青の一族

第2章 弥生後期までの各地の動静——神武の東征はあったのか 北部九州の神話が少ないのはなぜか


11 神武神話


11-1 神武の兄弟11-2 神武の大和での戦いと〈カモ〉11-3 神武の紀伊半島巡りと〈クマ〉11-4 論功行賞11-5 従わざる者たち11-6 日の神の子


 饒速日の後に大和には神武天皇が来る。神話を検討して彼の東征について考える。

11―1 神武の兄弟

『記』『紀』では、海幸・山幸の山幸(日子穂穂出見)が海神の娘の豊玉毗売と結婚して生まれたのが日子(ひこ)波限建鵜葺草葺不合命(なぎさたけうがやふきあえずのみこと)で、これが豊玉毗売の妹の玉依毗売と結婚して生まれたのが五瀬(いつせ)・稲氷(いなひ)・御毛沼(みけぬ)と神倭伊波礼毗古(かむやまといわれびこ)、神武天皇とする。『記』では稲氷と御毛沼は九州で常世の国に行き、『紀』では東征の船旅の途中で亡くなる。神武は五瀬と東へ向け旅立つ。神武と吾平津媛(あひらつひめ)の間に生まれた手研耳(たぎしみみ)も同行する。
 五瀬はもとは宮崎県五ヶ瀬川流域の首長だろう。稲氷は文字通りイナビ、印南(いなみ)で、播磨の加古川下流域の首長だ。御毛沼は『出雲国造神賀詞』(延喜式)の最初に出る神、櫛(くし)御気野(みけぬ)のことだと思う。『記』では神武のまたの名は若御毛沼だ。つまり、中心は出雲だ。神武の子は手研耳だが〈タギシ〉は出雲の地名だ。『出雲風土記』には「阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)の后、天御梶媛(あめのみかじひめ)が多久の村で多伎都比古(たぎつひこ)を生んだ」とある。
 神武の兄弟とされるのは、出雲の首長が大和を目指した旅の途上にある同盟国の首長だと見る。出雲からどう瀬戸内海に出るかは不明だが、播磨を通って紀伊半島へ南下した。そして、紀の川沿いに進んで大和盆地に入ったのだと考える。
 五瀬命の墓は和歌山市の竈山神社裏の古墳だと言い伝えられている。五瀬はもとは宮崎県の首長だったが、かなり早い時期に紀伊半島に来ていたと見られる。つまり神武の旅のときは、五瀬は紀伊の首長だった。伊勢の日信仰も彼らによって持ち込まれたものと思われる。
 歴史は、神武一行は日向から出発し筑紫(北部九州)に行き、それから瀬戸内の山陽側を順次めぐって大阪湾に至るとする。この旅で寄る場所は宇佐・筑紫・安芸・吉備で、その後は日下(くさか)の津にまっすぐ入っている。これらの土地の首長と同盟したもう一人の神武が、先の出雲の神武の後代にいたと思われる。それは九州か吉備の人だろう。

