青の一族

第5章 大古墳の世紀:5世紀-なぜ天孫は日向に降りたのか


3 履中天皇と上石津ミサンザイ古墳



 履中陵に治定されている上石津ミサンザイ古墳(365㍍)は、仁徳陵とされる大仙古墳、品陀和気の墓と言われる誉田御廟山古墳に次ぐ三番目に大きい古墳だ。履中天皇は仁徳の子とされるが、上石津ミサンザイは大仙陵より先にできていて誉田御廟山とほぼ同時期だ。この古墳も中津山と同形だという。
 百舌鳥古墳群では、上石津ミサンザイ古墳と御廟山古墳(203㍍)の周辺の古墳群が大仙陵より先に形成される。5世紀の初頭から前半のことだ。上石津ミサンザイの陪塚とされる寺山南山古墳(44㍍方墳)からは囲形埴輪と最古級の須恵器が出た。陪塚の七観音古墳のすぐそばにあって今は消失した七観山古墳(56㍍円墳)は、墳頂に鰭付円筒埴輪の方形列があった。出土した鐙は日本で最古に属するもので、金銅製帯金具は韓国慶尚北道の遺跡出土のものと酷似しており、当時の最先端の技術で作られているという。
 御廟山は造り出しから囲形埴輪が出た。今は消失した陪塚のカトンボ山古墳(50㍍円墳)からは滑石製の祭祀遺物が大量に出土した。子持勾玉4・勾玉725・臼玉2万個などだ。ここには甲冑はなく人体の跡もない。多量の滑石製品は古市の墓山古墳の陪塚の野中古墳にも見られた。御廟山の南にあるいたすけ古墳は誉田御廟山の3分の1の形だという。
 これらの要素を見ると、百舌鳥の南地域に5世紀初頭に古墳を築いた人々は古市とほぼ同じグループの人と思われる。大和に始まる祭祀を引き継ぎ、中津山に始まる須恵器を副葬し、朝鮮半島の新羅地域から当時最新の品々を持ち帰った。滑石製品は玉造りの技術が必要だと思われるので、丹後の人々の存在が想定される。
 歴史では履中は仁徳の息子だから、上石津ミサンザイが履中陵では矛盾すると言われる。確かにその通りだが、私は上石津ミサンザイは履中の墓、あるいは履中と呼ばれた人の父の墓だと思う。
 履中の諱は大江伊耶本和気(おおえのいざほわけ)だ。古市古墳群の先駆けである中津山の被葬者を大江王の娘の中津媛と推測した。石川や大和川などが合流し、奈良盆地と大阪湾をつなぐ要衝の地、古市を掌握する水運を掌握する王、大江の王がいたはずだ。伊耶本和気はイザホという名からして、佐保川や木津川も支配下に入れていたと思える。佐保川は大阪湾から大和に入るのにどうしても必要な航路だ。木津川は淀川につながっている。彼の本拠地は南山城だろうと推測する。忍熊は排除されたが近江の勢力は健在だ。大津市には4世紀の末に茶臼山古墳(122㍍)が、城陽市には4世紀の末に久津川丸塚古墳(帆立貝形80㍍)・5世紀の前半に久津川車塚古墳(前方後円墳180㍍)・5世紀中頃に久津川芭蕉塚古墳(前方後円墳114㍍)と続けて大古墳ができる。200メートル級を別にすればこの時期久津川車塚古墳が最大だ。久津川古墳群のある城陽市の大久保周辺は古くは栗隈と言われ、倭建の妃の玖玖麻毛理比売の本拠地だという。
 履中の本拠地が南山城だと考える根拠は、彼の子の市辺之忍歯王(いちのべのおしはのみこ)の宮が玉水青谷村大柴(綴喜郡井手町)にあったとされることもある。3世紀後半に作られた木津川に近い椿井大塚山古墳の後、その地から徐々に北に離れるように続いて古墳が作られていく。4世紀前半に平尾城山古墳(110㍍相楽郡山城町)、後半に飯岡車塚古墳(81㍍京田辺市)。そしてこの飯岡車塚と城陽市の久津川車塚の中間地点に市辺王の宮がある。履中の娘とされる青海郎女(あおみのいらつめ)の青海は葛城の忍海(おしみ)で育てられたからのようで、飯豊(いいとよ)(青海)天皇陵もそこにある。しかし、青海郎女にゆかりの深い青海神社は福井県大飯郡・新潟県加茂市・糸魚川市にある。履中はこのように若狭とも関係が深いので、私は彼は伊奢沙和気の実質的な後継者ではないかと思う。
 また、上石津ミサンザイと馬見古墳群の新木山古墳は佐賀の船塚古墳に影響を与えているという。履中は筑後川にも進出している。『風土記』の佐嘉郷には大荒田が県主の祖という伝説もある。大荒田は近江・美濃・上毛野と広範囲に伝承が残る人だ。履中も水運の仕事に関わり、遠方まで出かけていた人ではないか。
 歴史では、弟の墨之江仲彦(すみのえのなかつひこ)が宮殿に火をつけたので彼は石上神宮に逃れたという。つまり、石上神宮周辺が履中に地の利のあるところ、古い本拠地と見ていいと思う。履中はいち早くウォーターフロントに拠点を作ったが、履中陵ができた後に別のグループが同じ地域に大仙陵を作った。仁徳は墨江津や茨田の堤を作るなどの事業を通してこの地域の開発に努めた。これはそれまで淀川などの水運を支配してきた大江の首長としては痛いできごとだったろう。その勢いに押されて、たぶん実際に命の危険もあって履中は本来の自分の土地に逃げていく。しかし、履中陵はすでに百舌鳥にできていたのだから、逃げたのは大江の伊耶本和気2世だったかもしれない。