青の一族

第5章 大古墳の世紀:5世紀-なぜ天孫は日向に降りたのか


2 応神天皇と古市古墳群

2-1 誉田御廟山古墳と古市古墳群2-2 応神天皇2-2-1 応神天皇の諱2-2-2 品陀和気の系譜2-2-3 七支刀の主

2―1 誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳と古市古墳群

 4章5項で津堂城山古墳と中津山古墳について述べた。中津山に続いて作られたのが5世紀初頭の誉田御廟山古墳、応神天皇陵だ。古市古墳群にあり、日本一の大仙陵525メートルに次ぐ420メートルの大古墳だ。被葬者はどのような首長だったのか、古墳の状況から検討する。
 誉田御廟山の陪塚の誉田丸山古墳からは国宝の金銅製の馬具など多数の副葬品が出土した。伽耶のものに似ているものがあるという。その他の誉田御廟山の陪塚は、栗塚古墳(43㍍)・東馬塚古墳(30㍍)・東山古墳(54㍍)・アリ山古墳(45㍍消失)でいずれも方墳だ。アリ山からは2600点の大量鉄器が出た。方墳は、丹後の方形台状墓の流れをくむと考えられる。
 応神陵のそばにあって関係が深いと考えられている古墳がある。赤と黒の楯が出土したので名がついた盾塚古墳(88㍍帆立貝形)は、割竹式木棺と鉄の刀・矛・剣が61本と甲冑が出た。珠金塚古墳(25㍍方墳)は割竹式木棺と組合式木棺で、珍しい金製丸玉が出た。出土の短甲は鋲留の新式だという。鞍塚古墳(48㍍ 帆立貝形)は箱形木棺、馬具など様々な副葬品が出たという。
 誉田御廟山の南に225メートルの墓山古墳がある。墓山には竜山石の長持形石棺があり、多量の滑石製勾玉が出た。墓山古墳は応神陵の陪塚と言われていて関係は深いと思われるが、独立した古墳だと思う。この古墳自体の陪塚群があるからだ。野中古墳(37㍍)は組合式木棺で、多様な鉄製品・伽耶地域の土器・4万点を超える滑石製模造品が出ている。向墓山(むこうはかやま)古墳(62㍍)は二上山の石で葺石が作られている。浄元寺山古墳(67㍍)は向墓山に似ている。西墓山古墳(15㍍)は副葬品のみの陪塚で刀剣200点・農工具2000点以上が出土した。これは儀礼的な鉄器だという。これらはいずれも方墳だ。墓山古墳の被葬者は玉造りの伝統を持つ丹後の流れをくんだ播磨の人に思える。
 誉田御廟山古墳はその大きさから見て、言い伝えの通り応神天皇陵だと思う。陪塚や関係の深い古墳に方墳が多いことは、丹後の人らしい神功皇后の息子にふさわしい状況だ。しかし、私はやはり丹後というよりは吉備系の首長であった応神がここの被葬者だと結論するのが妥当な気がする。
 その理由はまず、葬送の祭祀が吉備の首長だったと思われる崇神陵の行燈山古墳に始まり、陵山→コナベ→応神陵と受け継がれること。やはり吉備系の櫛山古墳に始まる柵状埴輪や白石の系譜が津堂城山に受け継がれ、津堂城山と誉田御廟山は関係が深いこと。古墳の周辺の土地、八尾市を流れる現在の長瀬川とほぼ同じ流域だったかつての大和川流域と武庫川流域には弥生後期の吉備系の土器が大量に出土する遺跡が多くあること。群馬県太田市の朝子塚古墳に吉備系の特殊器台が見られ、それに続くと考えられる太田天神山古墳が誉田御廟山と相似形であること。陵山と同形の古墳が消えるのに替わって各地に中津山・誉田御廟山と同形の古墳が現れること。『播磨風土記』の記述で応神伝説は瀬戸内側から日本海側に向かって広がっているよう見える、つまり瀬戸内が本拠地だったこと。これらが状況証拠だ。
 近江・丹後・若狭勢力は神功皇后に象徴されるように、朝鮮半島進出では一歩先んじていた。そして彼らと吉備は連携していた。これは同一の葬送儀礼を持っていることからわかる。
 誉田御廟山の西隣に野中宮山古墳(154㍍)がある。西向きの柄鏡形(えかがみかた)で九州の人のようだが、後円部墳頂にある野中神社には和爾氏の祖の彦國葺(ひこくにぶく)が祭られている。忍熊王と戦う武振熊の祖だ。これが武振熊の墓ではないか。
 西馬塚(にしうまづか)(45㍍方墳)も応神陵に近いが5世紀後半の築造で、陪塚ではなくこの地にある埴輪工房関連の技術者が被葬者かもしれない。
 古市のさらに南の地域にはもっと新しい時代の古墳が作られる。