11―2 神武の大和での戦いと〈カモ〉

『記』では神武は日下の蓼津(たでつ)に着いた後、登美能那加須泥毘古(とみのながすねひこ)と戦っている。神武軍は孔舎衛(くさか)の戦いで五瀬命が負傷したので退却し、茅渟(ちぬ)の山城水門(やまきのみなと)(大阪府泉南市男里(おのさと))に着いた。さらに紀伊国の竈山(かまやま)に達したときに五瀬命が崩じた。熊野村に到り大熊の毒気に当たって倒れたところへ高倉下(たかくらじ)が来て剣、布都御魂を献上する。高木大神(たかぎのおおかみ)が八咫烏(やたがらす)を遣わし、これが道案内をして吉野川の下流(五条市)に着く。阿陀(あだ)、井光(いひか)(吉野郡川上村)、国巣(くず)、宇陀と進む。宇陀の兄宇迦斯(えうかし)を殺し、弟宇迦斯(おとうかし)は帰順する。忍坂(おさか)の土雲(つちぐも)を撃ち、登美毘古を撃ち、兄師木(えしき)・弟師木(おとしき)を討とうとすると饒速日が来て帰順する。
 歴史は、神武勢は和歌山市から吉野川を遡って五条市に着き、さらにわざわざ吉野の山の中を通って宇陀に出てから戦いを始めたと言う。しかし、実際の侵入者であったなら五条市からそのまま北上して葛城地域に入るのではないだろうか。事実そのように紀伊半島側から大和盆地に入植した人々はいたと思われる。
 5―2項で御所市の鴨都波遺跡に言及した。これは弥生前期から続く鴨氏の根拠地だったとされ、弥生中期の青銅器遺跡でもある。近くには鴨族の奉斎する高鴨・御歳・鴨都波の三神社がある。鴨族の祖は阿遅鉏高日子根神とされ、『記』に「大国主神が胸形の沖津宮の多紀理毗売命(たぎりびめのみこと)と結婚して生まれた。今は迦毛(かも)の大御神(おおみかみ)という」とある。多紀理媛(『紀』では田心(たこり)姫)は、天照大神と須佐之男の誓約で須佐之男の剣から生まれた娘で、宗像三女神の一人だ。阿遅鉏高日子根は出雲の西から玄界灘にかけてが勢力地だったことがわかる。
〈カモ〉の名は全国に分布する。〈カモ〉は〈カミ/神〉であって火のことだという説がある。昔は火をおこすのが手のかかる作業だったため、鴨族の職掌は火を絶やさないことだったらしい。火を守ることから金属器製作にも秀で、食物の調理にも関わりを持ち、広範囲に活躍したようだ。阿遅鉏高日子根の名は〈切れの良い鋤〉だとする説がある。また、大御神とつくのは天照大神と彼だけだそうで、力のある首長だったことがわかる。
 その鴨族が出雲から大和に来たのは初めは弥生前期だった。そのときのルートは、御所市の位置からして、吉野川をさかのぼり大和盆地の南西部に入るものだっただろう。しかし、弥生中期後葉に曽我川上流に高地性集落が現れ、鴨都波遺跡はいったん廃絶している。
 大和の葛城には昔から鴨族がいたが、後から八咫烏とともに新しい鴨族が来て天孫系に臣従したという説がある。新鴨は葛城の支配権を古い鴨から奪ったのではないか。『記』で道案内に八咫烏を遣わすのは高木大神だ。これは木の国(紀伊)の神で八咫烏も紀伊半島に伝承があるという。『新撰姓氏録』に鴨建津之身(かもたけつぬみ)が大きな鳥になって道案内をしたとある。後から来たのも鴨氏だった。新鴨も吉野川をさかのぼるルートをとった。鴨都波遺跡の周辺は古墳時代まで金属生産の遺跡が絶えない場所だ。人は変わってもそうした地域の特性は受け継がれていった。
 一方『紀』では、また違った物語が展開される。神武一行は河内国草香邑(東大阪市日下)に着き、長髄彦と激戦になった。五瀬命が紀伊国で崩じた後、名草邑(なぐさむら)(和歌山市南西の名草山付近)で名草戸畔を討伐する。和歌山県の紀伊水道沿岸も弥生中期から後期にかけて高地性集落が多いところだ。名草郡は後に紀国の中心になるところだ。名草の周りの郡の名前が伊都・那賀・有田と、どれも北部九州に既にある地名なので九州の糸島半島の人々が最初に地盤を築いたのかもしれない。
 神武勢はさらに狭野(新宮市佐野)を越えて熊野の神邑(みのむら)(新宮市新宮)に至り、そこから海上を進んで荒坂津(あらさかのつ)(丹敷浦(にしきうら))の丹敷戸畔(にしきとべ)を誅伐した。そこで高倉下が剣、韴霊(ふつのみたま)を献上する。それから天照大神が頭八咫烏(やたがらす)を遣わし、大伴氏の遠祖の日臣(ひのおみ)が道案内をして菟田(うだ)の下県(しもつあがた)(奈良県宇陀郡)に着く。菟田の首領の一人、兄猾(えうかし)を殺し、弟猾(おとうかし)が帰順する。吉野川に沿って西行し、井光(国巣吉野町国栖)、阿太(五条市阿太)まで行く。菟田に帰って国見丘(桜井市音羽山の南の経ヶ塚という)で八十梟帥(やそたける)を撃ち、忍坂(おしさか)の敵を殺す。次に兄磯城(えしき)を討ち、弟磯城(おとしき)は帰順する。長髄彦の義弟にあたる饒速日は長髄彦を殺して帰順する。
 この話で中心の戦いの様子が詳細に語られるのは宇陀から忍坂、香具山の南の地域についてだ。これは大和盆地の東南部に進攻した勢力の戦いを述べたものと思われる。伊勢の地理を詳しく説明しているので、盆地東南部に進攻した勢力は伊勢方面から宇陀に至り大和に入った人々だと考える。弥生中期後葉に大和盆地の南西部に高地性集落ができたすぐ後に南東部も同様の状態になる。このときそれまでの母集落は廃絶するが、集落数自体は爆発的に増えたというから、かなり大規模な戦闘だったのだろう。
 東からの侵入者は九州の氏族と伊勢あるいは尾張の氏族との連合軍だったと思われる。この地に作られた大古墳、桜井茶臼山古墳からは尾張の二重口縁壺が出ているし、墳頂には宗像神社があるからだ。国見の八十梟帥を討ったときの歌は伊勢の神風を歌っており、伊勢系氏族が中心となって戦ったことが窺がえる。『記』ではこの歌は登美毗古との決戦で歌われる。
『記』で神武は、盆地南部の戦いの後、すぐに盆地の北に蟠居する登美毗古(『紀』では長髄彦)と戦うことになっている。しかし、これはまるで盆地の真中には人が住んでいないかのようで不自然だ。だから、ここで神武と戦ったとされる〈トミビコ〉は盆地南部の鳥見山地域の豪族だと私は思う。

