青の一族

第4章  4世紀後半から5世紀にかけて


1 佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群


 4世紀中頃から5世紀にかけて奈良盆地の北、佐紀の地に大型古墳が相次いで作られる。20メートルを越える古墳は、五社神(ごさし)古墳(276㍍ 神功皇后陵に治定)・ウワナベ古墳(265㍍ 八田皇女(やたのひめみこ)陵に治定)・市庭(いちにわ)古墳(250㍍ 平城天皇陵に治定)・佐紀石塚山古墳(220㍍ 成務天皇陵に治定)・ヒシアゲ古墳(218㍍ 磐之媛(いわのひめ)陵に治定)・佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳(210㍍ 日葉酢媛(ひばすひめ)陵に治定)・コナベ古墳(204㍍)、そして少し離れた場所にあるが、この古墳群に含められることもある宝来山古墳(227㍍ 垂仁天皇陵に治定)だ【図25】。
図25 山の辺と佐紀の古墳の編年
纏向遺跡の土器
 4世紀中頃に作られた五社神古墳を皮切りに、4世紀後半に陵山・宝来山、4世紀末に石塚山と作られ、5世紀前半に市庭→コナベ→ウワナベと続き、5世紀後半にヒシアゲが作られたという(広瀬和雄『前方後円墳の世界』2010)。
 これらの想定被葬者がどういう関係にあるかというと、まず垂仁は崇神に続く天皇ということになっている。その皇后が日葉酢媛。垂仁に続く天皇の景行と八坂入媛の息子の若帯彦(わかたらしひこ)が次の成務天皇。磐之媛と八田皇女は二人とも時代が下がる。天皇は成務→仲哀→応神と続き、その次の仁徳天皇の皇后だ。そして神功皇后は、『記』によれば、開化天皇が丸邇(わに)氏の意祁都比売(おけつひめ)を娶って生んだ息子の曾孫にあたるので、年代的には成務の皇后になるのが自然だが、その次の仲哀天皇の皇后だ。垂仁から仁徳まで六代にわたる人々の墓ということになる。しかし成務・仲哀が名前から後代の挿入と考えられることもあり、実際には三代くらいの期間ではなかったかと思う。ともあれ、神功皇后の墓がここにあることは、これらは彼女が行ったとされる新羅征討に関わった人々の墓である可能性が高いだろう。
 神功皇后と新羅征討に関わると見られる人物や古墳を検討していく。