 
2―2 応神天皇

 4世紀前半から始まった倭の朝鮮半島への移住は最初は鉄をめぐっての経済的なものだったが、朝鮮半島の情勢が国つくり過程の軍事的状況を常に呈するようになって、そこに倭も政治的介入をしたと思われる。倭の半島支配は局所的なもので任那日本府も組織だった機構を持ってはいなかったという説があり、倭が半島南部の盟主になったかのような広開土王碑の記事に文献としての価値はないと言う人もいる。私も日本府という立派な名前がつくような組織が朝鮮半島で機能していたとは思わない。しかし、倭人が半島で軍事行動を展開したのは事実だろうし、実際高句麗が南下して倭軍と戦ったのだからそれなりの勢力だったことに間違いはなかろうと思う。また倭が半島での軍事行動によって利益を得たことも事実だろう。  
 応神天皇は『紀』記載の干支から394年に没したとされているので、4世紀の終わり頃応神が半島攻略の指揮を取った首長の一人だったのは間違いないだろう。応神天皇陵は5世紀の最初の4半期に作られたと見られるので390年没では年代が合わないという説もあるが、それでも彼が5世紀の初め頃までの王だと見て大幅な違いはないと思う。『記』『紀』の記述は大まかには史実を伝えているが、詳細は各氏族の思惑や力関係によって加筆や修正されているだろうし、記録の精度からしても天皇の年齢や事績の年時などはそのまま正しいとは言えない場合もあると思う。