11―3 神武の紀伊半島巡りと〈クマ〉

 7―3項で須佐之男に関連のある地名として〈サタ〉について述べた。大和近辺では吉野郡下北山村に佐田があるが、下北山村は熊野大社本宮と20キロメートルも離れていない。それから橋本市・御所市・高市郡にある。橋本市は紀の川を遡って大和に至る入り口にあたる。この橋本市(五条市の南西)から高市郡にかけてのラインは神武の東征で彼が紀伊半島を回った経路と重なる。
 和歌山県の新宮市と東牟婁郡には熊野大社の新宮大社と那智大社がある。神武神話にこの神社への言及がある。熊野の名は出雲にも関係があるが、熊野神社は複雑だ。
 松江市にある熊野大社は出雲大社と並んで出雲の一宮だ。ここの祭神は加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(かぶろきくまのおおかみくしみけぬのみこと)、伊邪那岐の子で素戔嗚尊と同一だという。『出雲風土記』では、この神は熊野加武呂命(くまのかむろのみこと)だ。熊野大社はここを火の発祥の地とし、今も火をを起こす神事「鑚火祭」が行われているそうだ。ここには熊野久須毗は祭られていないのだが、熊野に関係ある〈クスヒ〉という言葉は〈奇火〉で、不思議な、あるいは珍しい火の意味だ。
 安来(やすぎ)市伯太町(はくたちょう)に比婆山久米神社があるが、これも以前は熊野神社という名だった。その奥の宮は伊邪那美の墓所だと言われている。祭神はほかに速玉之男神がある。
 紀伊の熊野大社には三つ神社があるが、本宮は家都御子(けつみこ)を、新宮には熊野速玉と熊野夫須美(くまのふすみ)、那智には熊野牟須美(くまのむすみ)が祭られている。熊野久須毘は『記』『紀』で須佐之男と天照大神が誓約をしたときに天照の玉から生まれた五男神の一人として人登場する。熊野〈フスミ〉も〈ムスミ〉ももとは〈クスヒ〉だという説があり、熊野夫須美は伊邪那美と同一で熊野速玉と夫婦だという。
 熊野信仰は後世大きく発展し、神話への付加や土着の神との習合が激しいと思われる。その経緯を詳しく解明するのは不可能だし考古学的物証もまったくないが、私の考えでは熊野の神は伊邪那美の時代から火を扱う仕事をしていた久米氏の神だ。伊邪那美は巫女だったのかもしれない。〈クマ〉は〈クメ〉の転訛だ。出雲の熊野の神は〈クマノ〉という名前ではない。初めは〈熊野にいる神〉なのだ。それが〈クスヒ/奇火/珍しい、優れた、不思議な火〉だったとすれば神は火それ自体で、人の神の形を持たない最も古い形式の信仰だったと推測できる。山自体を信仰する大和の三輪山も同類だ。久米氏は火を扱う物作りの集団だった。そして海洋族でもある彼らが広く旅をして、紀伊にその足跡のひとつとして残したのが熊野神社だ。
 熊野大社や紀伊半島を海路で回っていくエピソードは出雲族の旅の様子をなぞっているのではないか。歴史に言う紀伊半島を大回りして東から攻めるという発想は日の皇子の戦略として取られたものだが、実はこの時代にはまだ日の皇子という思想はなかったから、半島を回る必要はなかったのだ。それなのにこの話が入れられたのはなぜか。
 熊野大社の由来を述べる必要があったこと、尾張氏や伊勢氏の存在に言及したかったことなどの理由が考えられる。しかし、この厳しい航海で苦難に遭い神武の兄弟が次々に海に没する様子を読むと、いわゆる神武の東征より昔に西の勢力が東に向かった民族の歴史を残したいという意志を感じる。それは弥生後期に大和盆地に紀の川経由で移住した人々よりもさらに古い時代に西から東に航海した人々の言い伝えであり、伊勢湾の内海を岸伝いに進むのではなく黒潮に乗って大海を航海する苦難の物語だ。この類の話は『記』『紀』の倭建の段でも語られる。青銅器の伝播のところで述べたように九州から紀伊の御坊市、尾張の朝日遺跡と渡来人の足跡は続き、そして関東の安房にまで達している。それを示すのが早い時期の千葉県での古墳の造営だ。安房は途中の東海地方をとばして早くから畿内と関係が深かった。海流に乗ると伊豆半島などに寄港するのが難しく、千葉まで運ばれてしまうことがあると聞いたことがある。常陸風土記には神武が来たという伝承も残っている。

