青の一族

第2章 弥生後期までの各地の動静——神武の東征はあったのか 北部九州の神話が少ないのはなぜか


12 倭国争乱



 弥生後期の各地の動きを見てきたが、中部日本では200年頃にかなり社会の動きが流動化している。これは当然西日本勢力の動きに呼応したものだと思われる。
 弥生後期中葉から200年頃までに九州の習慣が各地に広まるという。また九州に畿内系土器が流入する。180年頃には奈良の山の辺に大遺跡の纏向が現れる。200年頃にイト国最後の女王の墓(糸島市平原(ひらばる)遺跡)ができる。この頃大分県の大野川流域で鏃が大量に出土し、福岡県の甘木(あまぎ)市や熊本県の宇土市周辺に高地性集落ができる。200年頃出雲には最大の四隅突出墳ができる。それとほぼ同時期に岡山の瀬戸内側に、円形で両側が突き出した楯築古墳ができる。濃尾平野では廻間式土器のⅡ期に入り、弥生と古墳の時代の中間に位置すると言われる庄内式土器が現れ始める。
 これらの動きはひとつの政治的力が崩壊し、次の勢力の台頭を感じさせるダイナミックなものだが、大陸の中国の動向とも無関係ではないようだ。中国では184年に黄巾の乱が起きて混乱期に入り、魏・呉・蜀が争う時代になる。青銅器の原料は華北から輸入しており、中国の混乱で非常に入手しにくい状況になったことだろう。これが青銅器祭祀から墳墓祭祀に変わる要因でもあっただろうし、また出雲の没落の原因だと思う。漢の威光を後ろ盾にしていた奴国も打撃を被っただろう。その中で公孫氏が遼東半島で力を持ち、朝鮮半島に帯方郡を設置するのが204年だ。このときまた中国文化が日本に流通するようになる。
 そうした状況の中で力を伸ばしたのは、瀬戸内勢力、中でも吉備がその中心だったと思う。それは状況証拠的に見て、初期の古墳様式を決めたのは吉備の人々だったと考えられるからだ。瀬戸内・摂津勢力は、彼らの甕や壺の形式が弥生中期後葉頃から徐々に畿内全域に浸透していくのがわかることから、弥生後期の後葉になって本格的に大和盆地に入ったと思われる。大和盆地には既に出雲や吉備、九州など様々な地域から来た部族が住んでいることは述べたが、大和盆地の高地性集落のありようを見ても弥生後期の初めには大量の移住があったようだ。西からの侵入者とこれに対抗しようとする東日本勢力が畿内でぶつかったのではないか。それが『魏志倭人伝』に言う「倭国争乱」だと私は考える。
『魏志』は「倭に王がいなくて……」と書くが、中国に朝貢するべき王が定まっていないという事情はあったと思う。倭のほうでも混乱する中国に行くのも危険だし、氏族どうしの勢力争いに忙しかった。その後、倭は女王卑弥呼を共立して国が治まったと『魏志』は言う。