青の一族

第4章  4世紀後半から5世紀にかけて


5 4世紀後半の古墳


 

5-1 佐紀5-2 丹後5-3 上毛野(かみつけの)5-4 東山道・東海道沿いの古墳群5-5 古市5-5-1 八尾南遺跡と津堂城山古墳5-5-2 津堂城山古墳-祭祀の埴輪と他古墳とのつながり5-5-3 中津山古墳5-6 和泉5-7 馬見の古墳群5-7-1 佐味田宝塚古墳と新山古墳5-7-2 二上山東麓の古墳5-7-3 室宮山古墳と竹内宿禰と葛城襲津彦


 4世紀の後半から大型古墳が各地にどっと増える。4世紀の中頃から後半にかけて作られた100メートルを越す古墳は、岡山・群馬県に各5基、京都・岐阜県に各3基、兵庫・滋賀・福井・茨城・千葉県に各2基、そして福岡・熊本・宮崎・鹿児島・島根・香川・三重・愛知・静岡・山梨・長野・石川・富山・栃木・埼玉県に1基ずつ(奈良と大阪は多数なので省略)と、ほぼ全国各地にあると言っていい。これはもう全国規模の軍事作戦が展開された結果だと想像できる。
 同時期の200メートル越えの古墳は、佐紀の五社神(276㍍)・石塚山(220㍍)・陵山(210㍍)、古市の津堂城山(208㍍)・仲津山(290㍍)、馬見の巣山(220㍍)・島の山(200㍍)・築山(210㍍)、和泉の摩湯山(200㍍)、大和の渋谷向山(300㍍)、丹後の網野銚子山(200㍍)だ。
 各地に見られる100メートル級の古墳は、それまでその地域に根付いていた土豪たちを集めて作ったかのように、土豪の古墳は姿を消し、それまでの古墳造営地からは少し離れた場所に築かれているという傾向がある。地域の再編が進んだと見られる。それは、半島への移住ということもあっただろうし、出兵となれば兵士の確保が問題になるので、半島への進出をリードしていた主要豪族の働きかけによる地域再編と考えられる。その主要豪族たちが200メートル越えの古墳の主たちだろう。
 渋谷向山(景行陵)はこの時点では最大だ。しかし、この後大和盆地の東側に突出して大きな古墳は築かれない。纏向遺跡は380年頃急速に衰える。景行陵の主は纏向を中心とした体制の最後の大王だった。
 4世紀からの200メートル越えの古墳地域にはどんな人々がいたのか。

5―1 佐紀

 佐紀盾列古墳群は、先に述べた開化天皇の子の佐保彦の本拠地だったと思われる佐保川流域の法華寺町・法蓮町の北西に広がる。佐保彦は垂仁に滅ぼされる。垂仁の后は比婆須比売で彼女は丹波の人だ。丹波は丹後から発した。神功皇后は若狭の海から出航しており、丹後・丹波・若狭の勢力が新羅征討の中心だと考えられるので、佐紀古墳群がこの地にあるのは彼らが南下して佐保川を席巻したということだと思う。神功皇后陵とされる五社神(ごさし)古墳の西に押熊町(おしくまちょう)がある。神功と戦って敗れる押熊王(おしくまのみこ)は、『記』では倭建の曾孫の迦具漏比売と景行の子で(倭建は景行の息子のはずだが……)、『紀』では倭建の子の仲哀天皇の子だから、倭建系の人で押熊町が本拠の豪族だと思われる。滋賀県大津市の高穴穂(たかあなほ)神社は晩年の景行の宮があったと言われるところだが、また成務・仲哀両天皇の宮でもあったと神社社伝に言う。こうしたことから考えると、佐紀の地には若狭湾勢・山城・近江といった勢力が集結していた様相だ。
 佐紀古墳群でいちばん大きいのは五社神古墳で神功皇后陵に治定されているが、それより特徴的なのは日葉酢媛(ひばすひめ)陵とされる陵山(みささぎやま)古墳だ。陵山と同規格の古墳は、五色塚古墳(神戸市)・摩湯山古墳(岸和田市)・松岳山(まつおかやま)古墳(柏原市)・膳所茶臼山古墳(大津市)・御墓山古墳(伊賀市)・網野銚子山古墳(京丹後市)、浅間山古墳(群馬県高崎市)がある。特に松岳山は石室の側壁の作りが陵山と同じだ。膳所茶臼山は日子坐または大友皇子一族の墓と伝えられ、御墓山は三重県最大(188㍍)の古墳で大彦の墓と伝えられる。五色塚は仲哀天皇の偽墓とも、『紀』の「神功段」で神功と戦う忍熊王(おしくまのみこ)が戦いの前に赤石に築いた山陵とも言われるが、一般には、明石海峡の通行を掌握する豪族の墓だとされる。これらの古墳のつながりを見ると、陵山古墳の主は和泉・河内・近江・伊賀と同盟して大和を囲み、さらに関東にも盟友がいて、明石海峡と若狭湾に港を持っていたということになる。松岳山の被葬者は前述したように海洋族で、玉手山古墳群があった穴虫越えの隘路に割り込み、佐紀地域から大阪湾への道を確保したのだと思う。
 陵山は頂に円筒埴輪を巡らせた方形の壇があったとされるが、祭祀の儀礼化と権威誇示が典型的な現れを見せるという。この形式は崇神天皇陵から佐紀陵山、コナベ、応神天皇陵へと受け継がれ応神で頂点を迎える。陵山からは30センチメートルを越える大型の銅鏡が出土していて被葬者には卑弥呼的女王が連想される。陵山は連合の規模の大きさからも祭祀の継承からも、その被葬者が佐紀古墳群の4世紀の中心人物だったことがわかる。私はこの古墳の主と言われる日葉酢媛が朝鮮半島征討で活躍した神功皇后だったのではないかと考えている。神功皇后が若狭湾系の人だと考える理由はもうひとつあるが、後に述べる(5章2―2―1項参照)
 五神社はこのグループ最大規模の古墳で王者の徴である長持型石棺を持つという。被葬者がこの地域の大首長だったことには疑いがない。巫女的な存在で地域連合の精神的ハブだった日葉酢媛に対して、実際に半島への移住や軍事行動を指揮した男性首長の墓だと思える。
 祭祀を日葉酢媛陵から次に受け継ぐのはコナベ古墳だ。コナベからは短甲片や鉄鏃が出ていることから武人と考えられる。陪塚は10基のうち9基が方墳だ。方墳は丹後の方形台状墓の流れを汲むと考えられるので、彼は丹後・若狭地方の人だと思われる。そしてコナベ古墳は市庭古墳(成務天皇陵)と誉田御廟山(こんだごびょうやま)(応神天皇陵)と相似形だ。

