青の一族

第9章 7世紀、そしてその後


3 青の一族、再び


 私の疑問は『古事記』の内容から始まったのだが、もし『日本書紀』がなければこうした疑問自体を抱かなかった可能性がある。『紀』と比べるから出雲が特別扱いされていることが不思議に見えるのだ。そもそもなぜ歴史書が二種類あるのだろう。
『記』については、蘇我氏と対立した舒明天皇が、氏族の由緒を正そうという目的で歴史書を作るように天武天皇に託したという説がある。『記』の序文に、天武天皇の命により、稗田阿礼に読み習わせた歴史を、元明天皇の世になって太安万侶が書き記したとある。『紀』のほうはどう始まったかはっきりしないらしい。国家の歴史なのだから天皇の勅命なのは当然に思えるが、どの天皇の命なのかもはっきりしないらしい。しかし、『記』は712年に、『紀』は720年にできたとされるから、ほぼ同じ時期に編纂が始まったと考えてもそう違いはないだろう。
『日本書紀』の編纂は各氏族から資料の提供を受け、地方からも様々な情報を集め、文章も練った大変な作業だったようだ。中でも、各氏族が自らの優位性を強調したがるのでその折衝が難航したらしい。その任に当たった藤原不比等は『紀』が完成した720年に没している。心労が祟ったという説がある。『紀』に含まれる一書(異伝)の多さにもそれは現れている。
 天武天皇は政権を確固としたものにするための新しい政策を次々と打ち出す一方、日本古来の伝統も重んじたようだ。『紀』は日本の正史としての役割がある。しかし、天武朝に『紀』の編纂が始まったとしても、天武自身の思いは『記』にあったという説もある。
 天武の諱は大海人皇子で尾張の海部氏の娘が乳母だった。海部氏は崇神の頃からすでに尾張に勢力を持っていたし、丹後の海部氏は最古の系図を持つ籠神社の宮司を代々務めている。天武は幼少期を大国主の歴史を知る氏族、青の一族であったかもしれない人々の中で過ごしたのだ。
 私は青の一族は、古くは新羅の伝説の王、首露王から丹後・若狭地方の豪族につながる系譜だと考えている。首露王は金海金官国の始祖と言われる。『三国史記』によれば新羅の四代王の脱解は倭国東北一千里にある国の妃が母だという。朝鮮半島の南部と倭は古くから密接なつながりがあったことは確かで、丹後地方は北部九州・出雲と並んでその中心だった。
 青の一族を象徴するのはガラス製品だ。赤坂今井古墳の主を最後の頂点とする丹後の首長はガラス製品に並々ならぬ執着を持っていた。新羅は東アジアでも有数のガラス製品集積地だそうだ。それに比べると中国・百済ではガラスはあまり見られず、百済の王陵にはガラス容器は副葬されないという。新羅の星南大塚・天馬塚・金冠塚・瑞鳳塚は王陵級の古墳で、これらから日本産の硬玉製勾玉が出土した。
 新羅の首都慶州は鉄生産の中心地で、この観点からも倭と新羅が密に交流していたことが考えられる。鉄の大量副葬がある最初の古墳、椿井大塚山古墳は若狭から南下した勢力と大和との合同によって築かれたと思われる。彼らは佐保川も支配した。その勢力の流れは履中天皇、そして忍海の飯豊皇女につながる。青海神社を奉祭する海洋族も忘れてはならない。彼らは播磨から瀬戸内海を経由して宮崎の東、日向灘から中国江南にまで繋がる海のルートを知っていた可能性もある。彼らは、鉄の船などない時代に現在の日本国内にとどまらない広範囲を活動の場とした。
 谷川健一氏は青の一族は最終的に敏達帝に至るとした。しかし、直接青の一族とは言えないにしても天智・天武以降、天皇家は父系で敏達の血統を脈々と伝えることになる。天武天皇は自らの祖先である天照大神よりも古い神々がいたことを大切に思った。そうでなければその歴史が残るわけがない。天武こそが私たちにこの遺産を残してくれた人なのだ。
 そう考えると、出雲以外の各地にも土地の歴史が口伝承で残されていたに違いないことに気がつく。それらは、文字による記録という技術ができ、天皇という力がこれを残すことを意図して初めて後代に伝わる性質のものだった。『古事記』が残されたことの幸せを感謝し、残されなかった歴史があることに思いを致して終わりとする。