青の一族

第4章  4世紀後半から5世紀にかけて


4 4世紀の政治情勢


4-1 朝鮮半島と倭4-2 朝鮮半島への出兵


 神功皇后が朝鮮半島に渡ったと見られる4世紀に、そこはどういった状況にあったのかを見てみる。

4―1 朝鮮半島と倭

 この時期、倭でカラと言えば金海のことだった。ここから出る倭系遺物は、弥生時代は九州のものが大半だったが古墳時代になると畿内系のものになり、その変わり目は4世紀前半だという。4世紀から5世紀前半にかけて畿内系倭人が集団で半島に移住している。3世紀、洛東江(ナクトンガン)流域の国々を弁辰といい、4世紀後半には伽耶と呼ばれるようになるが金官国(金海)がその盟主だった。
 この頃朝鮮半島がどういう状態だったかというと、後に倭と関係が深くなる国々がまさに建国のさなかだった。2世紀頃朝鮮半島の南部は、対馬海峡に面した中央部が弁韓(慶尚南道)、その西側が馬韓(全羅南・北道)、東側が辰韓(慶尚北道)という国だった。国と言ってもそれぞれがまだ部族国家の集まりだ。313年に高句麗が楽浪(平壌)を陥れ、ここを都とした。314年には馬韓が帯方郡を滅ぼし、馬韓と帯方郡を合わせ百済ができる。その中心勢力は漢城(ソウル)の南東の伯済国で、346年に肖古王(しょうこおう)が即位し、中央集権国家体制を作り始める。辰韓は北へ領土を拡張し、356年に奈勿王(なかおう)(在位356~402)が慶州中心の斯櫨(しろ)国を前身とする新羅の統一を成し遂げた。奈勿王は中国、秦へ最初の朝貢をする。
 313年に楽浪郡が漢から解放されたことは、鉄の流通が自由になったことを意味する。漢は鉄の生産技術などを厳しく統制して外に持ち出させなかった。それで朝鮮半島の鉄生産技術は漢のものよりその前の燕の技術の系譜を引くという。また弁辰地方では313年以後、漢への鉄の供給という重圧を免れ、地方色の強い鉄器製作や鉄器の大量副葬が始まる。『魏書』に「弁辰は鉄を産し、韓・濊(わい)・倭みなこれを採る」とあり、倭人も半島での鉄生産に関わっていたことは述べた。これが著しくなったのが313年以降つまり4世紀の前半だろう。倭から半島への大量移住は、これらの生産に関わる人々だったと思われる。金海の北約100キロメートルには1世紀の鍛冶工房から始まる一大鉄生産地、煌公城洞遺跡がある。慶州の鉄生産の中心地だ。山城や琵琶湖周辺、丹波などの地域の豪族は独自に半島に渡り、いち早く鉄の生産や流通を手に入れようとした。椿井大塚山は313年より少し前の築造だと考えられるのでその被葬者は直接鉄器流通自由化の恩恵は受けなかっただろうが、それでもその大量の鉄器の副葬は、丹後や山城の豪族が鉄に大きな関心を持っていたことの表われで、朝鮮半島とのつながりを感じさせる。
 そのとき朝鮮に渡った人々の中心的存在として巫女がいて、それが神功皇后だったのではないかと私は考える。『記』の記述で神功は戦わない。神の託宣に従っていくうちに新羅は自ら服属したように書かれているのだ。『紀』でも、神功皇后には様々な瑞兆が現れ、神の意に従って海の向こうの国を従わせる。そして、そのとき既に倭に来ていた新羅の王子だったという天日矛、またはその子孫が案内役を果たしたのだろうと思う。佐紀盾列古墳群の4世紀後半の古墳群はこれに関係した人たちだ。
 彼らは敦賀湾や若狭湾発で朝鮮半島に行っていたのだと思う。『仲哀紀』に神功皇后が、角賀(つぬが)(敦賀(つるが)市)から出発したとあり、そこの海で鯛が浮かび上がる様子が描かれている。ここは敦賀湾の常神岬(つねがみみさき)に比定されるが、土地の人の話では実際に夏に鯛がこのように浮かび上がってくる現象が見られるということだ。このことは、敦賀湾から朝鮮半島に向けて出発していたことの傍証となる。
 琵琶湖の東北部には多くの人がここに集っていた痕跡がある。湖北の古墳群だ。3世紀初頭には方墳・円墳など多種多様な墓があっていち早く体制ができていた。北部九州の港町などもそうだが、人々が絶えず流入する場所には雑多な住居跡が混在する。そしてここでは、山陰や九州、東日本などそれぞれが自分たちの文化を持ちながら一緒に活動していたことがわかる。これについては5―4項でもう少し詳しく述べる。

