青の一族

第2章 弥生後期までの各地の動静——神武の東征はあったのか 北部九州の神話が少ないのはなぜか


8 大山津見神


 須佐之男の剣から生まれた天忍穂耳の子、日子番邇邇芸(ひこほのににぎ)は「竺紫の日向(ひむか)の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降」る(『記』)。垂直思考は北方山間民族のもので、韓国には金官加羅国の始祖、首露王がクジの岳に降りたという伝承がある。私には『記』の記述は韓国版の直訳に見えるが、クジフルタケは霊妙な山と解釈する説もある。いずれにしても天孫は北からの渡来人系だと思われる。場所は宮崎と鹿児島の県境の高千穂峰とされる。『紀』に「襲(そ)の」と国の名が記されているからだ。
 邇邇芸は笠沙の岬で大山津見の娘の神阿多都比売(かむあたつひめ)、またの名は木花佐久夜毗売(このはなさくやびめ)に会って結婚する。笠沙は鹿児島県の万之瀬川の近くで、この話は4―1項で述べた万之瀬川河口に南海産の貝の交易に携わるために渡来した人々と無関係ではないと思われる。阿多都比売はこの交易に関わった一族の首長の娘だろう。
 大山津見は東シナ海に活躍した土着の海洋族の長で、〈大山津見(おおやまつみ)〉はもとは〈大海津見(おおあまつみ)〉だっただろう。南の文化では海を表す言葉は〈アマ〉だ。後に海神を表す語は〈ワタツミ〉となるが、朝鮮語で海は〈パタ〉なので、パタが〈ワタ〉に転訛し、南の文化が北の文化に取って代わられるに従い、海の神〈アマツミ〉(ツは〈の〉、ミは〈神〉)は〈ワタツミ〉になった。大山津見を祭る神社は各地にある。その中で伊予国一宮の大山祇(おおやまつみ)神社は海上交通の守護神で、全国の大山祇神社の総本山だ。瀬戸内海のほぼ真ん中にある愛媛県の大三島にある。どうして山の神が海の安全を守るのか。瀬戸内は古くから九州南東部と交流があった。交流には当然船を使った。その安全を守る神はアマツミだった。だから後に来たワタツミではなく、ヤマツミつまりアマツミを祭っているというのが私の考えだ。社伝では大山祇は天照大神の兄ということになっている。天照大神より格上としたところが大山祇の歴史の古さを物語っている。
 ところが大山津見は海だけでなく、その名の通り山間地にも祭られていることが多い。木花佐久夜毗売は全国にある浅間(せんげん)神社の祭神だ。浅間神社は富士山信仰の社で、大山津見や彼のもう一人の娘、石長比売(いわながひめ)が祭られていることもある。なぜだろう。実は、高千穂の峰は九州にもうひとつある。宮崎県の北部の高千穂町。ここの二上山に邇邇芸が天降ったとの伝説がある。『和漢三才』には、五ヶ瀬川の中流の二子山速日峰に天饒速日(あめのにぎはやひ)が降りて高千穂と名づけたとあるそうだ。高千穂町には創建が神代と言われるくし触(ふる)神社もある。くしふる山が神体だという。高千穂町は五ヶ瀬川の上流、阿蘇山の南東の麓といった位置で、有明海に注ぐ緑川の上流にも近く、四隅突出墳が最初にできた広島県の三次市を思わせるような地理的条件がある。高千穂町の神社は伊邪那岐・伊邪那美を祭っているものが多い。昔この地に蟠居した豪族は阿蘇の山を大山津見として信仰していたのではないか。浅間(アサマ)は阿蘇(アソ)から転訛したのだろう。
 先に述べたように、縄文時代に鉱床を探しながら高地集落を営むような渡来人が、この地で土着の豪族の娘と結婚したのだ。大海津見と大山津見は本来別の神だったが長い時間の中でひとつになってしまった。
『記』『紀』いずれも降りたのは〈ヒコホノ邇邇芸〉と記す。だが、伝説として語り継がれた人物は邇邇芸とされる人ではないだろう。神話が記録されたのは5世紀で、〈ヒコ〉が前に来る名自体が5世紀のものだ。邇邇芸は天皇家の直近の祖だから彼の存在は5世紀からそう遠い昔のことではないと考えられるからだ。