2―2―1 応神天皇の諱(いみな)
 神功皇后の息子とされる応神はどのような人物だったのか。
 応神の名は三つある。品陀和気(ほむだわけ)と大鞆和気(おおともわけ)と伊奢沙和気(いざさわけ)だ。彼の名前には、通常始めに来る本人の氏や育ちを語る〈○○の〉(例えばタジヒの、とかツツキのなど)という表記がない。私は、こうした名を持つ人は広域に活動し、何人かの人格を統合して作り上げられた人物だと考える。倭建もそういった人の一人だ。
『記』「仲哀段」で神功皇后の太子として登場する応神は、敦賀の伊奢沙和気大神(いざさわけのおおかみ)と名を交換する。伊奢沙別を祭る気比(けひ)神社は、越前一宮の気比神宮(福井県敦賀市)を筆頭に山形・新潟・富山・福井県各地にある。兵庫県豊岡市にもあって、ここは天日矛の義父、太耳(ふとみみ)の本拠地とされるところだ。伊奢沙和気は敦賀から北東の日本海沿岸に流布した神だ。『記』「応神段」で応神は宮主矢河枝比売(みやぬしやがわえひめ)に会ったときに、「この蟹は角鹿(つぬが)の蟹で、伊知遅島(いちじしま)・美島(みしま)(琵琶湖の島だと思われる)を経て佐佐那美(ささなみ)(琵琶湖西岸の地)を進み、木幡(こはた)(宇治市木幡)で出会った乙女」と歌う。この歌は応神が敦賀の出であること、そして彼が宇治まで来た道のりを示したものだと思う。滋賀県草津市にも伊砂砂(いささ)神社がある。また、同段の神功皇后の歌に「岩神として立っている少名御神(すくなおかみ)が醸した酒」という表現がある。気比(けひ)神社は敦賀に、気多神社は石川県羽咋(はくい)市にあるが、このふたつにほど近い大穴持像石(おおなもちかたいし)神社は石をご神体とする。同系列とみられる宿那彦神像石(すくなひこかみかたいし)神社が中能登町と七尾市にあって、ご神体の石像はそれぞれ1尺7寸と7尺2寸だという。歌に言う少名御神とは、この能登の石像のことなのではないか。こうしたことから応神像を形作った人物の一人は敦賀湾周辺から新潟あたりまでを支配した首長、伊奢沙和気だったのではないかと考える。神功皇后が日葉酢媛であれば、彼女は丹波(=丹後)の人なので伊奢沙和気と同盟していても自然だし、岩神の歌を知っていてもおかしくない。
 伊奢沙和気が本当に仲哀天皇と神功皇后の息子だったかどうかはわからない。仲哀の本拠地は近江なので、神功皇后が日葉酢媛ならば、彼女と結婚すれば北陸から畿内への道を確保したことなる。もし仲哀の息子なら、彼の本拠地は近江に近いところになりそうだが、先ほどの「この蟹は……」の歌からするとどうも彼は敦賀からやって来たように見える。伊奢沙和気と神功皇后は、一族か近い関係だったと言うにとどめておくしかないが、私は、陵山古墳の祭祀を受け継ぐ武人の墓と思われるコナベ古墳が伊奢沙和気の墓ではないかと思っている。
 ところが『記』『紀』では、名を交換した伊奢沙和気の神がその後何という名になったかは述べられないし、応神がこれ以降伊奢沙和気の名で記されることもない。
 一方、『播磨風土記』には応神天皇と神功皇后の逸話が多い。特に夢前(ゆめさき)川・市川・揖保川流域だ。加古川は河口付近では景行伝説が多いが、上流では応神説話が多くなる。市川上流は日本海側の円山川の上流と接しており、円山川の支流沿いに天日矛の本拠地だった出石がある。出石を天日矛の本拠地と考える理由は、豊岡市に但馬一宮の出石神社があって天日槍を祭るからだ。『播磨風土記』では、揖保川の上流地域で葦原色許男(あしはらしこお)または伊和大神が天日矛と争った伝承が多く、応神はあまり出ない。『記』「応神段」では日矛の渡来の事情が詳しく語られる。また、伊豆志袁登売(いずしおとめ)の婿取りの話も載せられる。この話が応神段にあるのは、出石が本拠地の日矛の子孫が応神の支配下に入り新羅への出兵に協力したからだと思われる。『播磨風土記』に見える応神は、伝承の分布から見て、日本海側の首長というより瀬戸内側から勢力を伸ばしたように思える。瀬戸内側から播磨を北上したのは播磨勢と連合した吉備の首長だと考えられる。
 加古川市に稲日大郎女の墓とされる日岡陵(ひおかりょう)古墳がある。『記』では、稲日大郎女の父は若建吉備津彦で夫は景行天皇だ。ところが日岡神社の祭神は天伊佐々彦(あめのいささひこ)だという。〈イザサワケ〉と〈イササヒコ〉の関係はわからないが、同一の神である可能性は高いのではないか。播磨も伊奢沙和気の影はある。
 吉備には御友別(みともわけ)という人がいる。彼は応神の妃の一人、吉備出身の兄(え)媛(ひめ)の兄で、吉備の臣の祖だと『紀』は記す。応神は御友別の子らに吉備の地を割譲する。『記』にはこの話はない。吉備と関わりの深いこの応神が大鞆和気だったのではないか。私は、大鞆和気が播磨と連合した吉備の第二勢力の首長で、古市の応神天皇陵の被葬者だと考える。『記』『紀』で吉備に関する記述は一般に多くない。これらの歴史が書かれた時代に吉備の勢力が大きく削がれていたせいだと考えられる。しかし、各地の伝承や氏族の系譜を調べると吉備は広い地域に影響を及ぼしていることがわかる。記録は少なくても、この応神時代には吉備の力は強大だったと思う。丹後の伊奢沙和気も結局吉備勢の下に入るような形になったのではないか。

