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稲生平太郎著作解説

文学研究・エッセイ編 その弐

「映画の生体解剖」
 映画監督・脚本家の高橋洋との対談集。2010年、カナザワ映画祭における対談を契機に、意気投合した二人が、「映画の本質とは何か」について縦横無尽に語り合う。「手術台は映画の根源を呼びさます」「放電は映画のテクノロジーの象徴である」「映画の中に時間は流れていない」ほか、刺激的なタイトルが並ぶ。稲生平太郎にとってありうべき映画とは、「心霊動画」のようなものであるという。論理を突き詰め、妄想でいろどる高橋洋監督と、直感であることないこと言う稲生平太郎のコンビならではの、ユニークな対談。取り上げた映画は約800本。全作品の注付きで、恐怖映画のガイドブックとしても活用できる。関連エッセイとして「手術台と映画」(『文學界.二〇一四年五月号』)がある。
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「平田翁の[夏休み]――『稲生物怪録』をめぐって」
 平田篤胤の異界研究は、人生にただ一度限り訪れた「存在の夏休み」を追い求めているのである、と論ずる。谷澤森君の稲生平太郎論に詳しく語られているので、参照して下さい。
 個人的にはそうした夏休みが忘れられない少年たちの末路を考察するくだり「(1)身をもちくずす、(2)生涯を〈夏休み〉の捜索に費やす」が胸に迫る。どちらにしても野垂れ死になのではないかという気がするから。

「他界に魅せられし人々」
 論考。これはある意味で「シオンの顕現」の柳田國男バージョンだと言えよう。幼いころの神隠し体験・幻視体験の持つ重要性、柳田民俗学が背後に隠し持っている非理性的な側面を抉る問題作である。横山茂雄は『ヴィレット』同様の分裂を柳田の文学世界に感じ取るのではないか。さらに水野葉舟、佐々木喜善といった、特殊な感受性を持つ人々との関わりから見えてくるのは、柳田の心霊学的な興味であることも指摘。もう一つの柳田像を打ち立てることに成功している論考と言えるだろう。いつもながら、グローバルな時代背景への目配りも怠りない。
 本編は来るべき著作『妖精の誘惑』のためのノートだというが、はたしてこれが完成するのはいつの日か……。

「怪談の「位相」」
 論考。前掲論文とつながりがあり、佐々木喜善、水野葉舟について中心的に述べている。
 もともと水野葉舟「怪談会」の解題のはずであったが、葉舟作品集『遠野物語の周辺』解題に向けてのエスキスのごときものとなった。佐々木喜善については、当時、新進作家としてデビューしながら、最終的には挫折した文学青年であることを詳説し、『遠野物語』の圧倒的な影響力のもとに作られた、昔話の朴訥な語り手、あるいは昔話蒐集に専心した地方の人というイメージがいかに誤ったものであるかを指摘し、同時に「遠野」という土地の特権化に疑義を呈する。そのことは1910年代から20年代にかけての怪談会の流行が世界を解く鍵としてのオカルティズムを背景に持っていたことにつながる。中でも葉舟の立場は、怪談を心霊的世界実在の証拠として蒐集するというものであり、きわめて意識的であったこと、それは柳田国男が山人に種族としての原日本人を見ようとしていたこととパラレルであるとする。これらのすべては、イギリスにおけるオカルティズムと民俗学の展開と関連づけられるようなパースペクティヴにおいて眺められている。

『遠野物語の周辺』
 解題として、上掲作に大幅に加筆した「怪談の位相」を収録。水野葉舟の足跡に細かく触れることで、初稿では書き足りない感のあった心霊研究をめぐる情況が、かなりわかりやすく語られることになった。

●りく坊の稲生めも・本書の内容と高橋克彦書評について● 

「異民族の記憶――英国民俗学と南方熊楠、柳田國男山人論争」
 南方の論文を見て感激した柳田が手紙を送り、両者の交流が始まったが、それは柳田の「山男」への興味を知らされた熊楠が資料や情報を送るという形で展開したことが説明される。柳田の「山男=先住異民族」説に対し、熊楠は批判的で、まもなく互いに接点を見いだせぬまま、論争も打ち切られ、交流も途絶える。この両者の関係が、19世紀末の英国民俗学における「ピクト=妖精」説(妖精伝承は先住民族であるピクト人が征服されていった過程で生まれてきたものという説)とそれへの反論で一時にぎわったこととパラレルであったことを示し、英国民俗学と日本民俗学の間の連関について述べる。同時に、口碑を歴史学や民俗学などの学問の中にどのように位置づけるのかについて、民俗学の初期に論争が行われたことを示す。

