青の一族

第5章 大古墳の世紀:5世紀-なぜ天孫は日向に降りたのか


4 各地の古墳の相互関係と消長


4-1 中央と各地の古墳の関係4-2 男狭穂塚・女狭穂塚古墳4-3 100メートル級の古墳の西への傾き4-4 吉備の古墳


4―1 中央と各地の古墳の関係

 朝鮮半島侵攻は日本の総力を挙げた企図だったので、各地の豪族間に複雑な相互関係がある。それは古墳に表れる。
 4章5―3項に書いた上毛野の太田天神山古墳(群馬県太田市)は誉田御廟山の2分の1相似形だ。太田天神山に先行する同系古墳の朝子塚古墳からは特殊器台型円筒埴輪が出ているので、太田市の勢力は吉備と連携していたと考えられる。そして太田天神山のそばにあるほぼ同じ規格の女体山古墳(106㍍)は帆立貝形だ。
 三島の太田茶臼山古墳(226㍍ 5世紀中頃 大阪府茨木市)も誉田御廟山と相似形だ。丹波篠山市の雲部車塚古墳(140㍍ 5世紀中頃)は、コナベ・誉田御廟山両方に形が似ているという。日向の男狭穂(おさほ)塚(づか)古墳(176㍍ 5世紀前半 宮崎県西都市)は帆立貝形だが誉田御廟山の2分の1の形だという。
 中津山古墳も各地の古墳と関係が深い。中津山は4世紀後半の築造だが、それから少し遅れて5世紀前半に作られた日向の女狭穂(めさほ)塚(づか)(176㍍)は中津山の5分の3の相似形、これはさらに上石津ミサンザイ古墳(履中陵に治定5世紀初頭)とも同型だという。同時期の姫路市の壇場山古墳(142㍍5世紀前半)は中津山の2分の1相似形。雲部車塚と壇場山は古墳の規模や長持型石棺が似ているという。
 雲部車塚の被葬者は、丹後の網野銚子山古墳など3大古墳の被葬者の後に丹波地方をまとめた首長で、丹波篠山市に本拠を置いたようだ。これに伴って周辺の古墳が消えて巨大古墳が造営された。こうした動きは上毛野と同様で、姫路でも宮崎でも同じだった。岡山でも、4世紀後半には100メートル級の古墳が県下に5基もあり、その数では群馬と並んで群を抜いていたのに、5世紀の前半にはわずか1基に減り、そのかわり岡山市に350メートルの造山(つくりやま)古墳が作られるのだ。続いて5世紀中頃には総社市に作山(つくりやま)古墳(282㍍)ができる。古墳造営の変遷は中央集権の組織ができてくる過程を見るようだ。古墳の規模だけを見れば、吉備には河内に匹敵する王者がいたということになるだろう。