5―2 丹後

 丹後での最初の大きな前方後円墳は京丹後市の蛭子山(えびすやま)古墳(145㍍)だ。4世紀中ごろの築造と言われる。舟形石棺が出ていて九州系の海洋族を思わせる。その場所は加悦谷(かやだに)だ。伽耶(かや)は50年頃から6世紀の中頃まで朝鮮半島の慶尚南北道の西部にあった国々の総称で、倭と親密な関係にあった。カヤの地名は岡山など各地に残っている。
 蛭子山の次に作られたのが丹後最大の網野銚子山古墳(201㍍)で、これは佐紀の陵山古墳と同形だ。その次の神明山古墳(190㍍)からは船人の線刻がある埴輪が出ている。
 丹後の古墳の主たちとしては、佐紀の王家と連携しながら海を渡って朝鮮半島と活発な交流を持った首長の姿が浮かぶ。

5―3 上毛野(かみつけの)

 現在の群馬県にあたる上毛野地域には4世紀にはまだ200メートルを越す古墳はない。しかし佐紀と後続の応神陵に関連が深い。
 まず4世紀末に作られた高崎市の浅間山古墳(171㍍)は西上毛野を代表する古墳で、佐紀陵山古墳の5分の4の相似形だ。このとき東上毛野の太田市には朝子塚古墳(123㍍)が作られ、ここからは特殊器台型円筒埴輪が出ているから、この首長はたぶん吉備系だ。そして5世紀の前半に太田市に別所茶臼山古墳(164㍍)ができ、続いて太田天神山古墳(210㍍)ができる。ここからは王者の棺と言われる長持型石棺が出ている。このとき西上毛野に古墳はできていないので、東毛野、つまり吉備系が西を吸収して統一した形だ。
 
