青の一族

第3章 古墳時代前期-邪馬台国はどこか


6 4世紀前半


6-1 前方後方墳の系譜6-1-1 濃尾平野の氏族と孝昭天皇6-1-2 大和盆地の前方後方墳6-2 景行天皇6-2-1 播磨-伊勢-美濃6-2-2 景行天皇の婚姻関係と渋谷向山古墳の主6-3 倭建伝承6-46-4-1 倭建の通った道にある古墳6-4-2 近畿の古墳

 纏向は380年頃まで続く。4世紀前半はまだこの周辺の古墳がいちばん大きい。崇神陵と言われる行灯山古墳は242メートル、西殿塚は230メートル、東殿塚は175メートル、中山大塚は130メートル、灯籠山110メートル。盆地南部のメスリ山は225メートル、崇神陵に匹敵する大きさだ。西殿塚・東殿塚はともに3世紀後半の築造で、特殊器台の形から西殿塚が少し先行すると言われる。中山大塚からも特殊器台が出ているので、これら一連の古墳は吉備系王の墓だろう。そして4世紀後半に最後の大古墳渋谷向山(300㍍)が作られる。

6―1 前方後方墳の系譜

 古墳の歴史は岐阜市の瑞龍寺山山頂古墳が最古かもしれないと述べた。箸墓は規模では当時最大だが、この時期に前方後方墳も多く作られている。その発祥地は愛知県一宮市だが、ここには大きな古墳はできていない。濃尾平野とその周辺に4世紀に作られた50メートルを越す前方後方墳は、矢道高塚(やみちたかつか)古墳(大垣市)・弘法山古墳(松本市)・東之宮古墳(犬山市)・桜井二子古墳(安城市)・宇都宮古墳(小牧市)・西寺山古墳(可児市)・向山(むかいやま)古墳(松坂市)。そして4世紀の末に大垣市に作られた粉糠山(こぬかやま)古墳(100㍍)が東海地方では最大だ。
 130年から300年頃の廻間式土器は一宮市の発祥で広く流布した土器だが、これは当時の最新技術で作られたものだった。これをもたらした陶工が一宮市にいた。それが尾張氏だと思われる。

