青の一族

第2章 弥生後期までの各地の動静——神武の東征はあったのか 北部九州の神話が少ないのはなぜか


9 火明命(ほあかりのみこと)と尾張氏


9-1 籠神社系図9-2 大和と尾張の尾張氏


 須佐之男の子のうち四人は金属関連だった。私はこの点からも彼は〈鉄の王〉だと思うのだが、では忍穂耳はどうなのか。私はこの人は尾張氏の祖の一人ではないかと思っている。尾張氏は愛知県名古屋市の熱田神宮を奉斎していた武器製作集団であり、後に濃尾平野の物作りのリーダーになった。熱田神宮は須佐之男が八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から取り出した草薙の剣を祭っている。尾張氏の出自について考える。 

9―1 籠(この)神社系図

 京都府宮津市の丹後一宮の籠神社に伝わる『海部氏系図』は、物部氏の歴史書と言われる『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』の尾張氏の系譜によく似ている。次に示す。
系図

『紀』では、火明命(ほのあかりのみこと)が尾張連(おわりのむらじ)の祖となっている。火明は高千穂に天下った邇邇芸の息子で神武(日子穂穂出見)の弟だ。『紀』のこの段の六つの一書のうち四つに火明の名が出る。第五書では火明は彦火火出見の兄だ。『記』では、邇邇芸の子は火照(ほでり)・火須勢理(ほすせり)・火遠理(ほおり)の三人で火明の名はない。
『因幡国伊福部臣古志』の系譜では
  大己貴―五十研丹穂(いきしにほ)―……―櫛玉神饒速日(くしたまのかみにぎはやひ)―可美真手(うましまで)―……―伊香色雄(いかがしこお)
 とつながり、ここでは物部氏は大己貴の後裔と書かれている。
『播磨風土記』では火明は大汝命(おおなむちのみこと)の子とされている。
 新潟県弥彦神社の家伝書『伊夜日子宮旧伝(いやひこぐうきゅうでん)』の系譜では、
  忍穂耳(おしほみみ)―火明櫛玉饒速日―香語山(かごやま)―……―置津世襲(おきつよそ)
となっているらしい。
 また『新撰姓氏録』では火明の後裔には天穂日命・天彦根命・天道根命がいる。
 火明は『紀』の四つの一書に名が出ているので、いくつもの氏族に知られた首長だったと思う。私は中国地方が彼の本拠地だったと推測する。彼の後裔の天穂日は出雲の祖、天彦根は近江の祖、天道根は紀伊の祖で、出雲や銅鐸に関連している土地の祖となっているからだ。『但馬古事記』(814)は、櫛玉饒速日天火明尊が天道日女(あめのみちひめ)を娶り、諸国を遍歴して大和の鳥見白庭山に着くまでのルートを記すという。この名からすると尊の主体は饒速日ではなく火明だ。火明は大己貴の子とされているし、神武勢に帰順して出雲の祖となった天穂日の祖とされているので大己貴よりは後の時代の人だろう。
『新撰姓氏録抄』には振魂命(ふるたまのみこと)の四世の孫が天忍人(あめのおしひと)だと記す。振魂命は『先代旧事本紀』に天之御中主神のようなひとり神として現れる。また、『古代豪族系図集覧』には綿津見神の子に、豊玉姫と宇都志日金折拆(うつしひかなさく)(安曇氏の祖)と振魂命がいて振魂命は尾張氏と倭国造(やまとのくにのみやつこ)(=多氏)の祖とある。振魂命は中臣連の祖という説もある。『古代豪族系図集覧』は現代の書だが系図研究者に衝撃を与えたという内容を持つらしい。私もこの書の系図に共感を持つ。8項に書いたように綿津見は万ノ瀬川河口を拠点にした海洋族の首長で、これに玄界灘起源の安曇氏が関わった可能性は高い。豊玉姫伝承はもとは鹿児島南部のものでその兄弟が尾張氏の祖ならば、天香語山(=鹿児島)という名の神の登場にもうなずける。
 私は尾張氏の祖は火明ではなく天香語山(あめのかごやま)で、その孫の天忍男(あめのおしお)が実は忍穂耳と同一人物なのではないかと思う。『先代旧事本紀』の系図でも『海部氏勘注系図』でも、香語山の息子の天村雲命の妃は阿俾良依姫(あひらよりひめ)だ。アヒラ(姶良(あいら))は鹿児島県の地名で、忍穂耳の息子、邇邇芸の妃も鹿児島の阿多の姫だ。
〈カシマ〉はおそらくもとは〈キシマ〉で佐賀県の杵島郡のことだ。筑後平野には福岡地域よりも古い銅鐸の遺跡が出る。尾張氏はそこから鹿児島に来た。邇邇芸の婚姻譚は、主人公が差し替えられた尾張氏の伝承だったのではないか。『記』には忍穂耳が降臨するところだったが、息子が生まれたのでその子を行かせたとある。『紀』では初めから忍穂耳は候補に挙がってもいない。5世紀に歴史が書かれたとき、尾張氏より勢いのあった同族の物部氏は尾張氏の祖を天孫にしたくなかったので邇邇芸が降臨したことにしたのだと思う。
 尾張氏は四国東部→紀伊→大和→尾張へと進出した。高松市の讃岐一宮の田村神社には天隠山命(高倉下(たかくらじ))と天五田根命(あめのいたねのみこと)(天村雲)が祭られている。『伊予国風土記』『阿波国風土記』ともに、香語山に通じる香具山はもとはこちらにあったと記す。
 御所(ごせ)市(し)五百家(いうか)の南に天安川(あめのやすかわ)神社がある。ここの祭神は天尾羽張(あめのおはばり)だ。これは伊邪那岐が子の迦具土(かぐつち)を切ったときの剣だ。私は天尾羽張が尾張氏の名の由来ではないかと思う。天香語山のまたの名に高倉下がある。『記』『紀』で、高倉下は神武が大和に入る前に布都御魂(ふつのみたま)という剣を奉る。これを天から与えたのが建御雷神(たけみかづちのかみ)で、彼は天尾羽張の息子だ。熱田神宮境外摂社には高倉下を祭る高座結御子(たかくらむすびみこ)神社がある。
 また香語山は手栗彦(たくりひこ)という名で越(こし)の開拓のため米水浦(よねみずがうら)(新潟県寺泊町野積浜(のづみはま))にも行っている。系図にある七世の孫、建諸隅(たけもろすみ)は『勘注系図』(海部氏本系図の補足)では由碁理(ゆごり)と同一だとされる。由碁理は開化天皇の后になった竹野媛(たかのひめ)の父で、丹後の人だ。由碁理を祭る神社は京丹後市・新潟県弥彦町などにある。尾張氏の祖が火明という伝承はこのとき山陰地方との交流で生まれたか、あるいは桜井市の鳥見山に火明一派が来て尾張より上位になって生まれたのかもしれない。
 尾張氏の伝承では天村雲命以降は尾張の国造を代々務めたという。