5―4 東山道・東海道沿いの古墳群

 倭建に代表される東国への進出は、たぶん4世紀の前半頃から単にその地域の支配にとどまらず、朝鮮半島での軍事行動の基礎である兵士の調達という目的によって一層熱心に進められたのだと思う。東山道(とうさんどう)沿いの古墳はその動きに呼応したものだと考える。
 愛知県・岐阜県に200メートルを越す古墳はない。しかし、犬山市には3世紀の末頃という早い時期に東之宮古墳(前方後方墳72㍍)ができている。4世紀中頃には県内2位の大きさの青墓(あおはか)古墳(123㍍)、5世紀前半には妙感寺古墳(95㍍)と続けて大きな古墳が作られる。犬山市は東山道が木曽の山中に入る入り口の木曽川沿いにある。街道沿いに大垣市・岐阜市・各務原(かかみがはら)市と各地に大きな古墳ができている。その中でも安定して首長が継続するのは犬山市と大垣地域だ。大垣市は京都・奈良から不破の関を越えて東国へ行くときの出口で揖斐川が伊勢湾に通じている。両方とも交通の要衝だ。
 犬山市は丹羽氏の本拠地だ。ここにある大縣(おおあがた)神社の祭神は大縣の大神だが、それは大荒田命(おおあらたのみこと)だという説がある。青墓古墳は大縣神社所有になっていて大荒田の墓とされる。神社の祭りは女陰や男根をかたどった神輿が練り歩くプリミティブなものだ。天照大神の影がない。いかにも東日本的だ。
『尾張国熱田太神宮縁起』と『先代旧事本紀』の記述から、尾張国の祖、呼止与(おとよ)の息子の建稲種(たけいなだね)は倭建の東征の副将軍で尾張氏の祖とされ、その妹が簀媛(みやずひめ)だと考えられるという。愛知県南知多町の羽豆神社は建稲種を祭り、そこが彼の本拠地だと言う。建稲種は大荒田の娘の玉媛と結婚する。『新撰姓氏録』によると、大荒田は邇波県君(にわのあがたのきみ)の祖で倭建の孫、そして大荒(おおあら)田(た)別(わけ)は曾孫だ。この大荒田別は『紀』で上毛野君(かみつけののきみ)の祖とされていて、「神功段」では荒田別・鹿我別(かがわけ)を将軍にしたとある。琵琶湖の西北岸、滋賀県高島市のマキノ町と新旭町それぞれに荒田別を祭る神社がある。荒田別は高島市周辺を本拠に半島に渡ったようだ。鹿我とは加賀のことではないか。4世紀後半の石川県の古墳は、能美市の秋常山(あきつねやま)1号古墳(120㍍)がある。石川県最大で、突如としてできた大型古墳だ。同地には大量の鉄器が副葬されていた古墳があったという伝承がある。この二人は、神功が4世紀代に若狭から出航していた時代の将軍だった。そして『紀』の同じ箇所に千熊長彦(ちくまながひこ)が登場し、七支刀がもたらされる話につながる。千熊長彦については、8の応神天皇の項でさらに述べる。
 3章の6―4―1項で述べたが、この時期に静岡・山梨・長野に100メートル級の古墳ができる。山梨・長野の古墳は東山道の兵士徴用と同じ経緯でできたものと思われる。静岡の庵原氏に代表されるような東海地方の水軍は伊勢湾から揖斐川を遡上し大垣を経て琵琶湖に入り、そこから若狭湾に出て朝鮮半島に向かったのではないかと私は見ている。
 その現れのひとつが琵琶湖の北東岸、住居・生産域から隔絶した台地に交通を見下ろす形で形成された古保利(こほり)古墳群だ。最初の大型古墳は3世紀代の前方後方墳で63メートルの大森古墳。次に小松古墳(60㍍)が3世紀中頃に作られる。これも後方墳で三角縁神獣鏡より前の漢鏡が破砕されて副葬されている。周囲には円墳・方墳も数多く作られ、土器は北陸・東海・畿内・湖南と種類も多い。この湖北地方の古墳群は各群に前方後円墳と前方後方墳が一基ずつあるのが特徴だという。こうした古墳のあり方もここが交通の要衝だったことを示す。4世紀中頃までには作られていたという姫塚古墳(80㍍)も前方後方墳で、ここは東海勢力の強いところだったと言えそうだ。しかし、4世紀末に作られた90メートルの西野山古墳はついに前方後円墳になり、これが最後となる。 

5―5 古市

 古市古墳群は大阪府羽曳野市・藤井寺市にかけての地域、生駒山と金剛山の間から大和川が大阪平野に流れ出るところにある【図26/27】。3章2項で述べたように、八尾市から藤井寺市にかけての旧大和川流域には吉備型の甕が大量に出土し、弥生と古墳時代の間頃ここに吉備からの入植があったことを示す。玉手山からは山陰系の土器の出土もあるし、玉手山古墳にも松岳山古墳にも香川産の石が使われていること、石棺があることなどから山陰・四国・九州といった様々な人々がいた形跡がある。松岳山は大阪府高槻市の三島とも関係があった。 
図26 古市古墳群編年 (『全国古墳編年集成』から)
纏向遺跡の土器
図27 古市古墳群地図 (『前方後円墳国家』から)
古市古墳群地図
 吉備型甕の分布は淀川の北の猪名川・武庫川流域にもあり、多くは弥生時代から大きな集落だったところから出土している。三島の溝咋(みぞくい)遺跡と安満(あま)遺跡もそうだ。
 安満遺跡は弥生時代の大集落で、金属器が普及するまでは石器の供給元として機能する流通の基点だった。石包丁の素材で淀川は上流と下流の区域に分かれるが、安満は上流側で北陸や飛騨と関係が深かった。安満宮山古墳は250年頃の築造で、小さな長方形墳だが大量の朱が撒いてあって青龍3年銘の方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)が出ている。そのほかにも4点の鏡が出ているが、それらの同笵または類例を見ると、出雲の神原神社古墳・丹後の大田南5号墳・広峯15号墳・播磨の安田鏡・備前の湯迫車塚古墳・和泉の黄金(こがね)塚(づか)古墳・上野の蟹沢古墳出土となる。京丹後市の大田南5号墳は積石塚形式だ。ここから出た青龍3年銘の鏡と似たものが筑後の津古生掛古墳・椿井大塚山・長野県の八丁鎧塚(はっちょうよろいづか)古墳から出ている。
 三島地域は3世紀末から川ごとに首長系列がたどれる古墳があるが、5世紀に被葬者が畿内組と思われる太田茶臼山に収斂され、その後6世紀の継体天皇陵と言われる今城塚古墳へと続く【図28AB】。
図28A 今城塚古墳とその周辺 地図
今城塚古墳とその周辺 地図
図28B 今城塚古墳とその周辺 古墳編年 (『今城塚と三島古墳群』から)
今城塚古墳とその周辺 古墳編年
 どうやら、古市は摂津と河内に入植した吉備人を主体とし、若狭湾の勢力も含んだ積石塚の系譜に連なる三島から讃岐へのラインを組み込んだ人々がいた土地のように思える。