6―1―1 濃尾平野の氏族と孝昭天皇
 濃尾平野で4世紀にいちばん多く大型古墳が作られるのは大垣市だ。ここは東日本と西日本をつなぐ交通の要衝であり弥生時代から発展した。そういう場所はひとつの氏族だけが支配することはなかなかない。そして実際にここを通って西から東にいくつもの氏族が移動したように見える。
 一宮市のある葉栗郡は羽栗臣(はぐりのおみ)からきていると思う。羽栗臣の本貫は滋賀県大津市の東だ。一宮市には若栗神社があって、7世紀の後半のことだが葉栗臣人麿が祖の天押(あめおし)帯日(たらしひ)子(こ)を祭ったという。大津市の北東に守山市があるが、名古屋市にも守山区がある。琵琶湖の東岸には愛知(えち)郡がある。愛知郡の北に犬上郡がある。犬上氏は犬飼をする一族だったようだ。犬上神社の社伝では天日矛(あめのひぼこ)の後裔だ。そして愛知県には犬山市があるが、犬上氏と何か関係がありそうだ。その証拠は何もないが、犬山市は全国で唯一の犬のつく自治体だという。
 孝安天皇は諱を大倭帯日子国押人命(おおやまとたらしひこくにおしひとのみこと)(天押帯日子)といい、欠史八代の一人だ。孝昭天皇と尾張氏の余曾多本毗売(よそたほびめ/市の宇夫須那(うぶすな)神社は余曽多本比売を祭る)の第一子とされる。琵琶湖の周囲の氏族のほとんどは彼の子孫ということになっている。春日・大宅(おおやけ)・粟田・小野・柿本・一比韋(いちひい)・阿那・羽(は)栗(ぐり)・都怒(つの)山(やま)・近淡海(ちかつおうみ)国造がそれらだ。また伊勢湾岸地方にも子孫がいる。知多臣(ちたのおみ)、伊勢飯高・一師君(しいのきみ)だ。そしてそれらはほぼみな和爾氏系だ。『紀』には彼が和爾氏の祖だとある。天押帯の〈タラシ〉の名は後世の作だから孝昭天皇とその子孫の記述には和爾氏の作為が感じられる。また尾張氏に自身の出自を天皇家に結びつける意図があったとも思える。ただ、越前や若狭からの豪族の首長たちが琵琶湖沿岸を通って濃尾平野にやってきて、彼らと尾張氏が関係を深めたのは事実だろう。孝昭天皇は近江の人で、尾張氏と婚姻関係を結んだと考えても不自然ではない。
 3世紀に東之宮古墳ができた犬山市は丹羽郡だ。丹羽郡は丹羽氏の勢力下にあった。江南市・岩倉市などを含み、4世紀には青塚古墳(123㍍)・5世紀中頃には妙感寺古墳(95㍍)・6世紀には曽本二子山(そもとふたごやま)古墳(60㍍江南市)と続けて古墳を作る。
 大垣市には4世紀前半の矢道高塚古墳(70㍍前方後方墳)、4世紀後半には花岡山古墳(60㍍)・親ヶ谷古墳(85㍍)・矢道長塚古墳(90㍍)・昼(ひる)飯(い)大塚(おおつか)古墳(150㍍)、5世紀前半には遊塚(あそびづか)古墳(80㍍)・粉糠山古墳(100㍍前方後方墳)が作られ、いくつかの首長系譜がある。昼飯大塚を除きこれらの古墳には葺石はあるが埴輪がないものが多く時期が特定しにくいらしい。どれも4世紀後半と言われるが、上の順で首長系譜はあるという。昼飯大塚は葺石・埴輪を備えており、大和盆地北部の新しい埴輪祭祀や陶質土器など朝鮮半島の影響が見られるという。そして播磨の行者塚古墳と祭祀の形式が同じだ。
 春日井郡の名は安閑天皇妃の部民からきた。安閑は継体天皇の子だから元の地盤は三島や越前にある。春日井郡は春日井市・小牧市・尾張旭市・北名古屋市・瀬戸市などを含み、3世紀に高御堂(たかみどう)古墳(63㍍前方後方墳春日井市)ができて、4世紀に宇都宮古墳(59㍍小牧市)・5世紀末に味美白山(あじよしはくさん)神社古墳(86㍍春日井市)・6世紀初頭に味美二子山古墳(94㍍春日井市)と続く。
 三河国造の本拠地は現在の安城(あんじょう)市で、矢作川流域に勢力を持った豪族だ。4世紀前半に二子古墳(68㍍)・後半に姫小川古墳(66㍍)・5世紀初頭に和志山(わしやま)古墳(60~80㍍岡崎市)を作る。
 名古屋市では4世紀中頃に中社古墳(63㍍)・後半に白鳥塚古墳(115㍍)・末に守山白山古墳(98㍍)・5世紀後半に志段味大塚(しだみおおつか)古墳(61㍍帆立貝形)・5世紀末に守山瓢箪山(もりやまひょうたんやま)古墳(63㍍)・6世紀頃に勝手社(かってしゃ)古墳(53㍍)と続けて大型古墳ができるが、これらはすべて守山区だ。中社と白鳥塚の後円部頂には石英(白石)が敷き詰めてあった。これが白鳥塚の名の由来だそうだが、この祭祀の仕方は大和盆地や古市にもつながる(4章5―5―2項参照)。名古屋市の古墳の約6割が守山区にあるらしい。ここは庄内川を制した氏族の本貫だったと考えられる【図24ABCD】。
図24 A 濃尾平野の古墳 不破古墳群の分布 (『昼飯大塚古墳』から)
濃尾平野の古墳 不破古墳群の分布
図24 B 濃尾平野の古墳 不破古墳群の系列 (『昼飯大塚古墳』から)
濃尾平野の古墳 不破古墳群の系列
図24 C 濃尾平野の古墳 濃尾平野概観 (『昼飯大塚古墳』から)
濃尾平野の古墳 濃尾平野概観
図24 D 濃尾平野の古墳 愛知県の古墳 (『愛知県の歴史』から)
濃尾平野の古墳 愛知県の古墳
 後に名古屋市の千種区・西区・東区が物部氏の支配下に入って守山区も一部含まれるが、守山区はその中にあっても独自性をある程度保った豪族の支配地だったと思う。
 こうしてみると尾張氏が進出した場所には大きな古墳がない。尾張は後に国名になったが尾張郡というものはない。これは尾張氏としての領土がなかったということだ。物作りとして大きな業績を残し人々に影響を与えても地名もなく古墳もないのは、物作り集団は基本的に渡来人で自身の土地がないからだ。古墳を作るには地域住民を動かす力がいる。それには古くからそこに住んでいる首長であることがまず第一条件になりそうだ。それでも尾張氏の古墳と言える大古墳が築かれるときがくる。それは6世紀のことだ。