「「怪談」の近代」
 水野葉舟「怪談」、佐々木喜善の語る「お化話」、柳田國男『遠野物語』についての論考。「もっぱら水野と柳田が「怪談」をどう捉えていたかについて焦点をしぼる」と述べ、水野が心霊研究という側面から怪談をとらえていたのに対し、柳田は民俗生活という側面からとらえていたが、どちらも事実としての怪談を求めていた。佐々木の怪談は、両者いずれにとっても、信頼性の高い、「事実」、学問的証拠となるものであった。話はここで「異民族の記憶」につながっている。

「夢と光り物」
 アナ・キングズフォードの夢の記述、夢をもとにした作品の話から、佐々木喜善の日記が夢の記述に満ちていることへ展開し、それがひとつの夢の記述、二匹で輪を作り、光る蛇の記述に収斂する。その光る輪はやがて、鏡花の『草迷宮』の回転するランプへとつながっていく。
 一年ほど前から、回転するランプ、キングズフォードの夢、という話を個別に聞いていたが、喜善の日記を蝶番のようにしてこんなふうにつなげたのか、という感想を持った。かっちりとまとめるのなら、後半だけ(佐々木の当該の夢から始める)という書き方もあったろうし、ただこの話の要諦というなら、最後の一ページだけでもいいほどだが、それではまったく違うものになってしまっただろう。
 私にとっては、横山さんの文章そのものが、回転するランプである。

「牛涎的博士――坪井正五郎をめぐって」
〈コロボックル説〉で知られた東京帝大理学博士・坪井正五郎は、ヨーッロパの19世紀に起きた民俗学的人類学的研究の流れを汲み、人類のあらゆる側面を研究しようとした、言葉の真性の意味での〈人類学〉の徒であったと語る。看板の話からいかにもばかばかしげに説き起こすが、そのどの一語も坪井の称揚につながっている。喜善、柳田、熊楠、そして坪井とみな同じ世界の上にいた人々で、横山さんの中ではある種きれいな見取り図が描けているのだろう。
 牛の涎のようにだらだらと関心がつながっていくようでいて、実はすべてが〈人類学〉につながる「一途の人」であったと語っているが、それはまた横山茂雄自身のことでもあろう。一途……というのは言い過ぎかもしれないが。自分に似たような人物に興味を抱くという、これは典型例であると感じた。

「「心界幽玄」のこと――南方熊楠とフレデリック・マイアーズ」
 熊楠・柳田・民俗学・オカルト・日英関係などをモチーフとする一連の論考の一つ。
 南方熊楠とサイキカル・リサーチ(心霊現象に客観的・科学的に迫ろうとする学問分野)の関係について解説した論考。
 半ばは英国心霊協会SPR(The Society for Psychical Research)の成立と背景、その会長を務めた、テレパシーという言葉の産みの親でもあるFrederic Myersについての説明である。そして熊楠がMyersの著作を重要視したこと、また、自身も心霊体験を持ったことが語られている。
 重要なポイントは、熊楠は英国留学前半(1894頃)では、心霊云々については否定的だが、後半(1898頃)には肯定的態度に転じているということだ。その契機として、霊媒調査で知られ、SPRの会長も務めた原子物理学者ウィリアム・クルックスの演説を聴いたことや、英国の当時の文化的環境の影響等の可能性が考えられている。

「十二支考「馬に関する民俗と伝説」をめぐる雑話――芸をする馬、馬肉、蹄鉄、坪井正五郎」
 「熊楠をもっと知ろう!」シリーズ第25回、2014年1月11日の講演記録。南方熊楠と坪井正五郎を対比的に論じる。
 熊楠がシェイクスピア文献を利用して「馬に関する民俗」を書いたこと、馬肉をめぐっても文献的で実際の体験が反映されていないこと、一方、坪井はとことん実証的で、実地調査を行って論文をものしたことを、蹄鉄を例に示している。