5―5―1 八尾南遺跡と津堂城山(つどうしろやま)古墳
 古市の北西、八尾市にある八尾南遺跡は旧石器時代から中世までの複合遺跡だが、弥生時代の方形周溝墓や古墳時代の方墳が出土している。4世紀の末、最古式の須恵器出現の直前にここで変革が起きている。拡散していた竪穴住居が中央微高地に集中して掘立柱建物に変わり、井戸の祭祀が終わる。墓域は西にある長原古墳群に限定される。長原古墳群には200基以上があって多数の埴輪が出土している。4世紀の末に塚ノ本古墳(55㍍円墳)、5世紀初頭に一ヶ塚(いちがつか)古墳(53㍍帆立貝形)ができ、周囲には小方墳がある。その後、5世紀を通じて古墳が作られるが6世紀までは大型古墳はできない。
 最初の大型古墳が円墳であることから、4世紀の後半に九州系の勢力により須恵器の技術がもたらされ八尾南の体制が変わったと推測できる。これまで述べたようにこの地域は土器生産の伝統と革新技術を早く取り入れる文化があった。そしてこれと連動したのが津堂城山古墳の主だと思う。それは中津山古墳の主に引き継がれ八尾南の首長は古市の体制下に入る。

5―5―2 津堂城山古墳―祭祀の埴輪と他古墳とのつながり
 津堂城山古墳は208メートル、王者の棺と言われる長持形石棺と多くの副葬品を出土した。この古墳には出島遺構がある。出島は古墳の周濠に浮かぶ方形の小島で、ここで祭祀をしたらしい。柵状埴輪・盾状埴輪で結界を張り、白石を敷き詰めて聖域を表し、囲形埴輪(かこいがたはにわ)で水の祭りを表現し、魂を運ぶとされる水鳥埴輪を配する。この祭祀の表現は馬見の巣山古墳と酷似しているが、水鳥埴輪は巣山の方が小さいという。そして同型祭祀が三重県松阪市の宝塚1号墳にも見られる。宝塚1号墳の埴輪は河内地方の高い技術のものだという。この祭祀は津堂城山→巣山→宝塚と伝わったようだ。これらのつながりは地域的に遠いように思えるが、川を媒介とすればそれほど無理がない。大和川から佐保川に入り、春日山の東の石切峠付近で木津川支流の安郷川に入る。木津川に入ればそれは名張川につながっていて伊賀まで行ける。そこから雲出川の上流に入れば伊勢の松坂市に出る。
 囲形埴輪は水道施設を表すもので、行者塚古墳(加古川市4世紀末~5世紀初頭)・久津川車塚古墳(城陽市5世紀前半)・心合寺山(しおんじやま)古墳(八尾市5世紀初頭)・石山古墳(伊賀市4世紀後半)にも見られる。宝塚2号墳(5世紀前半)の囲形埴輪は御所市の南郷大東遺跡との関係が指摘される。
 また、宝塚古墳の対岸にある愛知県の正法寺(しょうぼうじ)古墳(90㍍ 5世紀前半)にも島状遺構がある。この二古墳は規模や規格が似ており、その立地からして海運をつかさどる豪族が被葬者として考えられる。さらに墳丘規格の点では青塚古墳(大垣市4世紀中頃)・昼飯大塚古墳(大垣市4世紀後半)との関連が指摘されている。そして昼飯大塚は祭祀の仕方で行者塚との関連が言われる。
 津堂城山古墳から少し離れるが柵状埴輪について記す。
 柵状埴輪は天理市の櫛山古墳が始まりらしい。櫛山古墳は崇神陵にほぼ隣接して作られ
ている。年代は4世紀だ。碧玉製の石釧・車輪石・鍬形石という腕輪系装身具が240点近く副葬されていて被葬者はたぶん女性。墳形は双方中円形でこれは吉備に最初にできた大古墳の楯築の形であること、直弧文の土製品があることなどから吉備系と推測される。被葬者は崇神皇后の御間城姫か。埋葬施設周辺には白い石が敷き詰めてあったという。
 柵形埴輪はここに発し、形式によって築山・巣山→野毛大塚(東京都世田谷区、5世紀初頭)という系譜、佐紀石塚山→仙道(福岡県朝倉郡6世紀)・百足塚(むかでづか)(宮崎県6世紀前半)という系譜、狼塚・鞍塚(応神天皇陵の陪塚的古墳)→今城塚という系譜があるという。
 仙道古墳からは、九州では珍しい盾持武人埴輪のほかに埴輪が多数出土した。盾持武人埴輪は6世紀代の関東に多い。人物埴輪は全体に関東に多いようだ。しかし盾持武人埴輪の最古のものは茅原大塚古墳(4世紀末帆立貝形 桜井市櫛山から2キロメートル南)から出たという。そして古市古墳群の墓山古墳・野中宮山古墳からも出ている。
 百足塚古墳は、大古墳群である西都原(さいとばる)古墳群の近くにある新田原(にゅうたばる)古墳群に属し、やはり埴輪が多数出土している。西都原には見られない動物や人の埴輪が出ていて鳥形も含まれ、形象埴輪の構成が今城塚と同じだという。
 これらを概観すると、ここに記した古墳群はみな埴輪製作に関連し、祭祀は山陰地方を源流とした吉備の流れをくんでいて、それが古市の応神陵に集まり、継体天皇の墓と言われる今城塚古墳につながるように見える。

