にめぐらし、石棺式石室を作るものだ。
 6世紀の中頃から後半にかけては西地域にも大念寺古墳・上塩冶築山(かみえんやつきやま)古墳・妙蓮寺山古墳ができている。出雲市今市の大念寺古墳は92メートル、家形石棺があり副葬品も大王級で、6世紀後半に作られた。その後継者の墓が上塩冶古墳だとされる。『出雲風土記』の神戸(かんど)郡日置郷条に「欽明天皇のとき日置氏の部民が来て政治を行った」とあり、塩冶地区がそれに当たると考えられることから、大念寺古墳は日置氏のものではないかと言われる。
 日置氏は火を扱う氏族で、私は鴨氏の職掌を継いだ人々だと考えている。塩冶町とされる、『風土記』の塩冶郷・高岸郷には阿遅須枳高日子の記事があって、ここが彼の地盤だったと考えられる。日置氏が鴨氏の後裔である可能性もなくはないが、時代が離れている。それに彼らは畿内政権から派遣されてここにやってきたのだ。
 意宇国は松江市に始まり、しだいに倉吉市に至る地域にまで勢力を広げた。〈脚付き子持ち壺〉は6世紀の初頭頃に出始め、最盛期は6世紀後半から7世紀前半頃にあるが、6世紀末には西部地域もこの習俗を取り入れる。
 そして出雲に限らず6世紀以降の古墳は、前方後円墳が作られなくなり、多く作られたのは方墳だ。これは丹後の伝統の方墳とは無関係なのだろうか。

7―2 意宇郡と多氏

『出雲国風土記』にはまず意宇郡についての記載がある【図43】。
図43 出雲風土記地図 (岩波書店『風土記』から)
出雲風土記地図
 意宇の名は八束水臣津野命(やつかみずおみずののみこと)に由来するという。この神は『記』では須佐之男4世の孫で大国主の祖父だ。またの名を淤美豆奴神(おみずぬのかみ)・伊美豆努命(いみずぬのみこと)という。淤美豆奴は『出雲国風土記』の有名な国引き神話で知られる神様だが、〈イミズ〉の名が越にもある。越中国一宮は射水神社で、越中は伊弥頭(いみず)氏が支配していた。小矢部川流域が本拠地で、河口には国府関連遺跡がある。高岡市にある射水神社の祭神は邇邇芸だが、伊弥頭氏の祖は二上神とされ、元社といわれる二上射水神社は二上山麓にあって二上神を祭っている。二上という名は大和にもあるが、古くは九州の阿蘇の南にあった。射水神社の祭神が邇邇芸だということからしても淤美豆奴は九州系かもしれない。また高岡市には羽咋市から移したと思われる気多神社もある。
 羽咋は継体の地盤のひとつだ。物部氏によって継体朝は途絶えたが、これに従った勢力が全く消えてなくなったわけではないだろう。私は、出雲の前方後方墳を作ったのは若狭・近江・能登・越などに残った継体の同盟者だったと思う。自分たちの出自を示す文化を出雲の地で作り上げたのだ。具体的にはその中心は多氏だ。郡の名が〈オウ〉だということがまずそれを示している。多氏の祖はウズヒコだった。〈ウズ〉と〈イミズ・オミズ〉は似ている。
『記』には、「伊邪那岐命と伊邪那美命段」に、天照大神と須佐之男の誓約で生まれた菩卑命(ほひのみこと)の子の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)が出雲国造の祖とあり、「垂仁段」には岐比佐都美(きひさつみ)が出雲国造の祖とある。『仁徳即位前紀』には「出雲臣の祖の淤宇宿禰(おうのすくね)」が登場する。『先代旧事本紀』は天穂比の11世の孫の宇迦都久怒(うかつくぬ)が初代出雲国造だとする。『出雲国造伝統略』では17代の出雲宮司が初代国造となって出雲の姓をもらい、これは1214年の順徳天皇の下文(くだしぶみ)にあるとする。『出雲国造伝統略』にはこれらの人々がすべて含まれていて、16代に意宇足奴命という、『仁徳紀』にある淤宇宿禰と同一人物と見られる人が入っている。
 この淤宇宿禰が意宇国を始めた人だと考えると、古墳の築造時期にも『紀』の記述の時期にも合う。〈オウ〉の名は郡の名前以外にはあまり残っていない。多氏の後裔が出雲にいるという伝承はない。彼らは〈オウ〉氏から〈出雲〉氏に名前を変えたのだ。
 出雲臣の奉斎するのは熊野神社だという。熊野神社は久米氏との関わりの中で述べたが、非常に古く由緒ある社だ。祭神は加夫呂伎櫛御気野(かぶろきくしみけぬ)だが、現在は〈カブロキ〉は熊野を修飾する言葉で〈クシミケヌ〉が神の名であり、これは須佐之男と同一であるとされる。この考えは、9世紀の間に成立したとされる『先代旧事本紀』で既にそうなっているという。『出雲風土記』では〈カブロキ〉は伊邪那岐の子で単独の神だが、出雲臣は古い出雲の神と天照大神の弟である須佐之男を習合させたと考えられる。
『記』『紀』で、高天原から追放された須佐之男は出雲国の肥(ひ)の河上(かわかみ)に降りた後、須賀の地に宮の場所を定める。ここは雲南市大東町とされ旧大原郡だが、大原郡の東隣は意宇郡だ。多氏の力はこの辺まで及んでいたのではないか。須賀は西行する斐伊川の水源が近くにあるが、そのすぐ東に意宇川の水源もある場所だ。須賀神社があり、須佐之男と稲田姫、その息子の八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)(須賀神社では清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと))を祭る。『風土記』には須我社と見えるが、『延喜式神名帳』にこの神社の記載はない。
 私は須佐之男には新旧があって、古い須佐之男は斐伊川上流の山間部で鉱物探索または金属製作に携わった渡来人だと見た。その本拠地はいわゆる出雲市や平田市と斐伊川の西側野山地だった。出雲族の源流といわれるところだ。多氏はその歴史が自らの地盤に重なるように、須賀の地に須佐之男の宮を設定したのだと思う。

7―3 出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)

 意宇郡を中心に発展した意宇国は、6世紀後半頃から中央政権の圧力を受け国造の地位を受け入れたようだ。文化的には東が西を吸収していった形だが、中央からの移植組が西から増えていった。そして708年に忌部宿禰首(いんべのすくねのおびと)が国司としてやってくる。これは体制が国郡里制に移行したことを意味し、国造は廃止されるはずだった。しかし出雲については例外として国造称号の存続を許され、さらに意宇郡の郡司は親族を続けて任用することが許された。
 712年に『古事記』は献上された。このことで出雲の歴史の古さが改めてされた認識されたことだろう。出雲は国造から退くことにたぶん条件をつけた。それが716年に始まる『出雲国造神賀詞』の奏上だ。大国主の威光は偉大だったかもしれないが、この6、7世紀の多氏の隆盛がなければその後百年も続く神賀詞の伝統はなかっただろう。多氏は朝廷に従う形をとりながらも、実はそれより古い伝統を伝える氏族としての自らの存在をアピールしている。そうした思想が結実したのが『古事記』そのものだったと私は考える。