11―4 論功行賞

 神話では大和が平定された後、論功行賞が行われる。供の氏族に与えられた土地を見てみると、まず神武の道案内をした大伴氏の祖先は築坂邑(つきさかむら)(橿原市鳥屋町、橿原神宮のすぐ南)。大伴氏に率いられたとされる久米氏は畝傍山(うねびやま)の西の川辺の久米村。そして神武を導いたという八咫烏にも葛城の地が与えられている。すべて盆地南部だ。神武は大和全土体平定したはずなのに、なぜ神武の宮は盆地の南隅で配下の土地も南部だけなのか。それはたぶんこのとき大伴・久米とともに来た神武は大和盆地の南部に移住しただけで大和全体を掌握したのではないからだ。
『記』では邇邇芸の高千穂への降臨のときに天忍日命(あめのおしひのみこと)(大伴氏の柤)と天津久米命が随伴したとある。『紀』では日臣命(大伴氏の遠祖)の初出は紀伊の山中の道案内のときで、大来目を率いたと言う。忍坂の賊を討ったときの歌は道臣(日臣)が歌ったことになっているが、「久米の若者が敵を打ちのめす」という歌詞なのだからもともとは久米氏が戦いの中心だったときの歌だろう。宇陀の戦いでも長髄彦との戦いのときも歌われるのは久米歌だ。大伴氏は5世紀頃に朝鮮半島での軍事行動で活躍して歴史の表舞台に登場し、『記』『紀』では久米氏を使う立場のような記述が多いが、始めは逆で久米氏が大伴氏を率いていたか、まだ大伴氏は登場していなかったかのどちらかだと思われる。それは『奥国に金を出す詔書を寿ぐ歌一首』に「大伴の遠つ神祖のその名をば大久米主と負い持ちて」とあることからもわかる。また、『記』では神武につき従うのは大伴ではなく大久米だ。

