青の一族

第4章  4世紀後半から5世紀にかけて


6 仲哀天皇と忍熊王(おしくまのみこ)



 滋賀県大津市にある高穴穂神社の社伝によれば仲哀の宮はここだった(成務も同じだという)。仲哀は倭建の息子だ。しかし『記』では、大和から遠い山口県の豊浦宮(とゆらのみや)が仲哀の宮だというところから突然話が始まる。それから彼は香椎宮(かしいのみや)(福岡市)に移る。『紀』の方でも大和のどこに宮があったとも記さず、彼は角鹿(つぬが)(敦賀)と紀伊に宮を作り、その後は『記』と同様に豊浦に宮を作っている。『記』『紀』ともその理由は熊襲征討だとする。
 景行・成務・仲哀は諱から後の挿入天皇だと考えられる。その意味では神功皇后も同じだ。仲哀は神の託宣をないがしろにして短命で終わる天皇だ。なぜこうした天皇の話を歴史に残すのか。考えられる理由のひとつは、この人が大王の実力がありながら天皇とはならなかった倭建の子であり、彼も同じような運命をたどったからというものだ。仲哀は近江の人で、朝鮮半島侵攻のために九州に行っていた。しかし『紀』の記述にあるように熊襲に殺されたのではないか。それも彼が熊襲討伐した結果ではなく、九州南部の勢力が倭建系の力を削ぐためにいわば主殺しをした。5世紀に宮崎県西都(さいと)市にできる九州最大の2基の古墳は朝鮮半島での軍事行動のたまものだ。こうした九州南部の力の伸長の過程でその時の最大勢力だった倭建系の排除が行われたのではないか。仲哀が託宣を無視する神は 上筒男命(うわつつのおのみこと) ・中(なか)筒男命・底(そこ)筒男命で、この三神は『記』では、伊邪那岐が日向の阿波岐原で禊をしたときに生まれている。つまり日向勢力はここの神をないがしろにした罰で天皇は死んだということにしたかった。
 それと対をなすのが忍熊王の反逆の話だ。『記』『紀』とも、詳細は異なるものの忍熊王も倭建の孫か子孫となっている。
 竹内宿禰は神功皇后と図って忍熊王を討つ。先に神功皇后と呼ばれたのは日葉酢媛だったのではないかと述べたが、忍熊王を討ったのは、4世紀に倭人が新羅へ移住したときの巫女を務めた人ではないだろうと思う。
 朝鮮では戦いもせずに敵を降伏させた巫女がこの戦いではふつうの人だ。託宣を聞いて神を祭りはするが、軍略を考えるのは竹内宿禰だし、戦いをするか否かも群臣との協議で決めている。戦いの描写は生々しく、朝鮮でのこととは違って事実を見聞したと思わせる。
 このとき神功皇后は、忍熊王と戦うために難波に船を進めたときにうまくいかず務古水門(むこのみなと)に帰ったという。ムコ(武庫)に帰ったのだから、この神功は摂津の人だ。武庫川流域には多くの吉備人が入植していたことは述べた。神戸市住吉区に住吉神社があって、神功皇后説話を伝えている。ここは元住吉と呼ばれ、そもそも三海神を祭ったのはここだという。神功皇后はさらにその東に広田神社、西に生田神社と長田神社を作った。広田神社には天照大神が祭られているが、古くは瀬織津姫といって海の交通をつかさどる神の社だったらしい。
 忍熊王は明石に陣を張って待ち伏せしたという。淡路島の北の明石海峡を封鎖したのだろう。それで神功は紀伊に回る。淡路島の南から大阪湾に入ろうとして紀伊の竹内宿禰に助けを求めた。竹内宿禰は紀伊の水軍を率いて大阪湾に入り、このとき播磨との連携もできたのだと思う。
 竹内宿禰と共に戦ったのは和爾氏の武振熊(たけふるくま)だ。『記』には難波根子建振熊(なにわのねこたけふるくま)との記載があり、『新撰姓氏録』に記される難波宿禰が彼なのではないかとされる。また籠神社の海部氏系図では「武振熊が応神朝に海部直を賜った」とある。彼は大阪湾周辺の海域に勢力を持っていたと考えられる。この戦いのとき忍熊王側には海上五十狭茅(うなかみいさち)がいた。海上五十狭茅の祖は天穂日で出雲の祖とされる。明石の東が海上五十狭茅の本拠だったので、戦いは海上交通権を巡っての争いとなり、中心の戦闘はこの二豪族だったが、その後ろには忍熊に代表される倭建系近江と神功に代表される吉備がいる。結果は吉備側の勝ちだ。戦いに敗れ、海上五十狭茅は領地に生田神社を建て稚日女尊(わかひるめのみこと)を祭るよう命令された。
 しかし倭建も祖父は吉備臣の祖と言われる人なのだ。これは大勢力となった吉備の王座をかけた内紛だったのではないかと思う。
 仲哀・忍熊の殺害によって近江勢力はかなり力を落としただろうと思われる。彼らは初めに大和に政権を築いた吉備の正統派だったが、紀伊と結んだ第二勢力に王座を奪われた。纏向にある渋谷向山古墳が倭建の墓とされなかった理由はこれだ。昔から大和の磯城地域は三輪山の神がいる神聖な土地だ。ここに系譜を断ち切られた王の墓をそのままにはできない。尾張系で大首長となった景行の墓ということになったのは、歴史が描かれた当時力のあった物部氏の意向によるものだと思う。景行天皇については5章7項で詳しく考察する。
 仲哀は倭建の息子だと伝わるが、諱も本拠地もはっきりしなかったにもかかわらず、『記』『紀』で天皇として扱われ、歴史に残す必要があったのはなぜか。ひとつ考えつく仮説は、彼は沖ノ島祭祀に尽力した人なのではないかということだ。沖ノ島は、倭の朝鮮半島進出への中継として当時新しく設置された海上交通の拠点で、4世紀後半から9世紀まで続く祭祀跡が残っている。仲哀と沖ノ島を結びつける理由は、『紀』に、岡県祖(おかのあがたぬしのそ)の熊鰐(わに)が仲哀を迎えに出て、食物や塩を供給する領地を決める記述があるからだ。その取り決めは、豊浦から国東半島の杵築市を東の門とし、関門海峡を西の門とする。そして、穀物と塩の供給地を北九州市の小さな島々としている。これは天皇に捧げる領地の規模として小さすぎるだろう。門は通行の確認だ。何か特別な理由があったものと思える。だとすると、これはこれから行う沖ノ島への通行との祭祀にかかる費用のことを記述したのではないかと思えるのだ。
 4世紀の糸島市の古墳は初頭に端(は)山(やま)(78㍍三雲)、後期に一貴山銚子塚(103㍍)、末に築山(60㍍帆立貝形)と安定して継続する。これは沖ノ島祭祀と朝鮮出兵の出航港としてここが栄えたということだろう。