4―2 朝鮮半島への出兵

 朝鮮半島では戦乱が続く。高句麗は313年に漢から楽浪郡を奪ったが、342年には燕の侵攻により王都が壊滅し、355年に燕に質を送っている。以後高句麗は南下政策を採る。
 新羅の記録に344年「倭が婚を請うが断る」、346年「倭軍が金城(王宮)を囲む」、364年「倭兵大挙して来る」とある。
 366年に弁韓が伽耶連盟になる。百済の肖古王は360年頃から倭と交渉を始め、369年に卓淳(たくじゅん)国に仲介を頼み、倭に7枝刀を贈っている。日本に七枝刀が届いたのは371年、高句麗に攻められていた百済が倭に援軍を求めるために贈ったとされる刀だ。倭は正式に半島に軍隊を送り込んでいいことになったわけだ。そして371年肖古王は平壌に攻め入って高句麗の故国原王(ここくげんおう)は戦死する。中国では370年に秦が国を統一する。百済は372年には東晋に朝貢している。
 広開土王の碑には「391年に倭が百済と新羅を臣とする」とある。『応神紀』はこの頃紀角宿禰(きのつののすくね)が百済に阿花王(あかおう)を立てて帰国すると記し、『三国史記』ではこれは392年のことだ。ところが396年には今度は百済が高句麗に破れている。397年には百済の阿花王は太子の腆支(とき)を質として倭に送り、百済には倭人が満ちたと記録にある。405年に阿花王が死ぬと倭は腆支を帰国させ即位を支援したという。390年には新羅の奈勿王が倭に王子の未叱喜(みしき)を質に出すが、倭は399年に百済と組んで新羅に侵攻した。新羅は377年に高句麗とともに秦に遣いしており、二国は同盟を結んでいたようで、400年に新羅領内にいた倭軍を高句麗兵が破り、倭は任那まで撤退した。この頃金官国の支配層が変わったらしい。
 高句麗の広開土王は領土を拡大させ北方と和睦を結び、413年に没する。碑は414年に建てられる。このように4世紀から5世紀初頭にかけては半島を舞台に人々が戦いに明け暮れた時代だった。倭は金官国を中心とした地域に任那(みまな)として日本の植民地のようなものを設立したと思われる。現在これには日韓間で大きな論争があるようだが、この地域に日本独自の前方後円墳があることや姫川産のヒスイが当地から大量に出土する事実や、4世紀から5世紀にかけて近畿から当地への移住が多かったことが倭の遺物からわかることなど、倭が多くの人や物を半島南部に送り込んでいたことの証拠は多い。
 ここまで5世紀初頭について記述した。400年に高句麗に敗れたことで倭の朝鮮半島侵攻は一時やんだかに見えるが、5世紀の中頃から再び侵攻が激しくなることを朝鮮の記録は伝えている。そして任那は562年に新羅に滅ぼされるまで存続する。この植民地支配がまさに、日本で4世紀後半から5世紀前半までのそれまでに例を見ない規模の巨大古墳造営の財力になったのだと考える。
 5世紀初頭から日本では大仙陵(だいせんりょう)(仁徳天皇陵に治定)を頂点とする巨大古墳が次々に作られる。特に百舌鳥(もず)古墳群は大阪湾の水辺にあって、それまでの先祖の墓としての意義より、首都大和に来朝する他国に対してその規模で自国の威勢を見せつける意義が大きくなったと考えられる。その主な相手は中国だっただろう。また、5世紀後半には各氏族が自分たちの歴史を書き始める。これは外国を支配し、富を得て余裕ができたことと、由緒正しい歴史のある国としての体裁を整えようとする意図の表れだ。朝鮮半島への出兵は倭が総力を挙げて取り組んだ事業だっただろうが、その中で中心的役割を果たした氏族はどれだったのか。