『日影丈吉全集』第一巻解説
 日影丈吉は横山さんが鍾愛する作家である。初版本をそろえていて、全集に当たっては、本を貸すというような話だったのが、結局、編集にも大いに関わることになり、解題、解説を担当することになった。「解題」は純粋に資料的なもの。かなり細かい書誌的データが文章の形で提示されている。「解説」は各作品ごとの体裁になっている。おそらく長篇は長篇ごとに、短篇は短篇集ごとになされるのではないかと思う。日影丈吉もきちんとした評価や評論に恵まれない作家なので、横山さんの丁寧で適確な解説は一種の手向けとなるのではないかとも思われる。このように漠然としたことしか言えないのは、私が日影丈吉の良い読者ではないからで、とても細かく気を使って書いているなあというような、的外れな感想しか浮かんで来ないのである。
 日影丈吉をめぐって一緒に仕事をさせていただくうちに、横山さんが日影丈吉の何に惹かれるのか、おぼろげながらわかってきたようにも思う。でもピント外れだと恥ずかしいからまだ言わないでおく。全集の終わるころにはきっともっといろいろなことが見えるにちがいない。
●りく坊の稲生めも● 

『日影丈吉全集』第二巻解説
  『女の家』『移行死体』『現代忍者考』『孤独の罠』という四つの長篇それぞれについて解説する。『女の家』が量的に最も多く、細かい分析がなされており、その解読はとてもおもしろい。  『女の家』と『孤独の罠』については、事前にいろいろと話をしたりしていたので、この解説について何か具体的なことを言うのが厄介である。解説の分量が多くなってしまったと横山さんは言っていたけれど、いろいろ考え合わせると、もう少し長い評論が書けそうである。あくまでも全集の解説なので、この短さなのだと思う。

『日影丈吉全集』第三巻解説
 『夜は楽しむもの』『多角形』『殺人者国会へ行く』『一丁倫敦殺人事件』の長編四つを収録。小説として見るべきものがない巻だったせいか、解説もいともあっさりとしていた。唯一、『一丁倫敦殺人事件』の中に出て来るドライヤー監督の長編映画『吸血鬼』について「夢の本質に接近しえた稀有な映画」と語っているのが注目される。

『日影丈吉全集』第四巻解説
 『咬まれた手』『地獄時計』『夕潮』『ハイカラ右京探偵譚』と未完の長編の冒頭「黄ふく〔服鳥の二字をあわせた字〕楼」を収録。
 刊行がやや遅れたのは、『ハイカラ右京』の校訂作業を進めるうち、こればかりは雑誌初出形に拠らざるを得ないということになり、本文の組み換えが行われたためらしい。一度組んだものを別の形に置き換えるのは、校正に膨大なロスがあるもので、ために遅れたもようである。
 愚作『咬まれた手』以外は、問題作ばかりなので解説も長く、特に『夕潮』では日影丈吉の性的な問題に踏み込んだ解説となっている。『地獄時計』はさほども長くないが、随所で言葉をはしょったのではないかと思われる記述があり、十全に書ききったというわけではないと推測される。
 『夕潮』に関しては、語り手を女性にすることで真の主題を隠蔽しているとあり、たいへんに説得力のある論が展開されている。日影丈吉ファンは必読である。私もなるほどと思ったので、解説読後に読み返すことにした。
 私はこの小説を初読の時に、きわめてバカらしいと思ったのであるが、それはミステリという形式ゆえだろうと理解していた。殺人事件があったら犯人を何らかの形で提供せざるを得ないので、こういういまいち説得力に欠ける人物設定・事件設定にせざるを得ないのだろうと思ったのである。それはあまりにも好意的な解読だったということか。だが今読んでも、ミステリとしてダメだからこうなっているという感じが先に立つ。無理やりミステリにしているという印象だ。作家にとってむしろテーマが大事なのだとしたら、ミステリであること自体が、そのテーマを隠蔽するのではないだろうか。形式が内容を限定し、読者もまたその限定に無自覚に従うからである。
 なぜ日影丈吉が大してうまくもないミステリを書くのか、というのは、私にはどうもよく理解できない点なのだが、そのような可能性も無しとは言えずと思ったのである。

『日影丈吉全集』第五巻解説
 『夜の処刑者』『善の決算』『恐怖博物誌』『イヌの記録』四冊について解説する。『恐怖博物誌』は短篇集だが、残りは連作短篇集。『恐怖博物誌』の中の「狐の鶏」についてかなり紙幅を割いており、その特異性をこと細かに分析している。この解説が突出して長いので、その他の解説はさらっと済まされている。そこで私は、この論旨で統一された一つの長篇評論というものを頭の中で想像した。本書の解説全体として、文学に対する距離感が問題となっているように思われた。乱歩と比較することで、何度もそれを繰返している。

