『アムネジア』関連の稲生平太郎の発言

『不可能な夢』
 小説家としての稲生平太郎は、自分の書くものは広く理解はされないが、少数の読者は獲得するだろうというものである。それはどうしてかをこのエッセーは説明する。
 まず「何をめぐる物語なのか……わからない」からである。そして「読者に対して決して親切な小説でない」「故意にそのように仕組まれている」うえに、小説の「最終的な目標」は物語を「コントロールできない地平に運んでいく」ことであるからだ。「言語化できないものを小説という器を通して現出させるという試みが『アムネジア』であり、小説言語、そして、それが要求する日常の論理や意識の要求するコードからどこかで解き放たれなければならなかった」。この試みは「本来は詩の領分に属する」。短篇ならまだしも長篇というのが無謀なのだ。「言語化不能なものといっても、たとえば視覚的ヴィジョンをさすのではない。……その向こうにぼくはなんとかして辿り着きたかった……。」
 『アムネジア』の小説の裏側については、これで充分だろう。あとは、こういう方向に稲生平太郎を向かわせたのが、チャールズ・ウィリアムズのヴィジョンであったと述べている。
 『アムネジア』はその不可能なことをあたうかぎり実現した小説だと私は思う。


「ほりだし本」
 短いインタビュー。以下引用。「現実と幻想、あるいは事実と記憶というのは、僕の考えでは混じり合っているものなんです。(中略)この小説は、現実と幻想がお互いにフィードバックしあってゆくという形で作られている。その仕掛けを考えるのが大変だったため、ずいぶん時間がかかりました」「唯一絶対の解答には達しないようにもなっていて、(中略)いろいろな解釈から複数の解答を捜すことも可能なように作られています」「リアズムの世界からいつのまにか幻想へと運ばれてしまう、感覚がグラグラいるような体験、わけがわからないけど面白かったという体験を楽しんでいただければと思います」


「本の探検隊
 同上。似たようなことを語っているので、やや違うトーンのところを引用する。「どんなことでも答えが出るなら、世界はとても楽だと思うんです。でも、決して答えはひとつじゃないしも存在しないのかもしれない。だからこそ、世界は苦しくて、怖いのと同時に、広くて豊かなものなんだと、そういう気持ちも込めました」


「作家探訪/怪談生活の達人」
 
大阪の、『アムネジア』の舞台となっている場所などを回りつつ、大阪にまつわる怪異的なものを紹介する。大阪を舞台とした理由の一つとして、「前作の『アクアリウムの夜』は、あえて場所や時代を特定できないような書きかたをしましたが、今回はそれと全く逆の方法を取りました。同じことをしても仕方ないですからね(笑)。だから、舞台も、自分がよく知る大阪である必要があったということもあります」と述べている。現実、虚構、記憶、そういったものの境界のあいまいさについて語った後、『アムネジア』について次のように述べる。「発電機は、英語でジェネレーターといいますが、原義は発生させる物という意味で、そういう象徴的な役割も担っている。物語の中では、主人公が現実と思っているものと幻想、妄想だと思っているものは、どちらがどちらを発生させているのかがわからなくなるように仕組まれています。もしくは互いにフィードバックしあってる。記憶もまた同じで、現実が記憶を生むいっぽうで、記憶が逆に現実を歪曲捏造していく」と。さらに次回作について訪ねられての回答は次の通り。「特にないんですよ(笑)。前作から十六年もたったのは、私が感じていた言語化できない感覚、あるいは世界認識を何とか小説の中に現出させようという無茶なことを考えて、それだけの時間がかかってしまった。おまけに、小説であるからには、読んでいただく時のドライヴ感っていうのが不可欠ですからね。そのために、かなりの部分を削ったりもしています。そんなこんなで試行錯誤を重ねて上梓したのが今度の本ですから、これが出たから、はいすぐに次、っていうのはなかなかね(笑)」

「幻妖ブックブログ」でのインタビュー「稲生平太郎、『アムネジア』を語る!」は『アムネジア』をメインにしたものです。
解説のページに戻る