青の一族

第3章 古墳時代前期-邪馬台国はどこか



2 庄内期


2-1 庄内式土器2-2 栲幡千千姫


 庄内期は弥生と古墳の間の比較的短い時間に現れた土器様式からつけられた名だ。豊中市庄内から出た土器なので庄内式という。200年から250年、あるいは300年頃までの時期が庄内期だ(その後の布留式がいつ始まるかは説が分かれる)。

2―1 庄内式土器

 田中元浩氏によれば庄内甕は八尾市の中田遺跡群で出現し、そこの人々が中河内全域に配給した、いわゆる商品だったという(『庄内式土器の研究』2004)。中田遺跡群とは生駒山西麓の中田・萱振・成法寺・東郷・小阪合・東弓削の各遺跡だ。中田遺跡からは吉備系土器が大量に出土している。吉備の人々が河内に入植したと考えられる。
 大和川流域で吉備型甕が出土した遺跡は30箇所のにものぼる【図17】。ここで言う大和川は今のように西行して大阪湾に達するのではなく、生駒山の東を北行して河内湖に注いでいた。その頃は今の大阪平野はほぼ内海になっていて、これを河内湖と呼ぶ。河内湖の南岸は大阪城の南3キロメートルほどのところで、大和川の河口付近が川俣だ。ここは奈良盆地に入るのに欠かせない要衝だったろう。ここに古墳時代に先駆けて吉備からかなりの人数が入ったようだ。摂津でも猪名川流域や沿岸部10箇所以上で吉備型庄内甕の出土がある。庄内式は大和では天理市から桜井市にかけての地域からしか出土しない。
図17 大和川流域の吉備型甕の分布 (『古式土師器の年代学』から)
大和川流域の吉備型甕の分布
 弥生後期に北部九州に畿内系土器が流入するが、庄内式甕が多く出土するという。河内型の甕は福岡県小郡市に集中する。また筑後川河口の佐賀市の諸富町土師本村遺跡からも多く出土した。庄内の名はこの甕が出土した豊中市の庄内地区から来ているが、庄内の名が福岡県由布市にもある。由布市内の大分川の流域は庄内ばかりだ。大分川は久珠川・筑後川につながり、日田・うきは・朝倉・小郡など、後の古墳から渡来系や大和との関係が深いとわかる地域への水路になっている。尾張にも庄内川がある。名古屋市の西を流れ伊勢湾に注ぐ。
 吉備では旭川が瀬戸内海に出るあたりに古い集落が発達したようだ。今の岡山市周辺だ。その河口の両側に初期古墳である都月坂1号墳と備前車塚古墳がある。当時は海岸線は内陸深く入り込んでいたので、これらの古墳はかなり海に近いところにあっただろうと思われる。そのあたりから旭川は分岐して東に百閒川、西に旭川として下る【図18】。百間川流域には縄文から弥生までの大集落がある。
図18 吉備の川と古墳 金蔵山古墳の東に河口があるのが百間川 (『岡山県の歴史』から)
吉備の川と古墳
 庄内Ⅰ期かそれ以前、中国山地では甕は山陰の影響下にあって美作(みまさか)で製作されていた。吉備ではその頃百間川と総社加茂遺跡で庄内型甕を出土するが、その他の地域では酒津型を使っていた。ところがそのすぐ後に吉備型甕が出現する。吉備での分布は足守川(あしもりがわ)と旭川の下流域だ。百間川は300年頃に大洪水に見舞われたらしい。吉備型甕は極限まで薄い壁の甕で当時最高の技術で作られたという。この甕は始めは小郡周辺にいた渡来人の工人が作り始めたのかもしれないが、吉備はその技術を使って庄内Ⅱ期(220年頃)から大量に製作し始める。その頃から吉備と河内の交流が盛んになる。庄内Ⅱ期頃、足守川流域の集落が姿を消す。大和へ移動したのではないかと言われている。
 吉備型甕はその後百年以上も使われ、布留Ⅱ式(350年頃)の時期になって布留型甕に取って代わられる。布留式になっても河内での甕の製作の中心は中田遺跡だという。
 これらからわかるのは、古墳時代前期には河内、特に大和川流域には先進的な技術を持った吉備人が既にいたこと、八尾市(大和川流域)と大和盆地の東南部は九州、それも筑後川中流地域とつながりが深かったことだ。

2―2 栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)

 庄内の名が多い由布市から連想するのは瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の母である栲幡千千姫だ。私は彼女は由布市の人ではないかと思う。姫の名である栲は楮(こうぞ)やカジノキと呼ばれ、この繊維を細く裂いて糸にして織った布をユウと言う(ゆうは木綿とも書かれるが綿の織物ではない)。これがたくさん生えていたのが由布市の名の由来だ。この人が生きた時代は庄内期、つまり弥生と古墳時代の間なのではないか。栲幡千千姫は忌部氏とつながりが深いので、第6章の「3 忌部(いんべ)氏」の項でまた検討する。
 栲幡千千姫は『紀』で高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘で、天忍穂耳と結婚して天津彦彦火瓊瓊杵尊を生む。高皇産霊はこの孫をかわいがって、忍穂耳を飛び越してこの孫に芦原中つ国を与えることにする。一方、『記』に出てくるのは萬幡豊秋津師比売(よろづはたとよあきつしひめ)で、幡の名から織物の神だということは推測されるが、栲とは書かれていない。父親も高木神で生んだ子は天火明命と天日高日子番邇邇芸命となっている。ヒコの名がつく邇邇芸はたぶん後代の挿入だから、子は火明だったことになる。『記』のこの話は栲幡千千姫の話より古い時代のものに思える。