青の一族

第4章  4世紀後半から5世紀にかけて


2 開化天皇とその子孫


 佐紀古墳群の近くに開化天皇陵がある。開化天皇は4世紀後半の佐紀古墳群の被葬者たちに関係が深いと思われる。彼の宮は伊耶河宮(いざかわのみや)と言い、奈良市の率川(いざかわ)神社にあったという。彼の妃の出身地や子供たちは木津川流域からその北の山城や近江に散らばっているので、その辺が彼の本拠地と見ていいと思う。これらの地はまた和珥(わに)氏の本拠地とほぼかぶる。
 和珥氏は2世紀頃日本に来た渡来人で安曇氏と同族という説もあるがよくわからない。琵琶湖の西岸に和珥氏系氏族が住むようになるがそれらの地域は金属生産の跡が著しい。和珥氏は天皇の意を受けて戦う武将のイメージが強い。海洋族だとも言われるが、航海に長けた氏族という記録はあまり目にしない気がする。初めは海を渡ってきたが、武器を作って軍事氏族となったと見るのが妥当に思える。
 その和珥氏の祖と言われる日子国意祁都命(ひこくにおけつのみこと)の妹、意祁都比売が開化の妃になって生んだのが日子坐王(ひこいますのみこ)で、『記』にこの王の系図が詳しく記載されている。大津市に日子坐王の墓との伝承がある膳所茶臼山(ぜぜちゃうすやま)古墳(4世紀末)がある。彼と山城の荏名津比売(えなつひめ/=刈幡戸弁(かりはたとべ))の孫が「垂仁段」で活躍する菟上(うなかみ)・曙立王だ。佐保(佐保川の北、法華寺町(ほっけじちょう)・法蓮町(ほうれんちょう)周辺)の大闇見戸売(おおくらみとめ)との子が佐保彦と佐保媛で、彼らは垂仁に滅ぼされる。近淡海の天之御影神(あめのみかげのかみ)(滋賀県野洲市三上周辺で奉じられる神)の娘、息長の水依比売(みずよりひめ)と日子坐王の子が丹波の比古多多須美知能宇斯(ひこたたすみちのうし/=丹波道主(たんばのみちぬし))で、この人の娘とされるのが垂仁の后、比婆須比売だ。
〈ヒコ〉が名前の初めにつくのは5世紀後半から6世紀初めにかけてだけだというから、ヒコクニオケツもヒコイマスもヒコタタスミチノウシ、そして開化と丹波の由碁理の娘、竹野比売(たかのひめ)との子、ヒコユムスミもみな5世紀後半以降の人ということになる。実際、丹波道主の墓とされる丹波篠山市の雲部車塚古墳は5世紀中頃のものだ。5世紀は朝鮮半島での軍事行動が活発になる時代で、和珥氏は軍事氏族として活躍したのだろう。また各氏族は5世紀後半頃から自分たちの歴史を記録し始めるので、その頃にこぞって天皇の系譜に自分たちの祖を組み入れたと考えられる。『記』に和珥氏の系図が詳しいのは、和珥氏と関連の深かった多氏によって伝えられたからだろう。
 しかし、開化陵のある地域が丹波・近江・山城の接点であっただろうことは事実だ。そして上に見たように開化関連の人たちはまた、垂仁とも関係が深い。