6―1―2 大和盆地の前方後方墳  
 4世紀前半に天理市の大和古墳群に120メートルの前方後方墳・下池山古墳が作られ、三輪山周辺にも後方墳ができる。大和古墳群には波多子塚(はたごづか)(140㍍)・フサギ塚(110㍍)と続けて作られ、4世紀後半には仙之内古墳群に最大の西山古墳(183㍍)ができる。纏向では3世紀の中頃には外来土器が30%を占めていてその内東海系が49%もあったのだから、東海の住民が移ってきていたとしても不思議ではない。しかし、纏向ほどの古墳密集地はなく、これらの古墳をすべて現地の資力や労働力だけで作りきれたとは思えない。首長たち自身はそこに住んでいたかもしれないが、労働力や物といった資源は自分の本拠地から都合していたのではないか。実際纏向には住民生活の跡が薄い。当時纏向は王都であって、ここで覇権を争い、ここに力を示すことが各首長の第一命題だったのではないかと思う。そして前方後方墳勢力はそれを示すだけの力を持っていた。
 前項までに述べた美濃を中心とした勢力が奈良盆地では纏向の北の山裾に広がる古墳群を形成したと推測できる。
 大和高田市にも4世紀前半の前方後方墳がある。新山(しんやま)古墳(137㍍)で34面の銅鏡(その中のひとつは直弧文鏡)と金銅製帯金具が出た。帯金具は中国紅蘇省出土のものに近いという。この古墳は馬見(うまみ)古墳群に含まれるが、その中ではいちばん早い。
 これら後方墳氏族と連動すると思われるのが東海地方の二重口縁壺を持つメスリ山の被葬者だ。そして、それらがひとつに統合されるのが景行天皇陵とされる渋谷向山だろう。この古墳は4世紀後半の築造と言われている。纏向の最後の大古墳としての渋谷向山と景行天皇について見ていこう。

6―2 景行天皇

渋谷向山古墳の被葬者と言われる景行天皇は、『紀』では九州を平定したと伝わっているが、『記』ではほとんど何もしない。『記』「景行段」の主人公は倭建(やまとたける)だ。『記』は多氏の歴史が下敷きだろうが、5世紀に各氏族が自分たちの歴史を記し始めた頃には景行の説話は、少なくとも多氏のあずかり知らぬところだった。私は、景行天皇と言われる人の業績を『風土記』がまとめ、それを『紀』の編者が取り入れたおかげで『紀』に景行の九州征服譚ができたと考えている。景行天皇は、初めは大和盆地に政権を打ち立てた首長連合の一員ではなかった。
また、景行天皇の諱は大帯日子淤斯呂和気(おおたらしひこおしろわけ)で、この名からも彼が後から系譜に挿入されたことはわかる。〈タラシ〉は「広く世を治める」の意で7世紀頃の美称だ。4世紀には彼の名は知られていなかったことになる。同じ理由で成務(わかたらしひこ)・仲哀(たらしなかつひこ)も後の挿入だと考えられる。
ではなぜこの渋谷向山が景行天皇の墓とされるのか。前項で述べたように、4世紀前半に纏向の周辺に大型の前方後方墳がいくつも築かれる。纏向遺跡には東海系土器が大量に入っている。一方、九州からの搬入土器はほとんどない。そして纏向の古墳の集大成のように4世紀後半に渋谷向山古墳が築かれる。その被葬者には九州の影は薄く、美濃や尾張の首長を束ねるような人だったと思われる。それなのに『風土記』では景行は九州の征服者だ。『記』『紀』の景行に関する記述を追って、彼の人物像をもう少しはっきりさせてみよう。