4―2 男狭穂塚・女狭穂塚古墳

 宮崎県にはこの時期に多数の古墳ができる【図34/35】。西都市には5世紀前半に県下最大の古墳、女狭穂塚古墳と男狭穂塚古墳(176㍍)が同時期に同規模で作られる。男狭穂塚は帆立貝形で、この古墳に使われた埴輪は窖窯焼成だという。中津山古墳の堤の斜面を利用した窯跡が多数発見されているが、これが男狭穂塚の埴輪と関係があるのではないかと言われている。一方、女狭穂塚の埴輪は野焼きだという。当然窖窯焼成の方が技術の点で格上だ。
図34 日向の古墳の編年 (『西都原古墳群』から)
纏向遺跡の土器
図35 日向の前方後円墳の分布 (『西都原古墳群』から)
纏向遺跡の土器
 なぜ同時期・同規模の古墳が一方は前方後円墳で一方は帆立貝形、しかも使われた埴輪の作り方に差があるのだろう。これは、男狭穂塚を作ったときに同じ工人集団が女狭穂塚も作ったが、男狭穂塚の被葬者の方が女狭穂塚の主より中津山や応神陵の被葬者と親密だったということではないか。つまり男狭穂塚の被葬者は畿内からの派遣者で女狭穂塚は在地の豪族だ。そして男狭穂塚が応神陵と同じ形だということは応神陵の主、つまり吉備の首長が中津山や〈サホ〉の名を持つ氏族を支配する立場にいたことを示しているのはないか。
 帆立貝形の古墳は前方後円墳より格が下がるという説を耳にすることがあるが、単純にそうだと言い切れるだろうか。男・女狭穂塚では古墳は格下なのに埴輪は格上という現象がある。伊勢の宝塚2号墳の帆立貝は大きさこそ1号より小さくなるものの、これを築造する労力は1号の前方後円墳に匹敵するという。私は古墳の形は種族の印なのだと考える。形が違えばたぶんそこで行われる祭祀の仕方も違うのだろうと思う。前方後円墳とは、ある豪族が畿内政権と同盟したときにその証として採用される墳形ではないかと思える。男狭穂塚の場合は、しかし、帆立貝形氏族が独自色を前面に出すためにこの墳形をとったというよりは、在地の豪族が畿内と同盟を結び前方後円墳を作ることに重きを置いて同形を避けたように思える。何しろ大きさは全く同じなのだから。
 この時期各地に帆立貝形の古墳が見られることは述べたが、私はこれらは初めは伊勢の海洋族のものだったと考えている。最初に大きな帆立貝形ができるのが伊勢であるのと帆立貝形古墳が水運に関係した場所に多いのが理由だが、群馬や中国山地など山の中にも作られるので確かとは言い難い。後にはこの形が一種の流行のようになったのかもしれない。
 古市と西都原(さいとばる)には墳形のほかにも関連がある。馬の飼育だ。
 4章5項で八尾南遺跡の人々の墓である長原古墳群に言及したが、ここの南口古墳から馬の骨が出土している。馬供養という葬送儀礼が行われたのだという。これは馬を飼育する集落に見られるもので、平安時代に朝廷の牧場だった会賀牧(えがのまき)がこの長原周辺だったという説がある。宮崎県の大淀川の上流の野尻町周辺は牛馬の飼育が盛んだったようだ。特に馬は朝鮮半島での軍事活動に欠かせなかったと考えられる。私は宮崎に突然現れるこの大型古墳をもたらした財源は、この地方が馬を供給したことだったと見る。
 905年に編纂を開始したという『延喜式』に記載された牧、つまり牧場は、関東と長野に多いが、それ以外では九州の肥前と日向にある。税の記録でも日向の地は米を納めない。牛馬で納めたのだ。5世紀から7世紀初頭にかけて、えびの市・宮崎市・志布志湾周辺にかけての地域で1000基に及ぶ地下式横穴墓が作られる。これらは墳墓自体の規模は大きくないが、副葬品は豊富だという。5世紀代は甲冑や武器類が多い。また畿内には少ない初期の馬具も副葬されているという。地下式横穴墓の地域は仁徳の妃となった髪長媛の領地である諸県郡(もろがたのこおり)とほぼ同じだ。この地域の人々は、牛馬を提供するなど畿内人に協力もしただろうが、独自に朝鮮半島侵攻にも出向いたのだと思われる。
 大阪府の長原古墳群の高廻り古墳からは、西都原で出たのと同じゴンドラ形船の埴輪が出ている【図36】。こうした大型船で馬を運んだものと見える。
図36 長原高廻り二号墳出土の大型の船形埴輪 (『日本の歴史 倭人争乱』から)
大型の船形埴輪

