青の一族

第3章 古墳時代前期-邪馬台国はどこか


 大国主は国譲りをした。そして神話は天皇家の話になる。その天皇家とはいったいどの部族だったのか。当時のリーダーは、今までに検証で既に名前の挙がっている地域、または部族のどれか、またはその連合体であって、後の天皇家はそこから生まれたはずだ。
 早い時期から箸墓に代表される大古墳や大小の古墳が数多く大和盆地に現れ、『記』『紀』でも山辺(やまのべ)・磯城(しき)地域が王家の古里と見なされているので、ここに大和朝廷の母体となる集団が本拠を構えたことは事実だろう。ではその集団は誰で、いつここにやってきたのだろう。第2章で大和盆地周辺にはいろいろな勢力が集まってしのぎをけずっていたようすを述べた。その中で突出したリーダーはやはり最初の巨大前方後円墳を纏向に建設した氏族だったと思う。
 まず、弥生から古墳時代への移行期に磯城に築かれた特異な都市、纏向(まきむく)を見てみよう。

1 纏向遺跡


 纏向は180年頃三輪山の麓に突如として現れ、340年頃急速に衰退するという。初めから川を利用した大溝が掘られるなど計画的な街造りが進められた。竪穴式住居がなく、柱のある平地住居か高床住居が並ぶ。農耕具はほとんど出ない。集落は今の遺跡よりさらに北に広がっていた可能性もあるが、現在の規模でも従来の拠点集落の10個分に相当するという。外来土器は纏向Ⅰ類(200年頃)に10%だったものが纏向Ⅲ類(240年頃)には30%にも上る【図16】。そのうち東海系が49%、山陰・北陸系が17%、河内系10%、吉備系7%、そして関東・近江・播磨・西部瀬戸内・播磨・紀伊系と続くが、九州系がほとんどない。纏向では搬入土器が増えるのは初めの十年より後で三十年くらい経って30%に達するのだから、徐々に各地からの人々が集まってきたということだろう。石野博信氏によれば、纏向では各地域の豪族と神との供食儀礼が行われたという(『邪馬台国の候補地 纏向遺跡』2008)。
図16 纏向遺跡の土器 (『邪馬台国の候補地 纏向遺跡』から)
纏向遺跡の土器
 3世紀前半(庄内期)の中心地は現在の「まきむく駅」近くで、その集落内に100メートル前後の石塚・勝山(かつやま)・矢塚・東田大塚(ひがいだおおつか)の各古墳がある。これらは最初期の古墳と考えられ、前方後円墳と言われるが、航空写真で見たところでは円墳に小さい突き出しのある帆立貝形にしか見えない。この中でいちばん古いのは石塚古墳のようだ。周溝の底から200年を下らない木が出ている。ここからは赤い鶏形木製品が出ている。また土器は胎土が吉備のものがあり、搬入土器は北陸・近江・讃岐からのものだという。また、吉備の特殊器台・弧文円盤が出ている。円盤は岡山県落合町中山遺跡の特殊器台文様とともに画期をなす構成だという。石塚古墳は、出雲の伝統を引き継いで北陸や近江と連合しつつも中心は吉備の人々が作った墓ということになりそうだ。その次は勝山・東田大塚古墳だ。勝山は葺石(ふきいし)があって朱塗板が多数出土したというから出雲色が強いと思われる(朱塗りは出雲大社の特徴だと私は考える)。東田大塚は山陰・東海からの土器が出ているが、土師器の研究で八尾市の中田遺跡と関係があると指摘された。中田遺跡は吉備からの搬入土器が大量に出たところだ。また、京都府向日市の五塚原(いつかはら)古墳と前方部の形状が似ているという。五塚原(91㍍)は3世紀中頃の築造で葺石はあるが埴輪列はない。矢塚古墳は少し後の築造で、九州の特徴である箱式石棺が想定され河内の甕が出ているので、九州系だと思われる(河内は九州と関係が深いと思われる)。
 3世紀後半(布留期)の中心地はそれより少し山側で、ホケノ山古墳・箸墓古墳・景行陵が集落内に入る。ホケノ山は銅鏡や鏃などの副葬品が多く、イトの平原→出雲の西谷3号→吉備の楯築とつながる首長霊継承の儀式を引き継ぐという(寺澤薫氏『王権誕生』2000)。この墓の積石木槨(つみいしもっかく)構造は中国起源だという。しかも東海の二重口縁壺20個も出ている。今までより広い範囲を統括する盟主の存在が想定できる。そしてこれに続いて278メートルの箸墓が築造される。これが4世紀の初頭で、次に崇神稜とされる行燈山(あんどやま)古墳が造営され、4世紀後半の渋谷向山(しぶたにむこうやま)(景行陵)へと続く。
 3世紀後半には鉄滓・送風管・砥石など鍛冶生産の痕跡がある。送風管は先端部分がかまぼこ型羽口でこの時期にしかなく、北部九州から来たという。ここに九州を征討したとされる景行の陵があるのは示唆的だが、九州からの搬入土器は纏向にはほとんどない。