青の一族

第9章 7世紀、そしてその後


2 天智・天武朝


 天智9年(670年)に庚午年籍が作成された。全国・全階層をカバーした日本初の戸籍と言われる。
 戸籍は中央集権の要だ。天智天皇は中国の法律を範とした律令で国を治めようとした。中央集権への道は、天智朝に突然始まったものではなく、允恭や雄略時代から進められてきた政策だったが、天智・天武朝でやっと名実ともに天皇家が支配する朝廷と言えるものができたのだと思う。
 天武天皇が天智の息子の大友皇子を倒して政権を手に入れた壬申の乱では、豪族たちは既に一氏族がどちらかに味方する、いわば天皇を担いで豪族同士が勢力争いをするという従来の形ではなくなっている。豪族も分派が多く出てひとつの氏族の中でも意見が分かれ、それぞれが自分の支持する側について同族どうしでも戦っている。これもひとつの中央集権の形だろう。
 推古28年の天皇や公民の記録以来、国の記録は公式のものとなったのでこれより後のものは一氏族の思惑で書き換えられることはほぼなかったと考える。特に天皇の血統については記録を疑う必要はないと思われる。
 天智・天武の母、宝皇女は上に述べたように蘇我氏の母を持ち、蘇我びいきだった。天智・天武の父は舒明天皇で、彼の父母は両方とも敏達天皇の子だ。
 天智天皇の娘で天武の皇后の持統天皇の母は、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)の娘、遠智郎女(おちのいらつめ)だ。『古事記』の編纂を命じたという元明天皇は、天智と姪娘(めいのいらつめ)の娘で、姪娘も蘇我倉山田石川麻呂の娘だ。石川麻呂は大化の改新で蘇我氏にも関わらず中大兄皇子に味方したものの後に殺されてしまう。
 この時代の天皇家の血統は青の一族と蘇我氏の混合ということになる。

 有力氏族が入り乱れての抗争の末、最終的に7世紀にできた律令国家はどういう構成になったかというと、私の考えではすべての氏族が一つの鍋で煮たようにミックスされたものになった。出雲族は忍坂大中津媛を通して雄略天皇、そして継体天皇へと伝統をつないだ。吉備族は、一族としては雄略と蘇我によってダメージを受けたが、前方後円墳同盟の豪族たちの中に血脈が太く流れている。丹後王国も、青の一族として天皇家に最も強い影響を持った。渡来人の代表の物部氏・尾張氏もその後、貴族の仲間入りをしている。
 様々な氏族が複雑に混在するようになった要因の一つは、古代人の広範囲な活動領域と行動遂行のパワーだと思う。海洋族の働きには驚かされる。はるばる遠い土地にまで果敢に海を渡っていく、あるいは渡ってくる人々の存在は古墳の遺物などに証拠として残っている。例えば、岐阜県大垣市の荒尾南遺跡――弥生時代の土器に82本の櫂を持つ大型船が描かれていた。千葉県八千代市の沖塚遺跡――3世紀後半の国内最古の精錬炉が見つかった。京都府京丹後市の赤坂今井墳丘墓からは漢青を使った管玉が出土した。
 そしてこの海洋族が川の交通を通して各地を産業的にも軍事的にも結びつけていた事実は、歴史の重要な側面だった。彼らは好奇心で恐怖心に打ち勝ち大海に乗り出していく。
 未知への探求心があって勇気もある。この気概こそが歴史を開拓した原動力だったのではないかと思うのだ。そうした人々の活動のしかたは画一的ではなく、上意下達ではなく、自由で、物や文化の伝播は複雑で錯綜している。古代史はともすれば北部九州と畿内にのみ中心があってそれ以外は未開の地のように扱われる傾向にあると思うが、そうではなかったことも様々な遺物や史跡からわかる。例えば、前方後円墳より早くできていた美濃地方の前方後方墳。高知県南国市の田村遺跡には遠賀川式より古い形式の土器があった。
 人々はどの地域にも文化を築こうとしたに違いない。それが大和に集結した形になったのは、結局、耕地面積の広さと地形の問題なのだ。日本は山がちで大きな平野は少ない。当時最も広い沖積平野が奈良盆地だったのだ。大和盆地は山に囲まれて守りやすい。もうひとつ大事な要素は交通だ。大和は水系を利用すれば、伊勢から太平洋に、若狭から日本海にも出られる。ここに人々が集まるのは当然だ。そうして大和朝廷と言われる支配組織がここに誕生した。