青の一族

第2章 弥生後期までの各地の動静——神武の東征はあったのか 北部九州の神話が少ないのはなぜか


7 須佐之男


7-1 須佐之男の旅立ちと到着地7-2 古い時代の須佐之男7-3 〈サタ〉の名7-4 トリミ・トミの名7-5 須佐之男の追放



 高天原の主役は天照大神と須佐之男だ。
 このうち須佐之男は高天原と出雲の両方に名前の出る神だ。高天原から出雲に行ったとされる。彼は大己貴の祖だともいう。天照大神の弟、つまり天孫直系なので後にいろいろな性格を付与された面があると思われるが、彼はもとは金属関連の首長だったと私は考えている。天照大神との誓約(うけい)で生まれる五男神はどれも金属生産関連の神だ。天菩(あめのほ)卑(ひ)は出雲(いずもの)国造(くにのみやつこ)の祖とされる。熊(くま)野久須毗(のくすび)は久米氏と関わりがある (11―3項参照)。天津日子根(あまつひこね)はとてもたくさん別名のある神だがその一つは天御影神(あめのみかげのかみ)で、滋賀県の銅鐸に関連し、息長(おきなが)氏の祖とされる。活津日子根(いくつひこね)は恩智神(おんちしん)でこれは物部氏が奉じる。そしてもう一人が天孫邇邇芸の父である天忍穂耳(あめのおしほみみ)だ。須佐之男の話はいくつかの物語が重なっていると思うのでそれらについて考察する。

7―1 須佐之男の旅立ちと到着地

 福岡県鞍手郡の六ヶ岳(むつがだけ)に剣(つるぎ)神社・古物(ふるもの)神社があって、十握剣(とつかのつるぎ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祭る。伝承によると須佐之男はここから出雲に向けて旅立った。鞍手町は物部氏の本居地だという。物部氏はその名の通り、ものつくりの氏族だ。金属品製作には当然武器も含まれ、物部氏は軍事氏族の側面を持つに至る。鞍手町周辺は剣神社だらけだ。各剣神社の祭神は伊邪那岐・伊邪那美・倭建(やまとたける)・美夜受比売(みやずひめ)(倭建の妻)・邇芸速日(にぎはやひ)(神武神話で初登場)などで、岐・美二神を除き古い神ではない。
 私はこのときの須佐之男の旅の行き先は広島県だったのではないかと考えている。
 高地性集落の時代に広島市の太田川流域に金属工人集団が移住したことは述べた。弥生後期の始め、紀元1年頃以降のことだ。その後、弥生後期の中葉(100年頃)にはこの地方は北部九州をしのぐような鉄生産地になるが、その移住のときの首長が須佐之男だった。〈須佐(スサ)之男〉は鉄の王、または鉄の男という意味だろう。金属工人の首長にふさわしい名だ。安芸の太田川流域は鉄を示す〈アサ〉の地名や、九州に特徴的な円墳の小型のものが多くある。
 剣神社の祭神には古い神がいない。つまりこの神社の伝承は古く青銅器時代を遡るようなものではない。弥生後期の伝承だとすれば時期的に合う。そして、広島県の太田川から可愛川に入れば三次に着き、そこから出雲は遠くない。須佐之男は出雲に行ったという伝説に無理は生じない。
 須佐之男はなぜ旅立ったのか。福岡平野の人口爆発と新しい鉄素材を求めてのことと思うがもうひとつ理由が考えられる。7―5項で述べる。