5―5―3 中津山古墳
 佐紀陵山古墳より少し遅れて作られたと見られる中津山古墳も、日葉酢媛陵と同様に中核的な古墳だ。日葉酢媛陵と同型の古墳群は4世紀か5世紀初頭までなのに対し、中津山は5世紀前半に作られる宮崎最大の古墳、男狭穂・女狭穂にも壇場山古墳(姫路市)にも影響を及ぼしている。
 中津山古墳の斜面には当時新式の窖窯(あながま)が多く残っている。中津山の陪塚は方墳ばかり3基で、規模は50メートルほど。近接して鍋塚(方墳50㍍)があり、中津山と類似の埴輪が出ていることから関係が指摘されている。これらの窯は八尾南遺跡の人々がもたらしたものだと推測され、5世紀代には大阪の坂井市・和泉市・岸和田市・大阪狭山市の東の丘陵地帯に陶邑(すえむら)という窖窯焼成の須恵器の一大生産地が営まれるようになる。これは平安時代に、燃料とした地域の森林資源が枯渇してしまうまで続く。
 中津山の陪塚の1基から修(しゅ)羅(ら)が出ている。修羅は古墳築造の道具で、重い石を運ぶのに使う。土師氏は土器生産に携わる集団だが、古墳造営の土木技師でもあった。このことは土器生産と並んで土木技術も中津山の主が掌握していたことを示す。中津山古墳の影響が各地に見られるのは、埴輪作りや土木の新しい技術が迎えられた証拠でもある。
 中津山古墳は応神天皇の皇后である中比(なかつひ)売(め)の陵だとされる。この古墳は応神陵の1世代前の築造なので時代が合わないという説がある。しかし私は、それとは別の理由でこのナカツヒメは『記』が言う品陀真若王(ほんだまわかのみこ)の娘の中比売ではないと思う。品陀真若王の家系は尾張系に終始する。尾張の豪族なのだ。
 中津山の被葬者は津堂城山の主の後継者だ。私は仲哀天皇妃の大中津比売なのではないかと思う。忍熊・香坂王(かごさかのみこ)の母で、『記』で彼女の父は大江王(おおえのきみ)だ。大江は文字通り川を支配した王だったのだと思う。古市はその交通の要衝だ。父の仲哀が大津にいて母が古市なら、忍熊王が佐保川沿いに本拠地を持つことも、淡路に城を築くことも可能になる。
 日葉酢媛にしろ、中津媛にしろ、古くは箸墓もそうだが、中核古墳の被葬者が女性と想定できるのは興味深い。これは事に際して神、あるいは巫女がまだ大きな役割を持っていたしるしであり、また母系で集団を作る伝統が根強かったことを示してもいると思う。しかし応神の時代になるとこれが変わる。応神陵自体が各地の古墳のモデルになるのだ。

5―6 和泉

 この時期に200メートル越えの古墳が和泉にある。古市から15キロメートルほど南にある摩湯山古墳だ。佐紀の陵山古墳と相似形だ。摩湯山は和泉のほぼ真ん中に位置する。和泉という場所はどういう特色があるのか。
 和泉と言えば池上曽根遺跡が弥生時代の大集落として有名だ。ここには高殿祭祀跡があって吉野ヶ里遺跡と共通するなど九州との関係が指摘されているほか、紀の川産の緑色片岩製の石包丁を大阪東南部の集落に供給しており、紀伊国とも関係が深い。住人は千人と推定され、地方からも大勢の人が集まる中核都市だったようだ。
 そして垂仁と日葉酢媛の息子の印色入日子命(いにしきいりひこのみこと)が和泉地域に名を残している。『紀』では五十瓊敷命(いにしきのみこと)とも言う。『紀』「垂仁段」に茅渟(ちぬ)の菟砥川上宮(うとのかわかみのみや)で剣一千振を作ったとある。何のための剣か。それは朝鮮半島の制圧に使うためだろう。この宮は阪南市自然田(じねんだ)付近だったと言われる。かなり紀伊に近いところだ。また、彼は河内国の高石池(たかしのいけ)・茅渟池(ちぬのいけ)を作ったとある。『記』では血沼池(ちぬのいけ)・狭山池・日下の高津池を作ったとある。チヌは泉佐野市下瓦屋付近とされ、今もそこに大きな池がある。サヤマは大坂狭山市にその名の池がある。タカシは高石市としてその名が残る。日下は東大阪市日下町にあったとされる。日下は饒速日が天から下ったところと言われ物部氏にゆかりが深く、また仁徳天皇に召された日向の髪長媛の子、大日下王の地でもある。池を作る土木工事は金属器を使っての治水工事だ。五十瓊敷は和泉・河内全体にわたる事業に力を注いだようだ。
『記』は、彼が剣を作った宮は鳥取の川上宮だと言う。『紀』「垂仁段」に、鳥取連の祖の天湯河板挙(あめのゆかわたな)が口をきかない誉津別(ほむつわけ)のために白鳥を取ってくる話が載る。鳥を捕まえた場所は『紀』では単に出雲だが、『姓氏録』には出雲の宇夜江(うやえ)で捕ったと書かれている。宇夜江は荒神谷(こうじんだに)遺跡のそばで、大国主や銅鐸と深い関連があると思われる土地だが、そこでは子供が初めて物を言うことをクグイ(白鳥)が鳴くと言うそうだ。また、五十瓊敷の宮は『記』では〈鳥取〉だったのが、『紀』では〈ウト〉の宮となっていて、これは熊本の宇土半島を思い出させる。大阪府泉南郡にある淡輪(たんのわ)ニサンザイ古墳(5世紀中~後)は五十瓊敷命の墓に治定されているが、ウド墓とも呼ばれている。だが谷川健一氏によれば、鳥取の宮は大阪府柏原市の天湯川田(あまゆかわた)神社の付近だ。この神社は鳥取連が祖先の天湯川桁を祭ったと言われる。私も阪南市よりはこちらが印色入日子の宮としてふさわしいと思う。この近くには5世紀になって鉄器生産の操業を開始する大県(おおがた)遺跡がある。畿内一の大生産地だ。2章7―4項で述べたが〈トリ〉の名を持つ鳥取連も金属関連氏族だろう。
 摩湯山古墳と百舌鳥古墳群とのほぼ中間地点に黄金塚(こがねづか)古墳がある。4世紀後半の築造(94㍍)で景初3年画文帯神獣鏡が出ているのだが、その類例として三島の安満宮山古墳出土の陳是作同向式神獣鏡(洛陽の陳グループ製作の最古相の三角縁神獣鏡のひとつ)が挙げられる。それだけでなく後漢末の斜縁二神二獣鏡に似たものが両古墳から出ている。古市は三島と関係があったが、ここもそうだ。
 このすぐそばに富木(とのき)遺跡があって、ここは大草香(日下)の部民がいたところだという。旧大鳥郡の草部(くさかべ)郷だ。大草香は日向の髪長媛の子だから、日向から来た人々が住みついたのだろう。
 全体に和泉は九州、それも筑前というより筑後・肥後・日向の影が濃いように思える。鳥取ということで山陰との関連もありそうだ。地理的な近さで摂津とも関係があったのは容易に想像できる。

