青の一族

第4章  4世紀後半から5世紀にかけて


3 垂仁天皇


 佐紀古墳群の東に少し離れてあるのが開化天皇陵で、西に少し離れてあるのが垂仁陵と言われる宝来山古墳だ。佐紀古墳群に含められることもある。
 しかし垂仁天皇はどうも性格がはっきりしない人だ。どういう出自かという土地に根差した情報がない。『記』『紀』「垂仁段」に共通する一大イベントは佐保彦の反乱伝承で、これは実際にあったことではないかと思う。
『記』の記述は、彼は出雲と関係が深かったと思わせる。ものを言わない息子の品牟都和気(ほむつわけ)にまつわる出雲大神とのやり取りは、彼が出雲の神に従う様をはっきり示している。使者に立った菟上王に大神の宮殿を新たに作らせてもいる。
『紀』では出雲の野見宿禰(のみのすくね)に出雲から陶工を連れてこさせ、人柱の代わりに埴輪を作って立てることにしたとある。垂仁陵の周辺は土師氏の里だという。また、『紀』の方では但馬の話が多くなる。天日槍(あめのひぼこ)に始まり、その玄孫(やしゃご)の多遅摩毛理(たじまもり)までが垂仁に仕えたことになっていて、日槍が持ってきたという但馬の神宝も召し上げている。『紀』の垂仁は出雲の神宝も管理した。出雲を上から見下ろす態度は『記』の垂仁とは別人のようだ。
 私は、垂仁は崇神とほぼ同時代の人だと思っている。『紀』の二人の天皇の記述に重複が多いからだ。まず、崇神は天照大神を天皇の宮殿から離して笠縫邑に祭り、長尾市(ながおち)に倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)を祭らせる。盾矛で神を祭ることを始める。出雲の神宝を見たいと言う。一方、垂仁は天照大神を伊勢に祭ったというが、この時代にはまだ伊勢神宮はなく、垂仁のときに但馬の神宝を献上させたのも野見宿禰を連れてきたのも長尾市だ。弓矢と刀を神社に奉納して兵器で神を祭るのは垂仁が初めてと記すが、崇神が既に行っている。また出雲の神宝を調べさせている。そして二人とも反乱軍と戦っている。私の考えでは、垂仁は出雲に関わりの深い人で崇神と共に大和盆地を制圧した首長だ。埴安彦(はにやすひこ)と佐保彦はほぼ同時期に崇神・垂仁連合に討ち取られた。
 垂仁は久米氏なのではないかとも思う。彼の諱は伊久米伊理毗古伊佐(いくめいりびこいさ)知命(ちのみこと)だ。出雲にゆかりが深そうなのだが本拠地がわからない。海洋族ならそれもあり得る。垂仁と但馬が関連づけられるのは出雲の勢力範囲に但馬も入っていたからだろうと思う。また、来目邑に屯倉を設けたという記述は『紀』「垂仁段」にある。
 久米は岡山に多い地名だと思う。吉備の崇神と久米氏である垂仁が連合して大和の入り口を攻めたとすれば、理解しやすい。
 3世紀末頃宮崎県にこの地方最古にしてこの時期としては最大の古墳、生目(いきめ)1号墳(136㍍)ができる。これは箸中山の2分の1相似形だという。続いて4世紀の中頃に3号墳(143㍍)が作られる。これは柄鏡型といわれる前方部が細長い形で九州に多い。その後規模は縮小するものの、ここには5世紀の終わりまで古墳の造営が続く。安定した在地豪族の存在が想定できる。2章4―1項で述べたが、宮崎は縄文以来瀬戸内との交流がある。しかし、3世紀末という箸墓と同じくらい早い時期にこの地に箸墓と相似の古墳ができていることは、畿内との直接的な結びつきが想定される。私はその中心人物が久米氏族の垂仁ではないかと思うのだ。〈イキメ〉は〈クメ〉ではないか。先に九州の球磨地域は久米族の地かもしれないと述べたが、生目古墳群を形成したのは久米氏だったとも考えられる。