6―2―1 播磨―伊勢―美濃  
『播磨風土記』では加古川河口に景行伝承が多い。加古川市の日(ひ)岡御陵(おかごりょう)は、景行の后の伊那毗大朗女(いなびのおおいらつめ)の墓だとされる80メートルの前方後円墳で、4世紀代の築造だという。景行の母は丹波の美知能宇斯(みちのうし)の娘、比婆須比売(ひばすひめ)と伝えられる。加古川の上流、丹波(たんば)篠山(ささやま)市に美知能宇斯の墓と言われる雲部車塚(くもべくるまづか)古墳がある。これは5世紀中頃の造営なので、伝承とは時期が合わないが、彼とこの地の縁が深いのは事実だろう。丹波の中心は初め丹後の竹野川流域だったが後に篠山地方に移ったという。
加古川河口付近以外の播磨では神功・応神伝説が多数残っている。そのほかには伊和の大神と天日矛の話が多い。伊和の大神の本拠は揖保川中流の石作(いしつくり)の里だという。大神の伝説は揖保(いぼ)郡・宍粟(しそう)郡の両方にあるが宍粟郡には天日矛伝承も多い。宍粟郡の北の、国は但馬になるが円山(まるやま)川流域の出石が日矛の本拠と言われるので、大神と日矛の間で土地争いの史実があった反映だろうと思う。石作周辺には出雲系伝承も多い。石作の里では酒造りが行われていた。
揖保郡にはまた、健磐龍(たけいわたつ)伝承がある。健磐龍は九州の阿蘇の神だ。丹後半島の東の付け根、宮津市には阿蘇海(あそのうみ)もある。この近くに2章3―2項で述べた丹波の発祥と思しき弥生時代の遺跡群がある。揖保川は水路でここともつながっていたに違いない。兵庫県には大山祇(おおやまつみ)を祭った神社が多い。大山祇は阿蘇そのものである可能性が高い。揖保とは粒(いいぼ)が落ちたところからきた名だという。この〈落ちる地名〉は肥前→播磨→大和→尾張とつながるという。
伊勢の神、伊勢津彦(いせつひこ)は、天孫が来たときに風に乗って去ったとされる。この伊勢津彦は健磐龍の子だという。また彼の別名は出雲建子(いずもたけこ)だ。
播磨と美濃をつなぐ傍証がもうひとつある。岐阜県大垣市の昼飯大塚古墳は4世紀のこの地方最大の古墳だが、ここからは土師器・食物ミニチュア土器が多数出土した。形象埴輪は大垣周辺では初めての出土で、これらによる祭祀は加古川市の行者塚古墳(5世紀前半)と共通だという。また、昼飯大塚(ひるいおおつか)は伊勢や尾張の古墳とも共通性がある。

6―2―2 景行天皇の婚姻関係と渋谷向山古墳の主
景行は尾張の大海媛と崇神の子とされる八尺入日子(やさかのいりひこ)の娘、八坂入日売(やさかのいりひめ)と結婚している。八坂という名は物部氏系だという。
『記』では、そのほかに日向美波迦斯毗売(ひむかのみはかしびめ)と倭建の子孫の迦具漏比売(かぐろひめ)が妃になる(時代が合わない)。『紀』では、阿倍氏の高田媛、三尾氏の水歯郎媛(みずはのいらつめ)、五十河媛(いかわひめ)、九州南部の日向の髪大田根(かみおおたね)、襲(そ)の武媛(たけひめ)と結婚した。髪大田根は日向襲津彦(ひむかのそつひこ)を生んでいる。『記』『紀』とも、景行天皇の子共は八十人いて、各地の氏族の祖となったと伝える。
三尾氏の本拠地は滋賀県高島市南部だ。阿倍氏の本拠地は後代には桜井市あたりになるらしいが、この時期の本拠地はよくわからない。安倍氏は武淳川別(たけぬなかわわけ)を遠祖とするらしいので、大彦とともに越方面から来たのだろう。阿倍の枝族の阿閉氏は上野市が本拠地だったようだ。伊賀一宮の敢国(あえくに)神社の祭神が大彦で、阿閉氏がこれを祖先として祭ったという。さらに、『先代旧事本紀』によると景行の妃に物部系の五十琴媛(いことひめ)がいる。その墓が岐阜市にある琴塚古墳(5世紀)だという伝承がある。九州を除けば、景行の妃は琵琶湖から伊勢湾にかけての氏族に集中する。
これまで見てきたことから考えて、景行と言われた人は尾張・美濃の物作り集団と密接な関係を持ち、播磨・山城とその向こうの越・東海とも同盟関係にあった。つまり前方後方墳氏族連合の長だったということになるのではないだろうか。渋谷向山の墳丘の形は、桜井茶臼山、メスリ山から受け継いでいるという点もその傍証になると思う。便宜上景行天皇として述べてきたものの、大和の東の地域と関係が深かったこの首長は景行の名で知られる人ではないと私は思う。景行とされるのはもっと後代の人だ。4世紀にこの地域に勢力を張った別の首長がいる。その人が景行陵、渋谷向山古墳の被葬者だ。大胆な想像を言えばそれは倭建だ。