『日影丈吉全集』第六巻解説
 『暗黒回帰』『幻想器械』『市民薄暮』『華麗島志奇』の牧神社の《日影丈吉未刊短編集成》を解読する。全短編について、触れている。
 この解説はたいへんに読みごたえのあるエッセイで、日影丈吉の魅力の多くの部分をうまく語っていると思う。ただし、これは、文章力だとか作品のつくりだとか、あるいはそのモチーフや作者の視線など、あくまでも客観的な評価が自分で下せる部分についてであって、内的なところにまで踏み込まれたとき、私にはよくわからなくなってしまう。私は、この文章に横山茂雄を読んでしまうからである。
 私は日影丈吉のファンであったことはなく、これからもそうなることはあるまいと思われるのだが、この解説を読むと、横山茂雄がどうして日影丈吉が好きなのかはよくわかる。私も同じように横山茂雄が好きなところがあるからである。ならばどうして、私は日影丈吉が好きではないのか、ということになるが、これは私にもよくわからない。日影さんがあまりも大人の男でありすぎるためかもしれないとぼんやりと考えるのだが、こんなとを考えてもあまり意味がない。
 横山さんは「饅頭軍団」を例にとって、日影作品の基本的な分析を試み、その魅力を丁寧に分析している。その際に「もっとも傑出した作品だと考えて取り上げるわけではない」と断っている。この作品はかなりな程度の傑作だと私は思うが、これでもまだまだ上があるのである。横山さんは「焚火」を押すということを前にもおっしゃっていたかと思うし、解題でも「人間観照の深さを示すと同時に、技術的にも頂点をきわめた作品」だと断言している。このあたりに横山さんが日影の作品を評価する機微があるように思われる。
 一つだけ疑問に思ったのは「一般に流布するイメージとは異なって、日影の作品には性という主題が見え隠れするものがかなり多く」というくだりである。日影丈吉の作品はエロティシズムが描かれることが多く、それもかなりの程度特徴な形で、私は、日影丈吉が多く男性に愛されるのはそのせいだと思っていたからである。『夕潮』のような最晩年の、相当高齢になってからの作品でもそうだ。一般にはそういうイメージが流布していないというのは本当だろうか?
●りく坊の稲生めも● 

『日影丈吉全集』第七巻解説
 『夢の播種』『泥汽車』『鳩』と単行本未収録短篇を収録。
 『夢の播種』については文字通り、「夢」を焦点とした解説を展開。特に「ひこばえ」を夢の文学とする点が卓抜。日影自身が見た夢を題材とする「旅愁」については、「崩壊」と並べて高く評価し、日影作品の中にあっても特異な作品であり、夢と共に性のからむ物語であることに注意を喚起している。さらに『泥汽車』がノスタルジーの文学ではなく、解放を描いた学であり「閉じられた世界から開かれた世界へという感覚」を描き出したものだとの卓見を示す。特に「屋根の下の気象」でそれが最も鮮やかに言語化されていることを称揚する。『鳩』では人を食ったような話の、とぼけた味わいを愛でつつも、そこに「自己の本質」という日影丈吉がこだわり続けたモチーフを読み取る。表題作では、幻想から現実へという構造から、さらに幻想へと回帰していることを指摘し、死を目前にした日影にとってそれが「一種の解放であったのだろうか」と結んでいる。

『日影丈吉全集』第八巻解説
 七巻所収の未収録短篇と併せて、単行本未収録作について解説。
未収録作品が時系列に並べられることによって、日影丈吉がいい加減に書き飛ばす駄作と緻密な秀作とを同時並行的に書くことができた作家であることが明らかにされる。この解説は、いかにして日影丈吉が作家として進むべき方向を模索し、これまでの解説で明らかにしてきた手法やテーマを見出していったか、という、一種の作家評伝的なものになっている。「おいしい罠」はフランス料理がいろいろと出てくる掌編で、まことに他愛のない話だが、「ヒロインの見る夢のゆえにわたしとしては捨てがたい」と述べているのが印象に残る。また、この解説では七巻の解説でも触れられた「自己の本質」というテーマと重なる形で、「顔」を認識することについてのこだわりが特別に取り上げられている。また70歳代の後半にして「ある生長」のような新境地を開く作品を書いていることに、賛嘆すると共に読者の注意を促している。