4―3 100メートル級の古墳の西への傾き

 この時期の100メートル級の古墳について見ると、4世紀後半には静岡県に4基、山梨県に3基、愛知・長野県に1基ずつあったものが、5世紀前半にはゼロになる。九州では、4世紀後半には福岡・宮崎・鹿児島県に1基ずつあったが、5世紀前半には宮崎県に3基も増え、福岡・鹿児島県に各1基増えて佐賀・大分・熊本県にも1基ずつできる。それに高知・山口県に1基ずつでき、鳥取県では東伯郡に在地の首長が続けて作ったらしい古墳が4世紀、5世紀後半と続くほか、5世紀前半に西伯郡にも1基できる。島根県では山口県に近い益田市にできる。全体的に比重が西に傾く【図37】。
図37 四世紀後半から五世紀の100m以上の古墳分布と想定される航路
△四世紀後半の古墳 〇五世紀前半の古墳 ■五世紀後半の古墳 
四世紀後半から五世紀の古墳分布と想定される航路
 高知県の平田曽我山古墳は、四国の西南端から少し北に入った湾を抱える宿(すく)毛(も)市にある。山口県の白鳥古墳は、宿毛市から海路をまっすぐ北上して本州にぶつかるところの平生町にある。島根県の古墳はその名もスクモ塚だ。
 大分市の亀塚古墳は5世紀初頭の築造で海部君の墓という伝承がある。海部氏は尾張にも盤踞した氏族だ。また、5世紀後半に作られる豊後高田市(国東半島の周防灘側)の真玉大塚(またまおおつか)古墳の埴輪には淡輪(たんのわ)技法が用いられているが、これは大阪府泉南市の淡輪古墳群の円筒埴輪に見られる独特の技法だ。淡輪古墳群では最初の西陵古墳(210㍍)が5世紀前半に作られている。同様の技法は和歌山市の木ノ本古墳群にも見られ、淡輪古墳群は紀氏の強い関わりのもとに作られたと考えられている。周防灘に面した福岡県の苅田町にある御所山古墳は5世紀後半の造営で物部氏の墓と言われる。 
 徳島県にも1基、渋野丸山(しぶのまるやま)古墳(105㍍)ができている。徳島市にあり、和歌山市から船出して西に一直線に進むと着くところだ。大和の勢力は紀の川を利用して、太平洋から九州南部にいったん上陸する航路を手に入れたように見える。さらに日向灘を北上して関門海峡に至ったのであろうが、この海路を押さえた海洋族は海部氏と紀氏のようだ。しかし、4・5世紀の古墳は和歌山市周辺にはなく三重県にある。伊賀市に4世紀後半と5世紀に続けて作られ、もう1基は伊勢湾の松阪市にある。伊賀は水軍には関わりがないように見えるが、川の水路で伊勢と紀の川河口をつなぐと、その中間点ではある。そして6世紀になると和歌山市に規模の大きい古墳群ができる。大阪市の法円坂遺跡には5世紀後半の倉庫跡がある。ここは後に難波宮となる場所で、倉庫群は16棟もあった。これと同様の倉庫が和歌山市の紀の川北岸で7棟見つかっている。航路を掌握したのは初めは伊勢の氏族だったが徐々に紀氏に移っていったのではないか。
 北部九州では5世紀の初めころから海洋族が玄界灘の人々から有明海の人々になるという。6世紀になると有明海沿岸に大きな古墳ができてくる。
 こうした動きに対応するように三河の水軍や甲斐勢は消えている。倭建の東征の道筋にあたっていた場所の首長はこのときは西へ向かう機会が少なくなったようだ。4世紀後半には滋賀県には2基の100メートル級古墳があったが5世紀前半にはゼロになり、その後も巨大古墳が築かれることはない。しかし、前述したように活動が絶えたわけではない。近江では栗東市を中心に5世紀を通じて50メートル級の古墳が作られ続け、京都の城陽市には大型古墳が作られる。また、6世紀には大量の渡来人が近江に住むようになる。
 
4―4 吉備の古墳

 備中には5世紀前半に造山古墳(350㍍岡山市)、中頃に作山古墳(282㍍総社市)が作られる。吉備でも特に岡山市周辺地域の一族は崇神以来、各地に影響を及ぼし、大和では祭祀の中心的役割を担ったが、百舌鳥に作られた大仙陵に押されるようにこの時期には本来の土地に戻って古墳を作ったようだ。350メートルの造山古墳は全国で4番目の大きさを誇る。作山古墳には5000本の円筒埴輪が並んだという。強大な力だ。ここは窪屋氏が支配したという。
 孝霊天皇の息子の若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)は吉備の下道臣(しもつみちのおみ)の祖であり、倭建の祖父でもある。下道郡は岡山市の西部だが、そのすぐ南が窪屋郡だ。窪屋氏は下道臣氏を追い落としたという説がある。忍熊殺しは吉備の内紛と述べたが、それに符合する。『応神紀』で応神が御友別一族に備前の地を割譲したことがわざわざ書かれるのも、このクーデターを正当化しようとする試みに見える。