5―7 馬見(うまみ)の古墳群

 葛城山の麓に蟠居した氏族が葛城氏、土地に根づいた豪族だ。馬見古墳群は葛城氏の墓と言われるが、南北に長く広がっていて一般的に3グループに分けられる【図29】。4世紀の古墳は二上山と信貴山の間、穴虫の隘路を大和盆地側に抜けたところにある。築山古墳・巣山古墳・島の山古墳はいずれも4世紀後半の築造で200メートルを越える。築山古墳が少し早い。
図29 馬見古墳群 (『古代豪族葛城氏と大古墳』から)
纏向遺跡の土器

5―7―1 佐味田宝塚(さみたたからづか)古墳と新山古墳
 二上山麓の古墳の中でも佐味田宝塚(111㍍)は興味深い古墳だ。4世紀末の築造だという。ここからは36面の鏡が出ているが、椿井大塚山との同笵鏡をはじめ他の多くの古墳と同笵鏡でつながっている。その多くは4世紀前半頃のもので、佐味田宝塚古墳の主は椿井大塚山と三角縁神獣鏡を通して連盟関係にあった。三角縁神獣鏡は椿井大塚山と黒塚が30面以上・備前車塚が20面・佐味田宝塚と愛知県犬山市の東之宮の10面・桜井茶臼山と馬見古墳群最古の新山(しんやま)古墳が6面を出している。備前車塚と東之宮は前方後方墳だ。佐味田宝塚は椿井大塚山とは同盟者だったかもしれないが、古墳築造に百年の時代差がある。鰭付円筒埴輪(ひれつきえんとうはにわ)が墳丘にあったことから、柳本(やなぎもと)古墳群(崇神・景行陵など)・佐紀の陵山(日葉酢媛)・ウワナベ(八田皇女 物部氏)と関係が深かったと考えられる。佐紀と椿井大塚山の距離の近さからして、椿井の後裔は佐味田宝塚の主とずっと親交があったとも考えられる。また佐味田宝塚から出た22センチメートルの家屋文鏡の文様を調べるとよく似たものが鳥取県の長瀬高浜遺跡・千葉と群馬の古墳・八尾市の美園古墳・和珥氏の墓のひとつと言われる奈良市の東大寺山古墳から出ているという。
 東大寺山古墳出土の鉄刀に家形の環頭をつけたものがあり、これが佐味田宝塚の家屋文と似ているという。東大寺山の鉄刀には「中平」年号を持つものが含まれる。中平は後漢時代184~189年を指す。これが和珥氏は2世紀頃日本に来たとされる理由かもしれない。佐味田宝塚の被葬者、その先祖も広域にわたる活動をしていた氏族の一員に違いない。佐味田宝塚の被葬者の祖は椿井の企てが失敗した後も中心政権で生き残り、その後裔は4世紀末に全方位外交をしていたと言える。しかも被葬者は、副葬に石製腕飾りが多く剣や斧も石製で、粘土槨(かく)という埋葬の作りから見て女性だと思える。ここでも中核は女性だ。
 ところで、馬見古墳群の中でいちばん古いのが広陵町にある新山古墳(137㍍)で、これは4世紀前半築造の前方後方墳だ。34面の鏡・金銅製帯金具などが出ている。この金具が300年頃の中国、紅蘇省のものに近いという。後方墳なので美濃や尾張との関係が想定される。また、金銅製帯金具が紅蘇省のものに近いということはこの古墳の被葬者は海洋族だったと推測される。紅蘇省は揚子江河口の北に広がる地域で、彼はそこまで航海していたかもしれない。小笠原好彦氏はこれを『開化記』に名前だけ登場する葛城氏、垂見宿禰(たるみのすくね)のような人の墓ではないかと言う(「古代豪族葛城氏と大古墳」2017)。垂見宿禰は、開化天皇の妃の一人鸇比売(わしひめ)の父とされる人だ。これはあり得る説だ。垂見はおそらく垂水で〈水が流れ落ちる〉の意だ。垂水の地名は各地にあるが、神戸市から淡路島に渡るのにいちばん近い垂水区は、古代出雲から大阪湾に出る道の港だったという。実際ここを抑えることは大阪湾への北からの入り口を制することになる。垂水から大阪湾に入ったところの吹田市にも垂水南遺跡がある。そこから南下して当時の大和川に入ると、今の八尾市を通り、信貴山の南を遡上して大和盆地に至る。垂水宿禰は大阪湾の海上交通を押さえていた海洋族の首長だったのではないか。しかも出雲を含んだ広い地域との交流があった。新山古墳の副葬品からは中国の江南を含む広域で展開していた氏族の首長が被葬者として想像できるので、これを垂見の墓と考えることにそれほど矛盾はないと思う。垂水の西には加古川市があって、前述したようにここと尾張のつながりは深いので、新山古墳が前方後方墳なのもおかしくない。ただ新山古墳は4世紀前半の築造で、箸墓を作った崇神より前の天皇の開化とは時代が合わない。こうした問題はしばしば起こる。それは、伝説上の人物を今の人になぞらえる手法を取っていると思われる『記』『紀』の説話のあり方からしてしかたがないことだ。ともあれ、新山古墳が垂水宿禰の墓なら佐味田宝塚の主は鸇比売かもしれない。三角縁神獣鏡つながりと広域展開の首長という点でこの二人は同類だと思うし、佐味田宝塚は大阪湾から新山古墳までの通り道に当たる。小笠原氏は佐味田宝塚の被葬者は鸇比売か、『孝元記』に名の出る高千那毗売のような人だと想定している。