『日影丈吉全集』別巻解説
 『ふらんす料理への招待』『ミステリー食事学』『名探偵WHO'S WHO』『荘子の知恵』のエッセイ集と、単行本未収録エッセイ、少年小説、推理クイズ、未発表作を収録。
 単行本の最初の三冊については、料理とミステリー、それぞれに対する日影丈吉独自の視点を要約して、彼の世間一般からずれた立場を明らかにしている。『荘子の知恵』については、最晩年の著作ではあるが、若い頃から荘子に驚嘆しつつ読んできたことを指摘して、日影丈吉が「東洋の思想を手がかりに長い年月にわたって独自に思索を重ねてきた人物であった」と述べる。またこうしたエッセイ群と作品の関係についても細かく指摘している。
 未収録エッセイについては、作家についてのエッセイに見られる的確な表現を特に取り上げている。また、エッセイや取材をもとに、交友史めいたもの、ミステリー文壇に置ける位置などを説明している。初期作品については「硝子の章」の重要性を特に指摘、モダニズム芸術運動の一員としての日影丈吉という視座を提供する。

「桃源への旅」
 横山さんは2002年7月初旬、台湾へ行かれた。玉蘭を見に行く、と行って出掛けられた。その紀行である。『内部の真実』『応家の人々』などの舞台を訪ねた経緯を中心に、台湾と日影丈吉の関係をいろいろなところから探ろうとしている。
 結びは『応家の人々』の最後を思わせる。結語は同作の後書きの言葉から取られている。

「怪しげなひと」
 種村季弘追悼文として書かれたが、日影丈吉にからめたエッセーとなっている。種村季弘が本格的な個人選集を編んだのは鏡花と日影だけだったこと、それゆえに『日影丈吉全集』の監修を依頼していたこと主たる根拠として、種村季弘が日影丈吉を買っていたのは「怪しげなところ」があったゆえではないかと、日影丈吉の「怪しさ」について述べていく。ほとんどが『日影丈吉全集』編集の過程で浮上してきたデータをもとにしており、種村季弘そのものについて語ったものとは言い難い。一種の傍証的エッセー。

「思春期をめぐる物語」
 『アクアリウムの夜』についての自作解説。
 成立までの具体的な経緯、少年小説の枠組を用いて、筋を考えることもなく書き出したこと、自分にとっては思春期の呪縛から脱するための治癒行為であったことなどが語られる。このエッセイと、『何かが空を飛んでいる』の中の「物語の形でしか書けないこともある」という言葉を読むと、いらぬ深読みをしたくもなるが、そうしたものは実は作品にとっては夾雑物のようにも思える。「物語というのは読者が創造するものだと思い知らされた」とこのエッセイ中にもあるが、この作品は読者たちのさまざまな読みを許す、作者とは離れた魅力のある作品なのだから。

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「『支離滅裂名文集』」
 エッセイ。
 自分が編むとしたらどんなアンソロジーか、という趣旨のエッセイ。前掲のエッセイと同じく、これまでに読んだアンソロジーの羅列から始まる。どうしてこうものを並べるヘキがあるのだろうか。似たような悪癖があるので偉そうなことは言えないのだが、私の場合は、連想がとめどなくなり、吐き出さぬと鬱積するからである。こちらを挙げるのにあちらを挙げぬでは不公平ではないか、というような配慮があるわけではない。稲生平太郎の場合はどうしてなのだろう。ファナティックなファンはこんなくだらぬことまで気にかかる。
 さて、アンソロジーは読むことよりも編纂することが楽しく、今も頭の中でもてあそぶのは、『支離滅裂名文集』というものだと語る。文体のある著作家がぼけてわけのわからぬものを書いてしまったというようなものを集めるのだそうである。晩年の百間のエッセイとかマッケンの作品がピースであるようだ。

