Isidora’s Page

講  演  記  録

   チャールズ・ウィリアムズをめぐって   

2005年6月 於奈良女子大学記念館講堂 日本イギリス児童文学会関西支部主催

 この秋、私は二作目の長篇小説を上梓する。わずか二冊で小説家と名乗るのはおこがましいかもしれないが、とまれ、小説家として強く影響を受けたのがチャールズ・ウィリアムズ(Charles Williams, 1886-1945)である。彼の著書は詩、劇、伝記、文芸批評、神学論、小説など多岐にわたって約40冊にのぼるけれど、日本ではほとんど知られていない。本日は、もっぱら彼の遺した小説について、恩師のひとりである蜂谷昭雄先生の思い出を織りまぜながら語りたい。(注・蜂谷昭雄[1930-1986]日本イギリス児童文学会創設メンバーの1人。著書に『詩神の巡幸』[山口書店、1987]など。)
 幻想文学に興味を持っていた私は、京大文学部に入学した1973年の終わり頃、SF研究会のメンバーと出会い、蜂谷先生がかつてファンタジー系の児童文学を学生と共に読まれていたが中絶してしまった事実を知った。そこで、私は幻想文学研究会なるものをでっちあげ、先生にお願いして、修士課程1回生くらいまで、厚かましくも週1回の読書会をしていただいた。私が初めてお会いしたとき、蜂谷先生はちょうどウィリアムズ晩年の 小説『万霊説の夜』 (国書刊行会、1976)を翻訳なさっており、先生の教えを受けつつ他の長篇2冊を読み終えることができたのは思えば僥倖であった。
その後、85年に雑誌『幻想文学』が「インクリングズ特集」を組み、先生と私はそれぞれウィリアムズ論を寄せ、加えて、私はThe Place of the Lion (1931) 第10章前半を「家のなかの穽」として訳出した。当時、先生と共にウィリアムズ小説選集を企画して出版社も決まっていたのだが、86年に蜂谷先生が56歳で逝去され、これと前後して出版社が事実上倒産し、企画は崩壊した。
 さて、ウィリアムズはロンドンの下層中産階級出身で、奨学金を得てロンドン大学に進学するも学費が払えず中退する。1908年(22歳)にオックスフォード大学出版局ロンドン・オフィスに職を得て、勤務のかたわら、26歳で初の詩集を出し、30年(44歳)には初の小説War in Heavenを出版する。36年になってThe Place of the Lionを読んだC・S・ルイスが 'A really great book’と感動し、両者の交流が始まる。39年、大戦勃発のためウィリアムズの勤務先がオックスフォードに移転、ルイスは彼をインクリングズの一員になるよう誘って、さらに傾倒を深めていく。
 ウィリアムズは学者肌のトールキンやルイスとは違ってカリスマ性があり、出会った人々は完全に魅せられるか、忌み嫌うかのどちらかであった。主要著作のかなりの部分は39年までに書かれており、ウィリアムズがインクリングズから影響を受けたというよりは、45年5月に急死するまで、ルイスに影響を与え続けたというべきだろう。トールキンは後年、彼のことをwitch doctor と呼んだが、人間の精神の暗部を見つめたウィリアムズは、謹厳なカトリックのトールキンの眼にはいかがわしいと映る面もあったのは否定できないかもしれない。
 ウィリアムズの小説についてあらすじを言うことは無意味であり、言うほどに誤解を招くのだが、敢えて試みてみよう。
  たとえば、Many Dimensions (1931)の舞台は1930年代のロンドンで、ペルシャの旧家の人物が家伝の聖なる石をイギリス人科学者に売りつける。この石を持って念じると世界中を自在に移動できるだけでなく、過去へも未来へも赴くのが可能となる。あらゆる病気も治る。さらに、この石を割ると全く同じ物が無限に複製され、しかも、効力は変わらない。世界は石の奪い合いで大混乱に陥るが、この石を始末するためには、誰かがこの石に魂を合一させて、石とともにこの世から消えなければならない。最高裁長官の秘書、クロエという平凡な若い女性が、この役を引き受ける。クロエの自己犠牲を通して世界は救われるのだが、これは『指輪物語』の指輪を捨てにいく旅の原型といえなくもない。
 こんな小説が世の中にあるのかと蜂谷先生と共に読んで衝撃を受けた。イギリスという国には、通俗小説の枠組を用いながら、きわめて独創的な小説を産みだす人物がときに出現するが、ウィリアムズもそのひとりであった。
 いっぽう、後期の小説は、通俗小説の枠組を完全に放棄し、それに伴い文体は晦渋の度合を強めていく。そのひとつ、Decent into Hell(1937)では、登場人物のひとりは生きながらにして、本当に地獄に堕ちていく。精神世界と物質世界の区別はウィリアムズの小説ではしばしば消失するが、この作品においては、内面の地獄に堕ちる過程が、頭蓋から肉体の下部に落ちる過程として描かれるという驚嘆すべきヴィジョンが出現する。ウィリアムズは神を信じる一方で、人間は本当に魔道に堕ち得るのだと考えていた。
 ヴィジョンというほんらい言語化不能のものを、なんとか散文によって定着させようとした稀有な作家、それがウィリアムズである。2008年には初の本格的伝記が英米で刊行される予定と聞くが、果たして、一般的な評価がようやくあがるのか、それとも、やはりこれまでのように少数の熱狂的な読者が存在するにとどまり続けるのだろうか。
(文責:藤井佳子)


