青の一族

第9章 7世紀、そしてその後


1 蘇我氏系と敏達系


 585年の敏達天皇没後、用明天皇が即位するがわずか二年で病死、後を継いだ崇峻天皇も592年に暗殺されて同じ年に女帝の推古が天皇の位につく。聖徳太子が摂政として活躍したことで有名だが、推古天皇時代は7世紀のほぼ3分の1、628年まで続く。そのあとは舒明天皇期が641年まで続く。舒明天皇が没し、その妻の皇極天皇が位について間もなく645年の大化の改新となる。欽明天皇以降の蘇我氏系天皇を系図で示す。
系図
 7世紀前半は蘇我氏が栄えた時代と言える。用明・推古・崇峻の三人の天皇は蘇我氏の血筋だし、欽明は一族ではないが蘇我氏の擁立で天皇になった人物だ。厩戸皇子は推古天皇のもとで長く摂政を務めた。また、蘇我氏の三皇子、穴穂部皇子・山背大兄皇子・古人大兄皇子は天皇の位を争ったと歴史に記される。
 蘇我稲目・馬子は街道や津を整備し、堀を作り、国家の建設に尽力した。推古天皇の時代には遣隋使が、舒明になって遣唐使も送られる。学問の師も高句麗や百済、新羅と幅広い地域からやって来ている。特に聖徳太子の時代には三韓と友好関係を結ぶ方針だったらしい。彼は冠位十二階や十七条の憲法の制定といった精神面での国家の柱を立てた。
 推古天皇28年条に「聖徳太子と蘇我馬子が天皇記・国記・臣連伴造国造百八十部・公民等の本記を記録した」とある。これが旧事・帝記のもととなり、そこから『記』『紀』の記述ができたと言われる。各氏族の歴史は5世紀後半に書かれ始めたが、それから170年余りたってそれらをまとめた公の歴史書ができたことになる。
 敏達朝に日祀部(ひまつりべ)が設置されているが、この時代には天の思想が高揚した。歴史の中心になる神が女性の天照大神なのは、歴史書編纂において天の思想を背景に、ときの推古天皇を天照大神に見立てたからだとも言われる。
 そして、蘇我氏ほど目立たないがこの時代のもうひとつの天皇系譜が敏達天皇と息長系だ。
系図

 舒明天皇の父の押坂彦人大兄は馬子に暗殺されたという説がある。しかし、舒明は蘇我稲目の後押しで天皇になったという説もある。舒明天皇の名は〈息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)〉で近江系だとはっきりわかる。実際、なぜ稲目が蘇我氏系の天皇を立てなかったのかは謎だ。一族の仲間割れを憂慮したとも言われる。
 ただ、押坂彦人大兄が実力者だったのは事実だと見られる。『延喜式』の「諸陵寮」に押坂彦人大兄の墓の領域が記されているが、それは仁徳天皇陵の十倍もあるという。彼はまた刑部や丸子部を支配していたという。丸子部は壬生部(みぶべ)の前身で皇子たちの領地のことらしい。刑部は全国に領地があるが允恭・雄略からの流れを受け継いだと見られる。押坂の名もそれを表している。
 6世紀後半に作られた牧野(ばくや)古墳(奈良県広陵町)が押坂彦人大兄の墓ではないかと言われている。50メートルほどの円墳だが、石室の長さが17メートルと最大級であること、石室の前壁が内側に傾斜していてそれは大王の仕様であったと見られること、副葬品が豪華なことなどから妥当な推測だと考える。
 前壁傾斜の古墳はほかに三瀬丸山古墳・赤坂天王山古墳・石舞台古墳・塚本古墳・水泥南(みどろみなみ)古墳・谷首古墳などがある。三瀬丸山は欽明陵、赤坂天王山は崇峻陵、石舞台は蘇我馬子、塚本も蘇我氏系と言われる。水泥南は巨勢氏系で、巨勢氏は蘇我氏没落その事業を引き継いだようだ。谷首は阿部氏系らしい。どれも大王級としておかしくない。これらはすべて大和盆地南部の明日香村周辺にあるが、牧野だけは馬見丘陵にある。
 中大兄皇子は押坂彦人大兄の財力を引き継いだことで政権の座に就いたという説がある。これも妥当だと思える。
 聖徳太子は蘇我氏だが、反飛鳥だったと言われる。奈良盆地の北に本拠地を移し、新しい政治を志したように見える。敏達・用明・推古天皇陵、聖徳太子陵はこちらに築かれた。
 舒明天皇没後、その妻の宝皇女が皇極天皇になる。彼女の父は押坂彦人大兄の息子の茅渟王だが、茅渟王の母は漢王の妹だとされる大俣王だという。この人の出自ははっきりしないが渡来系ではないかと思える。漢王という名がそれを表しているし、○○の娘ではなく、妹という記載があるときはまだ土地に根付いていない人々の場合が多いからだ。大俣や茅渟の名は大阪湾岸の地を思わせる。
『崇峻紀』に「新羅を討って任那を再興させるため、紀男麻呂(きのおまろ)を大将軍とする二万の兵を筑紫に集結させた」という記事がある。『推古紀』にも「久米皇子を将軍とする征新羅軍が編成された」とあるが、どちらも実行には至らなかった。任那、あるいは大伽耶地域で動乱があってそのときの亡命者があるいは漢王なのかもしれない。
 聖徳太子が大和の北に本拠地を置いたのに対して、皇極天皇は親飛鳥派だった。彼女の母は蘇我稲目の孫の吉備姫王だ。皇極天皇の宮は飛鳥に戻って営まれるし、『皇極紀』には病気の母を看病する天皇の様子が描かれる。そして天皇は百済系の蘇我氏同様、百済へ肩入れする。660年に唐と新羅の連合軍によって百済が滅ぼされた後、この時は重祚して斉明天皇になっているが、失地を挽回しようとして白村江の戦を起こす。遣唐使を送っていて、唐がどういう国か知っているはずなのに無謀というしかない。後の天智天皇も母には逆らえなかったか。白村江の戦の後、あわてて西日本数ヶ所に岡山県総社市の鬼ノ城のような城砦を築いて国防を固めている。