6―3 倭建(やまとたける)伝承

倭建の母は播磨の伊那毗大郎女で若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)の娘だという。父の景行は後代の人だから、彼の本当の父の地盤がどこかはわからない。倭建の兄は大碓と言う。『紀』に大碓(おおうす)と小碓(おうす)(倭建)は双子だという記述がある。『記』では景行が美濃国造の祖の娘を召そうとしたが息子の大碓に取られた話があり、『紀』では大碓に美濃の国を与えたとある。大碓は守君(もりのきみ)・牟宜都君(むげつのきみ)の祖となる。牟宜都は岐阜県の(旧)武儀町(むぎちょう)周辺らしい。また愛知県豊田市の猿投(さなげ)神社は祭神が大碓で、彼の墓もこの周辺にあるらしい。ここがもともと大碓の本拠地だったのだろう。
倭建の婚姻関係を見ると、まず山城の大国之淵(おおくにのふち)の娘、苅羽田刀弁(かりはたとべ)と垂仁天皇の娘である石衝毗売(いわつくびめ)、またの名は布多遅伊理毘売(ふたじのいりびめ)と結婚して帯中津彦(たらしなかつひこ/仲哀天皇)を生んでいる。その兄の稲依別(いなよりわけ)は犬上君(いぬかみのきみ)の祖となる。穂積系の弟橘媛(おとたちばなひめ)・近江の安国造(やすのくにのみやつこ)の娘、布多遅比売(ふたじひめ)・山城の玖玖麻毛理比売(くくまもりひめ)・吉備の大吉備建媛(おおきびのたけひめ)の四人を妃とし、もう一人の妻が息長田別王(おきながたわけのみこ)を生んでいる。
仲哀天皇は大津市に関係が深い。安国は野洲市、犬上君の本拠地は琵琶湖東南の愛知川流域、玖玖麻毛理は城陽市周辺が本拠地だから、山城と琵琶湖の東南岸をおさえた形だ。そして倭建は尾張の美夜受比売(みやずひめ)と結婚する。
渋谷向山古墳の建設は4世紀後半だ。同時期これと呼応するように、大垣市にこの地方最大の昼飯大塚古墳が造られる。畿内型で、祭祀を播磨の行者塚と同じくする古墳だ。昔から関係の深い美濃・尾張と播磨が連合して生まれたのが倭建という首長で、その母方に吉備の血が入っているとすれば、彼が崇神の跡を継いで、国の征服事業を東に伸ばしたという構図にそれほど違和感はない。
纏向遺跡に東海系の土器の搬入が非常に多く、380年頃、突然その繁栄が終わるのも、ここが倭建とともにあったと考えるとうなずける。
しかし、倭建という人はいまひとつ実在感が薄い。地元に根ざした話が尾張の美夜受比売の夫としてしかない。ところが、関東の『常陸風土記』には倭建神話が多い。つまり倭建の東征は本当にあったことなのだと思う。しかしそれは一代の英雄だけが成しうることではなく、何代にもわたる仕事だったに違いない。
一宮市に発する廻間式土器に代表される東海系の土器が、200年から250年頃急速に拡散する。大和のホケノ山からも出土しており、その地域は近江・越前・飛騨・播磨・安房をカバーする。出土する古墳は前方後方墳が多いが後円墳もある。私はこの土器の拡散期がいわゆる倭建の東征の時代の始まりだったと見る。三河湾沿岸には倭建の東征に随行したという家臣たちを祭る神社が多い。千葉県市原市の神門(ごうど)5号墳は3世紀中頃の前方後円墳(42㍍)だ。ほぼ箸墓と同時期と言っていい。ここから出た土器は在来の物のほかに近畿・東海・北陸のものが多数あったという。これほど早い時期に畿内から遠くはなれた安房に古墳ができるにはそれまでに彼我の交通があったに違いなく、その中心的担い手が尾張を根拠とする海洋氏族だった。
東日本の征服は尾張・美濃に富をもたらし、その結果が大和に現れた大型前方後方墳群ではないか。
倭建の死は伊吹山の神のせいだとされている。伊吹山は金属精錬のために必要な強風の吹く地域だ。彼は金属製作に関わった人で、長年の鉱毒に侵されて死んだのだ。彼の死に至る症状の描写がそれを表している。倭建は東征の統率者の象徴であり、また金属製作集団の象徴でもあった。
倭建は何人もいたのだろうが、4世紀中頃に生きた首長は右のように周辺地域と同盟して纏向に大古墳を作るような力を示した人だった。
倭建は本来天皇になるべき実力者だった。『記』『紀』の双方で天皇に対して使うべき用語が彼に対して使われている。しかし、彼は天皇として表記されない。その理由については4章6項で考察する。
倭建の征討は九州にも話があるが、尾張の美夜受比売の夫だった倭建の遠征は東国だけだったと私は思う。「景行段」に倭建の熊襲征討話が入れられたわけは、もう一人の倭建が九州にいたからで、それは佐賀県の山門郡(やまとのこおり)の首長だと私は考える。神功皇后はこの地の田油津媛(たぶらつひめ)を討ったとされる。山門の田油津媛はそれまではその地で威勢を誇っていたということだ。『風土記』では佐嘉郡(さかのこおり)・小城郡(おきのこおり)・藤津郡(ふじつのこおり)に日本武尊伝説があり、養父(やぶ)郡の四阿屋(あずまや)神社・神崎町の白角折(おしとり)神社の祭神は日本武尊だ。これらの地域は山門からの影響を受けており、そのときの将軍をその土地の人々が山門の建(やまとのたける)と呼んだのだと思う。それに対して九州の南部には倭建の伝承がない。『紀』の編集者は、北西部九州の風土記に日本武尊伝承があったので、当時(7・8世紀頃)朝廷を悩ませていた熊襲の服属譚を入れるべく、東の倭建の話と九州山門の将軍の話を合体させたのだと私は考えている。