9―2 大和と尾張の尾張氏

 尾張氏は名古屋市が本拠の豪族だ。初めの尾張氏は、清須市から名古屋市西区にかけて広がる弥生の朝日遺跡から北へ進出して一宮市に達したという説がある。一宮市に尾張一宮の真(ま)清(すみ)田(だ)神社があって、これは尾張氏の奉斎に始まると言い、祭神は天火明命だ。社伝によると尾張氏は葛城の高尾張邑を出てここに来た。
 高尾張邑は金剛山麓の谷あいの御所市五百家付近だと思われる。イウカ=イフカはフキ、つまり金属製作に必要な風を起こすことで、五百家に近い風の森では野だたらが行われたらしい。風の森神社には風の神の志那津比古(しなつひこ)が祭られている。五百家では銅を採掘した跡もあり、長柄(ながら)では銅鐸が出ている。『神武紀』に、葛城には赤銅の八十梟帥(やそたける)がいるという記述があり、また彼らは侏儒のようだという。小人伝説は金属生産者に多い。高尾張の人々は金属器生産者だった。しかし、朝日遺跡は弥生前期の銅鐸鋳型が出た古い遺跡だから、香語山や天忍男が朝日遺跡の最初の渡来人だとは思えない。神社伝承の高尾張から来たという人々は朝日にいた先住の物作り集団に合流したということだろう。
 建諸隅の妹に大海姫(おおあまひめ)がいる。彼女は崇神の妃になったと『先代旧事本紀』は言う。『記』『紀』も建諸隅には言及しないものの、大海媛は崇神の后だとする。大海姫は尾張の人で海部氏と尾張氏は同族だと考えられる。兄は孝昭天皇に仕えたとある。その二代後に奥津余曾(おきつよそ)がいて、この人の妹の余曾多本毗売(よそたほびめ)が考安天皇の后になったとされている。天皇は、孝昭―孝安―孝霊―孝元―開化―崇神とつながるのでどれも時代が合わないが、欠史八代は特に時間軸ではほぼ信用できないのでどちらが間違っているとも言い難い。しかしこれらの人が尾張氏に関連があったことは事実だろう。
 火明の名前につく〈ホ〉は字の通り火であって、従来天皇の名に〈ホ〉がつくと稲穂のことだとされたのとは違うと思う。火はすべての民にとって重要であり神秘であり守り神でもあった。これを魔法のように操る集団が尊敬を集め、尊いとされたのも当然だろうと思う。神武軍の毒気を払った布都御魂(ふつのみたま)という剣も倭建の草薙の剣も尾張氏の作ったものだろうと私は思う。