11―5 従わざる者たち

『紀』では饒速日の助けで長髄彦を討ったあとで、層富県(そふのあがた)の波多(はた)(大和郡山市新木町)の新城戸畔・和珥(わに)の坂下(さかもと)(天理市和珥)の居勢祝(こせのはふり)・臍見(ほそみ)の長柄(ながら)(天理市の長柄か御所市の名柄)の猪祝(いのはふり)・高尾張邑(御所市西南部)の土蜘蛛を討ったと具体的に述べられる。
 奈良県の天理市の南、長柄の地には下池山古墳(120㍍)を始め100メートルを超える前方後方墳が5基もある。ここには前方後円墳を作る一派とは違う種族がいた。これらの後方墳は3世紀末から4世紀にかけて作られている。だから、前方後円墳一派が長柄の氏族を支配下に置いたのは5世紀以降だろう。また、饒速日神話の項で述べたが、新城戸畔は新木町のことだろうし、ここには登美毗古がいた。富雄川の北に4世紀後半の富雄丸山古墳がある。つまり、いわゆる神武の時には大和盆地には簡単には征服できない大きな勢力を張る豪族がいくつもあったのだ。新城戸畔・和珥・長柄・高尾張を支配下に置いたとするのは後世の付加だと思う。これらの氏族は5世紀に巨大前方後円墳を作った一派に統一された。5世紀後半に氏族の歴史編纂が始まったときに、征服者は自分たちの祖とした神武の時代から彼らが服属していたかのように書いたのだろう。
 古代史の本を読んでいると、大和朝廷が古墳の規模や古墳の形を各地の首長に指示したような記述を見ることがある(これは少し前まで学会の定説だったが、さすがに今ではそうではないらしい)。曰く「下位の首長には前方後円の墳形が許されなかった」云々。私はこれはナンセンスだと思う。前方後円墳一派がその当時、全国に何百もある古墳にいちいち中央から指示できるほどの力や組織を持っていたとは思えないし、地方の首長にしても先祖代々続いてきた祖霊を祭る儀式を理由もなく簡単に変更するとは思えない。前方後円墳を作った背景は、いわゆる大和政権と結んだほうが優利と見た首長が連合の証として相手の葬送儀礼を取り入れたか、古墳造営には土木の先進技術が必要なのでそれらを習得したい首長たちが真似をしたか、どちらにしても中央から命令されたというよりは自分から進んでその様式を取り入れたのだと思う。中央でも同盟者は増やしたいから地方に技術者を送り込んだり、見返りとして地方から税のようなものを出させただろう。何にせよ自主独立の道を選べる力があるなら他に追従する道を選ぶ必要はない。違う葬送形式を取ったということは、それが許されなかったからではなく、逆に主流に対抗できる力があったからだと見なすべきだ。また墳墓の大きさはその首長の財力の反映だと思う。

 これまでの考察を通して、私は神武の東征そのものは事実ではなかったと見る。神武の大和での戦いの話は、ひとつは饒速日の登美毗古との戦い、もうひとつは鴨族の紀伊半島と大和盆地南西部への進出への歴史、さらに伊勢氏族の盆地南東部への侵攻の話、さらに古くは出雲族の東への航海の物語などをまとめたものだ。それはおそらく推古天皇以降に各氏族の歴史をもとに編集されたのだろう。そして日向から北部九州―瀬戸内―河内の道筋で神武が宮を作ったとされる場所は、当時の大和政権の主要メンバーの本拠地だったのだと思う。
 いわゆる神武の人物像は何人かの首長を混ぜてつくりあげたものだ。一人は大国主に代表される出雲の首長だっただろう。それに加えて須佐之男や鴨族のように、九州とも出雲とも関連を持つ首長らが東へ向かった。関東にも神武が来たと『風土記』は言う。700年頃には長途の遠征をする首長の象徴として神武の名が知られていたようだ。

11―6 日の神の子

『記』『紀』には、神武が長髄彦に負けたのは日の神の子が日に向かって戦うのが良くなかったからだということで、神武軍は紀伊半島をまわっていく話が語られる。しかし、天皇が日の神の子だという思想は600年以降にできたものだ。
 日本に天の思想が入り祭祀に変化をもたらしたのは6世紀の初頭だという。『隋書倭国伝』によると600年(文帝20年)に倭王アメタリシヒコが隋に遣いしている。このとき使者は「倭王は天をもって兄とし日をもって弟とす」と口上を述べたが、「皇帝は天子であり日もまた同じだ」と教えられたという。この遣いのことは日本の歴史には書かれていない。この時点で日は弟と言っているのだから神武のときに日の神の子の思想があるわけがない。もしあれば、それは天皇を意味するのだから大伴氏が日臣を名乗っていたのを許すはずがない。「天を兄とし日を弟とする」という思想は高句麗のものらしい。
 そして607年に小野妹子が遣隋使になったときには口上で「倭王は日出ずる処の天子」と述べて、今度は皇帝の不興を買っている。一般にそう言われているが、上田正昭氏は、隋の皇帝が怒ったのは皇帝だけの称号である〈天子〉を蛮夷の王が使ったからで、隋を日が没するところと言ったせいではないと主張している(『私の日本古代史(下)』2012)。つまり600年までは天皇が日の神という思想はなく、高句麗系思想が朝廷の中心であったのに、7年の間に中国系思想に修正してきたわけだ。中国に対抗しようとする倭の意識はかなり大きかったと思える。中国の皇帝だけの称号〈天子〉を敢えて使ったのも対等に外交を進める意図によるという説もある。
 推古朝は日神信仰が高揚した時期だという。つまり天照大神は推古天皇だ。そして天孫族より古い由緒ある氏族で天孫族に帰順した人々の代表が須佐之男だ。天孫族ではあるものの常に天照大神の下位という位置づけだ。