2―2―2 品陀和気の系譜
 もうひとつ応神には品陀和気という名がある。『記』『紀』ともこの名でのその後の応神を語って行くので、この人の業績が目覚ましいものだったと思える。その係累の出自を見てみよう。
纏向遺跡の土器

『記』『紀』とも応神天皇の最初の妻は高木入日売(たかぎのいりひめ)で、その妹の中日売が皇后になったと記す。『記』には、彼女らの父は品陀真若王(ほむだのまわかのみこ)で、その父母は五百木(いおきの)入(いり)日子(ひこ)と、尾張連の祖とされる建伊那陀宿禰(たけいなだのすくね)の娘、志理都紀斗売(しりつきとめ)だとある。5―4項で建稲種と玉媛が結婚したところまでを述べたが、その娘が志理都紀斗売だ。そして、品陀真若は叔母を妃にして応神の妃になった三人の娘を生む。
 上の系図のメンバーの領地を並べると、彼らは愛知県のあま市・一宮市・犬山市に勢力を張っていたのがわかる。倭建の兄の大唯も係累と考えれば、さらに関市・美濃市(武儀(むぎ)郡)まで加えられる。品陀和気は尾張氏の首長だったと言える。

2―2―3 七支刀の主
 品陀和気についてもうひとつ注目すべき点がある。『記』「応神段」で吉野の国主(くず)が歌う歌だ。
「誉田(ほむた)の日の御子の大雀、佩(は)かせる大刀は冬樹の葉の落ちた幹の下木のようにさやさやと揺れる」というものだ。これは天皇の皇子である大雀(おおさざき)が大刀を腰につるした様子を歌っていると一般に解釈されている。そして、この大刀は七支刀のことだという説がある。「木のように揺れる」という表現から私もそうだと思う。
 七支刀は、千熊長彦が百済人の久氐(くて)を案内して日本に至り、献上されたと『紀』は言う。371年のことだ。千熊長彦はその名が示すように千曲川沿いに本拠地を持つ豪族だったに違いない。4世紀後半に長野県千曲市に森将軍塚古墳が作られるが、これが千熊長彦の墓ではないのか。森将軍塚は組合式石棺で周囲には円墳があり、九州系の首長が想像される。4世紀代の東日本の古墳は倭建系勢力の範囲にあり、その中心は美濃・尾張北部だ。私は、若狭湾から出発した千曲長彦は七支刀を持ち帰り、美濃・尾張に勢力のあった品陀和気に渡したのではないかと見ている。つまり、歌われているのは大雀ではなくて応神である品陀和気なのではないか。尾張と紀伊国とは関連が深く、品陀和気が尾張の首長なら吉野の国主がこの歌を歌うのも自然な気がする。
 国主は日の御子と歌う。この時はまだ日が天皇に直結すると皆が考えていたわけではないが、日信仰は伊勢のものだというから、時代が違うと考えなくてもいいと思う。
 しかし問題は、通定の解釈では歌われているのは仁徳であって応神ではないことだ。この歌は『仁徳記』ではなく『応神記』で歌われる。応神はこの時点ではまだ生きていて宇治稚郎子(うじのわきいらつこ)に位を譲りたがっていると書かれているのに、太子でもない仁徳が七支刀を持っていてしかも日の御子と呼ばれるのは整合性がない。だから、歌の〈誉田の日の御子〉は品陀和気自身を指しているとしか思えない。しかしその日の御子の名が大雀なのはなぜだろう。〈オオサザキ〉の名については仁徳天皇の項で考察する。
 朝鮮半島へは日本中から兵士が送られたと見ていいと思う。何人もの首長がいたはずだ。それを後に万世一系の天皇家にするために最有力の首長を合成した物語を作ったのが『記』『紀』の「応神段」だ。私の推測では上のように応神と呼ばれた人は三人いた。