6―4 4世紀の古墳

6―4―1 倭建の通った道にある古墳
4世紀の古墳で100メートルを越すものが倭建の通ったとされる地域にある。まず、東海地方では静岡市の谷津山古墳(110㍍)。ここは水軍庵原(いおはら)氏の本拠地だ。次に4世紀後半の磐田市の寺谷銚子塚古墳(108㍍)。ここは天竜川の河口で、川を遡れば東山道にぶつかる。
山間部では甲府市の天神山古墳(132㍍)がまず作られ、次に大丸山古墳(99~120㍍)が4世紀の中頃にできる。九州の特徴である組合式石棺があり、出土品などで三島・岡山・岐阜など広い範囲の古墳と関連がある。寺谷銚子塚と同笵の鏡も出ている。4世紀後半には甲斐銚子塚古墳(169㍍)ができる。ここの出土鏡も福岡・岡山・群馬と同笵で、埴輪は磐田市や群馬の古墳と共通だ。『記』の倭建の東征で唯一〈宮〉の記述がある甲斐の酒折宮(さかおりのみや)は、甲府市の酒折神社がこれにあたるという。この土地の翁を東国造(あずまのくにのみやつこ)にしたともある。甲府は重要な場所だったようだ。
長野県千曲市の森将軍塚古墳(100㍍)は組合式石棺、周囲には13基の円墳がある。
これらの古墳は神功皇后の新羅征討にも関わりがあると見られる。

6―4―2 近畿の古墳
その他の100メートルを越す古墳として、玉手山のすぐ近くの松岳山(まつおかやま)古墳(130㍍)・大阪府茨木市の紫金山古墳(110㍍)・枚方(ひらかた)市の禁野車塚(きんやくるまづか)古墳(120㍍)がある。禁野車塚は意賀美神社の近くにある。紫金山は後の継体天皇陵といわれる今城塚古墳のそばの佐保川の西に、土着の伝統なしに現れる古墳で、山城の椿井大塚山の鉄器副葬の伝統を受け継いでいる。豊富な副葬品の中にはゴホウラの貝輪がある。そして松岳山の円筒埴輪とよく似た埴輪が出ている。松岳山は変わった古墳で、積石塚の系統を持ち、香川産の石を使っていて、長持型石棺で九州の王者のような面もある。船氏が後裔だという説があったが、今は否定されているらしい。しかし、土着ではないのに玉手山古墳群に割り込むような形でこれだけの古墳をこの交通の要衝に築くのだから海洋族、少なくとも流通を仲介する族だったと考えることはそう間違っていないと思う。ゴホウラを紫金山にもたらしたのは彼らなのではないか。
これらの古墳の主は、椿井大塚山との関連で富を得た首長たちが想定できる。
4世紀中頃から大古墳の中心地は大和の山辺地域から奈良の北の佐紀地域に移る。そして古墳時代も中期に入る。