「不思議なセルロイド」
 怪奇幻想映画特集に寄せたもので、エッセイの依頼の趣旨は「オールナイト上映をするとしたらどんなプログラムを組むか」というもの。その他の執筆者は一夜、二夜程度なのだが、稲生平太郎の場合は、一カ月五夜分も組んでいるところがいかにも、である。
 怪奇幻想と言っているのに、このエッセイを寄せてくれた執筆者たちはほとんど怪奇・恐怖映画を挙げていて、稲生平太郎もその例に漏れない。幻想映画と言えるのは、「吸血鬼」(ドライヤー)、「夢の中の恐怖」「サンタ・サングレ」「イレイザー・ヘッド」ぐらいか。それとてもむりやりこじつければという感じである。ともあれ、文学と違って映画になるとB級ものも大好きという感じになるらしい稲生平太郎の映画の趣味をこのエッセイでは知ることができる。

「ニュース!な作家~稲生平太郎」
 スニーカー・ミステリ倶楽部という新しいジュヴナイルの文庫シリーズに『アクアリウムの夜』が入るので、作品をめぐってのインタビュー。オカルトの話題を中心に、見開きで。おまけに「おすすめビデオ」というのがついていて、『Quatrermass and The Pit』(Hammer Film)を最高傑作として薦めている。

『ぷろふいる』五十年
 『ぷろふいる』の発行者であった熊谷市郎氏へのインタビューで、聞き手を務めている。インタビューは1983年8月11日に行われており、横山茂雄20代の最後の方の仕事ということになる。2001年、18年ぶりに活字となったわけである。タイトルの〈五十年〉というのは『ぷろふいる』の50年間の活動という意味ではもちろんなく、インタビュー当時から見て半世紀も前の話であるという意味(もうちょっと考えてタイトルをつけてほしい)。記憶が薄れ、あるいは改変されているところも多く、聞き手の苦労が偲ばれるようなインタビューであるが、戦前の探偵小説マニアにはおもしろすぎる話(どこまで真実かは実際にわからないと思う)が多く、また横山茂雄フリークにとっては、彼の探偵小説マニアぶりの一端がうかがえるという意味で興味深い。冒頭に川島昭夫によってインタビューの経緯が説明されているが、たまたま入った古書肆の主人が熊谷その人だったという、ほとんど眉に唾をつけたくなるような、しかし本当の話で、世の中にはこういうこともあるのか、と思う。

『英国怪談の伝統をめぐって』
 『不思議な物語』で英国怪談を紹介してきた稲生平太郎&英文学者としての横山茂雄へのインタビュー。稲生平太郎お気に入りのメトカーフは怪談専業作家を目指して悲惨な末路をたどったということで、怪談専業なんて常識で考えて成り立つわけないということを力説。大衆的怪談と文学的怪談をごちゃごちゃにして話しているとわからなくなるだろうというのは、たいへん示唆に富む。ついでに文庫化された『アクアリウムの夜』の話も。あと一作で良いから小説を書くとおっしゃっています。書いて書いて。一冊と言わず、もっとたくさん書いて欲しい!

神秘的文学夜話
 石堂藍との対談。これはかなり悩んだ揚げ句の企画であった……。
 私にとって、神秘文学とか神秘主義文学と言ったら、神秘的なヴィジョンを垣間見させる文学であり、神秘的なものに触れ得た感覚を与えてくれる文学である。ここで神秘というのは、宗教的である必要はことさらないが、聖なるものとか彼岸とか超越的なものといった言葉とまったく無縁でいられるものでもない、曖昧模糊としたものである。それを対談で横山さんは「読むことがそのまま神秘体験であるような文学」と表現しているけれども、エリアーデ、チャールズ・ウィリアムズ、マクドナルドやディヴィッド・リンズィなどがそうした作家である。私にとって稲生平太郎という作家は、その貴重な一人なのだ。
 で、横山さんと話しているとき、神秘文学というのはそういうもの、と説明すると、それは、僕にはわかるが、ほとんど誰にも理解されない(その定義は一般から大きくずれている)と言われたのである。ガーン! そーだったのかー。しかしこのことをうまく表現する自信はなかった。もちろん横山さんに書いてもらえるはずもなかった。日影丈吉の方で長いエッセイをいただいていたわけだから……。そこで苦肉の策として、二人で雑談をして何とか伝えてみよう、ということになった。しゃべっている当人たちもわけがわからなくなっている、変な対談である。しかし、これに添って細かく分類していけば、何とか見取り図が描けそうにも思えてきた。稲生平太郎論を書けそうな、希望がかすかに、ほんの少しだけ見える。