5―7―2 二上山東麓の古墳
 島の山古墳は、近くに糸井神社・比売久波(ひめくわ)神社があって、ともに機織りに関係する神社だからその仕事関連の人が被葬者で、多数の石釧や首飾り、2500個もの玉を副葬していること、作りが粘土槨であることからその人は女性だろうと考えられる。ここは糸井造の本拠地で、彼らは天日矛の子孫だという。島の山に使われた石材は兵庫県高砂市産の竜山石だから、これらの点から糸井氏は神功の新羅征討関連の氏族で、丹波経由でこの地に入ったと言えそうだ。
 巣山古墳の周濠からは喪船が出土した。また前述したように津堂城山古墳や5世紀初頭に築造された伊勢の宝塚1号古墳(松阪市)との関連がある。
 三重県松阪市の宝塚1号は140センチメートルという大型の船形埴輪が出たことで有名な海洋族の首長の墓だ。『紀』「神功段」に「斯摩宿禰(しまのすくね)を卓淳国に派遣した」とあるが、〈シマノスクネ〉は伊勢志摩のシマだろうと思う。この人は百済の肖古王に使者を送って絹や鉄鋌などの贈り物を受けている。この人が宝塚1号古墳の主なのではないか。
 宝塚1号のそばに少し遅れて作られた宝塚2号墳は90メートルの帆立貝形古墳で、巣山古墳の周囲にも、池上古墳(92㍍)・乙女山古墳(130㍍)・狐塚古墳(86㍍)・3吉山古墳(45㍍)の帆立貝形古墳ができている。巣山の主は伊勢の水軍との関わりが深かったという推量が成り立つと思う。4世紀の末から5世紀にかけて各地に帆立貝形古墳ができてくる。大きな前方後円墳のそばにそれに引けを取らない帆立貝形古墳があるケースが目立つ。特に4世紀末には近江に大きさが50メートル級の帆立貝形古墳が多く作られる。帆立貝形の古墳の形は5世紀前半から各地に広がる。
 5世紀前半に作られた新木山(にきやま)古墳は巣山古墳の南にあり墳形が似ているという。新木山古墳は、5世紀初頭に百舌鳥に作られる上石津(かみいしづ)ミサンザイ古墳とともに佐賀市の船塚古墳と関係があるという。
 築山古墳では近くから竜山石の長持型石棺が出土している。そしてそばには新山古墳とコンピラ山古墳(5世紀前半95㍍円墳)がある。ここは頂上にコンピラ神社があった。コンピラは航海の守護神だ。ということは新山の後継者の海洋族が被葬者かもしれない。金毘羅宮に近い香川県の荘内半島の付け根の地域は、九州から送られてくる石棺を畿内へ送る輸送の中継地だったようだ。4世紀後半築造の快天山古墳(丸亀市100㍍)で刳貫式石棺が作られてから後、これが畿内に広まったという【図30】。この時期、石棺に大王を葬るのが流行のようになるが、コンピラ山の主はこの輸送にあたった人かもしれない。
図30 石棺の航路 (『香川県の歴史』から)
石棺の航路