7―2 古い時代の須佐之男

 太田川に移住した九州の勢力は弥生時代後期という比較的新しい時代の人々だ。だが一方、私は出雲には別の〈須佐之男〉がもっと古い時代から存在したに違いないとも思う。〈須佐之男〉は固有名詞ではなく、鉄あるいは金属を扱う首長なら誰でもそう呼ばれたと思う。青銅器時代には扱う金属は鉄とは限らないが、後代に須佐之男は天照大神の弟という位置づけになったので、彼の性質を持った過去の首長にその名がつけられた可能性もおおいにある。前述した五男神が須佐之男の子だとされるのも、それを裏づける。
 須佐之男が祭られる出雲市の須佐神社は佐田町にある。出雲市には佐田という地名が多くある。須佐神社社家の須佐氏は大国主の子の加夜奈留美(かやなるみ)の子孫だという。
 大国主神の神話で、大己貴は須佐之男のもとに行き、娘の須勢理毘売と結婚して山から下りてくる。そのとき須佐之男は大己貴に宇迦能山本に住めと言う。〈ウカノヤマモト〉は島根半島の平田市で斐伊川の河口だ。須佐神社のある佐田から山を降りてくるとまさにそこに出る。出雲の中心地だ。この話から考えると、須佐之男は大己貴よりも古くから出雲の山地に住んでいた。大己貴が青銅器時代の大首長で、その全盛期代はおおまかに弥生中期として、それより古くから出雲にいたとすれば弥生前期かそれより早くからここにいたことになる。
 須佐神社は広島県三次市・福岡県行橋市・長崎県佐世保市・和歌山県有田市・田辺市・御坊市にある。ここに須佐之男と紀伊の国の関係が見える。田辺市の須佐神社には須佐之男が木種をまいたという伝承がある。有田市の須佐神社は旧有田郡須佐郷にあり、遷座や勧請の経緯から伊太祁曽(いたきそ)神社との関係が深いという。和歌山市の伊太祁曽神社は紀伊国一宮で、祭神は五十猛命(いたけるのみこと)とその妹たちだ。彼らが木を植えて紀伊を緑の国にした功績があったとされる。社伝では、大国主が木に挟まれたときに助けた大(おお)屋毘古(やびこ)と五十猛は同一だと言う。
『紀』の一書に素戔嗚尊(すさのおのみこと)とその息子の五十猛神が朝鮮半島から木の種を持ってきた話がある。後に五十猛と妹たちは紀伊国に渡った。別に、須佐之男と五十猛は朝鮮半島から出雲の浜に着いたという伝説もある。

7―3 〈サタ〉の名

〈サタ〉も金属を示す語のひとつだ。
〈佐田〉の地名を調べると、出雲市に12箇所、福岡県宇佐市、愛媛県佐多岬の西宇和郡に2箇所、高知県四万十市、そして和歌山県に行って新宮市・東牟婁(ひがしむろ)郡、さらに三重県多気郡・度会(わたらい)郡にある。これらをつなぐと出雲から広島湾に出て佐多岬を通り、豊後水道に入って四国の南岸を東進、紀伊半島に着く航路が想像できる。そして伊勢湾にまで進出している。(ほかに長崎県諫早市・福岡県朝倉市・東日本にもあるが。)
 佐田の地名のある岡山県の新見市には鳥のつく町名もある。初期の四隅突出墳は島根県三次市・庄原市・岡山県鏡野にあるが、山間のこれらの場所を結ぶ線上に新見市はある。古い須佐之男は中国地方の山間部の首長たちの総称のように思える。
 彼らは四国の西を回って太平洋側から紀伊半島、伊勢湾に着くルートを持っていた。
 
7―4 トリミ・トミの名

 須佐之男は出雲の鳥上山(今は船通山)に降りたと言われる。〈トリ〉の名は多くはないが各地にあり、これも特に中国地方の金属製作種族に関わる名だと思う。兵庫県多可郡鳥羽(とりま)にある青玉神社は古くから鍛冶の神である天目一筒(あまのまひとつ)を祭ってきたという。出雲市大社町の日御碕に鳥見台がある。町名では、兵庫県新見市哲西町の八鳥(はっとり)一帯(須佐之男にゆかり)・三木市の鳥町(鉄器生産地)・大垣市の鳥見町(今は廃止)・京都市上里鳥見町(乙訓 鶏冠井遺跡がある)・名古屋市西区鳥見町(弥生の朝日遺跡がある)・奈良市鳥見町。
 7世紀の安芸、江の川につながる沼田川流域の古墳から出土した動物形埴輪は9点中8点が鳥形だ。〈トリ〉は山陰地方と鉄・青銅器の生産地に関わりがある。
 谷川健一氏は白鳥伝説と金属製作集団を関連づける考えを示した。中国地方に見られる金屋子神という鍛冶の神は白鷺に乗って飛来したという。鳥の観念は中国地方に多い。墓に黄色い鶏を関連させる、古墳に鳥の埴輪を添える、黄泉の国に渡っていく船の舳先に鳥を描くなどだ。鳥取県の名もある。『記』『紀』には鳥を追いかけて中国地方まで行く話がある。現在ある白鳥神社は大部分が白鳥になって飛び去ったという日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭っているが、彼も金属製作集団の首長だったと考えられる。但し、金屋子神は鉄生産に関係が深いものの、中国地方で鉄の生産が盛んになるのは6世紀以降だ。
 