   南方熊楠と柳田国男の「山人」論争   

2006/11/11  於東京国立科学博物館講堂 「南方熊楠展」に伴う連続講演の一つ

★内容的には「異民族の記憶」と重なるもの。
以下、講演会を聴講なさったなかね氏のリポートです。(もとはmixi 英文学と稲生平太郎コミュ

 国立科学博物館にて「南方熊楠、柳田国男の「山人」論争―同時代の英国民俗学の視点から―」と題した横山茂雄先生の講演会が行われました。私はそこに行って来ましたので、ここでその報告をさせて頂きます。
 会場は博物館の講堂にて。講演会スタッフの話から予約で定員100人はどうやら埋まったそうです。その参加者ですが若い方と、かなり高齢な方々で2分していたように見えました。
 講演は午後2時スタート。横山先生は「私は英文学で民俗学が専門ではないのですが・・・」と言う前置きの上で講演が始まりました。
 内容は南方熊楠と柳田国男の山人論争について。山人(サンジン・ヤマビト)とは山に住む謎の民族で、「天狗や河童を見た」という話と同じよう伝説として語り継がれていたもの。そして山人論争とは、山人こそが日本民族の起源である・・・と主張する柳田に対し、南方は猿などの見間違い、また何かの事情で人里から離れ山で暮らすようになった人間のことであろう・・・と真っ向から対立した論争をさしております。この論争は書簡によって行われましたが、当日はその手紙の抜粋がテキストとして配られております。
 実は山人=日本人の起源という主張は、坪井正五郎のコロポックル説(アイヌの伝説に登場するコロポックルが日本人の起源だとする説)の影響を受けているそうなのですが、今回の講演は(ようやく本題!)この論争以前にイギリスでも「同様の論争」が行われており、そこからのアプローチで「山人論争」を見直すというものでした。イギリスで行われた「同様の論争」とは・・・英国の昔話に数多く存在する「妖精譚」はケルト以前の失われた民族の存在を今に伝えるも、即ち妖精=英国人の起源と考える説です。柳田の念頭にはこの英国の話があったことは間違いないだろう、ということが今講演の大きなテーマです。その証拠として、この英国の説を言及した手紙の紹介や、柳田の蔵書にもその説を述べた原書が確認できる、とのことでした。
 かなり駆け足かつ大雑把に書いてしまいましたが、先生の語り口は穏やかで優しいものの、内容は知的好奇心をそそられる非常に刺激的なものでした。そういえば「遠野物語の周辺」と言う柳田の遠野物語形成に重要な人物、佐々木喜善がおりますが(佐々木が遠野の物語を柳田に語って聞かせたのだ)、その佐々木を柳田に引き合わせた水野葉舟の小説・随筆をまとめた本も出されております。あらためて横山先生の博学振りを感じた・・・いや、実感したひと時でありました。
【以下、自慢を含みます】
  休憩中、私は横山先生を捕まえ本にサインをもらうことに成功しました。サインをもらった本は2冊。「聖別された肉体」「アムネジア」です。古くからのファンの方は「なぜ『アクアリウムの夜』じゃないのだ?」とか、UFOファンの方には「なぜ『何かが空を飛んでいる』じゃないのだ?」・・・とお思いになるのでしょうが、「アクアリウム」は実家の愛知県に置いてきてしまったし、「何かが」は持っていないのですよ(涙)。
 「先生!」と言って呼び止めました。
 「実は私は先生の本をずっと読んでいまして・・・今日、本を持ってきたのでサインを頂けませんか?」
  そう言うと先生は少々吃驚された顔をされました。そりゃそうでしょう。南方の話をしに東京まで来たら、サインくれと突然言われナチスオカルト本が出てくるのですから。
 ちょっとの間があり先生は「ああ、いいですよ」と仰って頂き、その場でサインをしてもらいました。また「聖別」と「アムネ」は別名義のため「名前は書き分けたほうがいい?」と聞いてきます。これには私もちょっと考えてしまいましたが、やはりそれぞれの名義で書いて頂きました。・・・しかしサインにかなりまごつかれているご様子。ページをめくっては戻しを繰り返し「どこに(サインを)すればいいんだ・・・」と呟いております。私は本の見返しを指差し「ココでいいです」と言ってしまいました。思うに先生はサインを書き慣れていないのではないのでしょうか(笑)。
 また私も柄にも無く緊張してしまし、たいした話もほとんどしませんでした。それに会う前は「アムネジア」の解釈などを聞こうかと考えていましたが、本人を前にすると聞くのが憚られやめました。それは図々し行為だと感じたし、仮に答えて頂ければ自分の中にある曖昧模糊としたものが晴れるのでしょうが、何故かそれをしてはいけない気がしたのです。
 いずれにせよ私の中で民俗趣味の炎が再燃し、「アムネジア」を読み返そうと思った日でありました。