5―7―3 室宮山(むろみややま)古墳と竹内宿禰と葛城襲津彦(かずらぎのそつひこ)
『紀』「神武段」に高尾張邑の土蜘蛛を殺す話がある。この高尾張邑が後の葛城だという。また剣根(つるぎね)を葛城国造にしたという記述がある。『先代旧事本紀』ではこの剣根が娘を尾張氏に嫁がせ、その子が奥津余曾(おきつよそ)と余曾多本毗売(よそたほびめ)だとしている。余曾多本毗売は孝昭天皇の后だ。葛城にいた住民が尾張に移ったという伝承があり、熱田神宮の宮司家は先祖が葛城から来たとしているそうだ。葛城は古くから鴨氏の地だった。孝昭天皇陵も御所市にある。
 馬見古墳群は葛城氏の墓だというが、前項までに見たように4世紀後半から5世紀初頭にかけての二上山麓の古墳について検討しても葛城氏に関係が深い要素は出てこない。やはり御所市が葛城氏の本拠だろう。但し、室宮山古墳の主の活動広範囲は広かったようだ。
 室宮山古墳は御所市にあって、5世紀初頭にできたとされる古墳だが、コナベと形が似ているという。後円部南石室の石は紀の川産の結晶片岩で、天井石は加古川産の姫路酸性岩、長持形石棺は加古川流域産の竜山石、後円部北石室からは伽耶産の陶質土器が出ている。中でも舟形の陶質土器は珍しく、朝鮮半島からの伝世品だという。紀伊から播磨まで広い範囲に勢力を張った首長が被葬者だと考えられる。
 御所市南郷遺跡は渡来人が多く住んだ村だ。南郷遺跡の南西の高台にある極楽ヒビキ遺跡は葛城の首長館跡で5世前半のものだという。この建物の埴輪が室宮山古墳で見つかって、首長の居館と古墳がつながった。渡来人の村を開発した最初の首長が室宮山古墳の主だということだ。
『帝王編年記』は室宮山古墳を竹内宿禰(たけのうちのすくね)の墓と記す。そうだろうか。
 武内宿禰は、孝元天皇と伊迦賀色許売の息子の比古布都押信(ひこふつおしのまこと)が紀伊国造の祖、宇豆比古(うずひこ)の妹の山下影日売(やましたかげひめ)と結婚して生んだ子だと『記』は言う。『紀』では「孝元段」に彦太忍信は武内宿禰の祖父だとあり、また「景行段」では屋主忍男武雄心(やぬしおしおたけおこころ)が紀直(きのあたい)の祖、菟道彦(うじひこ)の娘、影媛(かげひめ)を娶って生まれたのが武内宿禰だと記す。「成務段」では成務と生まれた日が同じだとして竹内宿禰と成務が親しい様子が描かれる。そして、武内宿禰は仁徳の時代まで生きて三百歳ほどになったという伝承がある。
『紀』には紀伊の国の伝承を竹内宿禰の話として詳しく載せる。『記』は波多(はた)・許勢(こせ)・蘇我(そが)・平群(へぐり)・木(き)・葛城長江曾都毘古(かずらきのながえのそつびこ)が竹内宿禰の後裔とする。波多・蘇我は6世紀頃から隆盛になる渡来氏族だが本拠地は奈良県高市郡で、ここに渡来人を住まわせたという記録がある。許勢も6世紀以降有力になる氏族で、許勢も葛城も御所市が本居地だ。いずれも奈良盆地の南にあって紀伊に近い。平群も紀氏の出だし、木は紀氏そのものだ。紀氏は非常に古い家柄で、その媛が母であるなら竹内宿禰の本拠地はやはり奈良盆地の南、紀伊に近い御所市周辺にあるのが自然だ。彼の後裔とされる氏族もみな紀伊に近い奈良盆地の南部に住んでいる。とするとやはり『帝王編年記』の通り、室宮山古墳が竹内宿禰の墓なのか。
 しかし『記』『紀』で見ると彼が最も活躍するのはいわゆる神功皇后の時だ。新羅征討では神のお告げを聞く役だし、帰ってからは忍熊王を討つ仕事をする。神功皇后は忍熊王との戦いで紀井の水軍を頼っている。また「神功段」に斯摩宿禰が登場し、彼が志摩地方と関係があるらしいこと、志摩に近い宝塚古墳と巣山の関係や、巣山古墳から喪船が出たこと(竹内宿禰は忍熊王攻略に喪船を使っている)、竹内宿禰の父方は孝元天皇系で近江に本拠があり、同じ近江に宮のあった成務と親しかったこと、また地名の竹内が巣山古墳に近いことなどからして、私は巣山古墳の方を竹内宿禰の墓とするのが妥当なように思う。
『紀』「神功段」に、葛城襲津彦は新羅を討ち、その時の捕虜が桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしぬみ)の邑の漢人の祖だと記される。御所市の金剛山の麓には佐味の地名が今も残り、そのすぐ西に高宮廃寺(たかみやはいじ)がある。その北の朝町とさらに北の葛城山の麓にある池之内にそれぞれ桑原の地名があるという。忍海はさらに北、葛城山と岩橋山の中間点にある。葛城氏は御所市周辺から葛城山沿いに北へ勢力を伸ばした。
 葛城襲津彦は『記』に、〈長江の曾津彦〉とあるので、御所市の名柄(ながら)周辺が根拠地だったと思われる(長江と長柄は同義語で長い尾根の意味だという)。名柄遺跡からは新羅系の甑(こしき)が出土し、5世紀代にはここで新羅系渡来人による武器・鉄生産が行われたらしい。
『百済記』に「沙至比跪(さちひこ)壬午年に新羅に発遣」とあって、この年を382年とするとこれが葛城ソツヒコのことになるという。室宮山古墳はやはり御所市を中心とする地域を開発した首長の墓としてその主を葛城襲津彦にあてるのが妥当だと思う。