7―5 須佐之男の追放

 神話では須佐之男は天照大神の逆鱗に触れ、追放されて出雲に行く。追放の理由は須佐之男が田の禁忌を破ったからだ。私はこの話は福岡県のものなのではないかと思う。
 須佐之男が稲田や家畜に乱暴を働くエピソードは、平地の農民と鉱山で製鉄の仕事をする工人集団との間に生まれた確執を語っているのではないか。山から多量の金属を含む水が川に流れ込むと稲に甚大な被害が出る。出雲の斐伊川には八岐大蛇の血(鉄錆)のせいで川が真っ赤になったという話があるが、これは中国地方で鉄生産が本格化する6世紀以降にできたかもしれない。しかし九州ではこれに似たことが早い時期に起こった可能性がある。北部九州では弥生中期末にはほとんどの工具が鉄製になり、後期には農具も鉄のものが出揃う。他の地域では見られない発達だ。また遠賀川流域は日本でいちばん早く稲作が始まったとされるところで、田に関する禁忌が早く言われた可能性もある。
 田に損害を及ぼした山の民を平地の農民が糾弾し、金属製作者たちはその地から立ち退いたかもしれない。これが7―1項で取り上げた、鞍手郡の人々の広島への移転の理由のひとつだったのではないか。
 天照大神の話は九州のものだと思える。彼女が女性だからだ。『景行紀』の九州征服譚でも、豊後その他の『風土記』でも九州では村長が女性であるばかりでなく、土蜘蛛の首領も女が多い。村長と土蜘蛛の違いは権力側に帰順したかそうでないかの違いだから、全体に九州には女性首長が多かったのだ。実際に古墳の被葬者が王と見られる女性という例もある。
 一般に高天原は九州、または渡来人のふるさとを指すのではないか。彼らは自分たちの祖先の名に〈天〉をつける。だから、高天原の話が九州の神話だと考えられるが、数は少ない。天照大神と須佐之男の確執の話と天岩戸(あまのいわと)の話だけだ。天岩戸の話は五ヶ瀬川上流の高千穂発祥だろうと思う(次項8参照)
 この章の初めに九州北部に神話が少ないのはなぜかという疑問を呈した。まず考えつくのは、福岡は平野が狭いうえに人の往来が激しすぎるということだ。宇土半島は縄文以来の文化が根強い地域で、南部はシラス台地で稲作に向かず、両地域とも同盟しにくい。こうした狭いところに常に新しい人と文化が入ってくる。神話をじっくり醸成する暇がない。東京に神話が生まれにくいのと同じだ。そして住人の多くを占めるのは工人集団だ。彼らは基本的に土地に根づいていない。原料の都合や雇い主の要請に従って移動もする。しかも外国人が多いので言葉による伝承が難しい。
 北部九州の人々はこの時代の先進技術の先駆けであり、その技術を持って各地に移住し開拓した。九州に神話は少ないが日本中に地名を残した。
 土地に根づいた神話をじっくり醸成することはできなかったが、重要な事件は語り継がれた。それが言ってみれば須佐之男の国譲りだ。須佐之男は国譲りをした大国主と性格が重なる。須佐之男を祭る八坂神社の縁起に、斉明天皇2年(656)に新羅の牛頭山(ごずさん)に座した須佐之男を山城八坂郷に奉祭したとある。須佐之男が斉明時代に初めて朝鮮半島から来たとは考えられないが、後に須佐之男は牛頭天王と同一視されるようになっている。牛頭天王は祟り神だ。天災や疫病を、怨みを呑んで死んだ人の霊の仕業と考えて、これを鎮め、祟りを免れようとする御霊(ごりょう)信仰が八坂神社の特色だ。このことも大国主と重なる。私には、大国主の事跡と考えられるような事柄を述べるとき『記』『紀』では、これを須佐之男の事跡にすりかえる傾向があるように思える。

 須佐之男は、古くは縄文や弥生の早期に九州や中国地方の山間部に鉄を求めて渡来した種族の首長を指した。そこから出雲の大国主の祖という伝承が生まれた。弥生後期になって北部九州から安芸に鉄器製作集団が移動したときの首長も須佐之男と呼ばれた。このとき九州で須佐之男と並び立っていた首長は女性で、これが後に天照大神とされた。以上が須佐之男に関する私の推測だ。