青の一族

第5章 大古墳の世紀:5世紀-なぜ天孫は日向に降りたのか


5 大仙陵と近隣の古墳



 大仙陵はその規模や大阪湾に臨む立地から見てもモニュメント的な古墳だ。誉田御廟山や上石津ミサンザイより少し遅れて5世紀の前半から中頃に作られた。この古墳の成り立ちを検討することは日本の歴史に欠かせないと思うのだが、大王級の古墳は検討しようにも、それらは天皇陵に治定されていることが多く、中身がわからないものばかりだ。そこでその陪塚を比べることにした。
 ここまで古市古墳群と百舌鳥の南地域を見てきて各古墳の陪塚は方墳が多いのに気づく。 
 大仙陵の陪塚は次の通り。前方後円墳の長塚古墳(104㍍)、帆立貝形の丸保山(まるほやま)古墳(87㍍)・孫太夫山(まごだゆうやま)古墳(65㍍)・収塚(おさめづか)古墳(61㍍)・竜佐山(たつさやま)古墳(61㍍)・菰山(こもやま)古墳(36㍍)、円墳の大安寺山(だいあんじやま)古墳(62㍍)・茶山(ちゃやま)古墳(56㍍)・樋の谷(ひのたに)古墳(47㍍)・源右衛門山(げんえもんやま)古墳(40㍍)・塚廻(つかまわり)古墳(32㍍)・鏡塚(かがみづか)古墳(26㍍)・狐山(きつねやま)古墳(23㍍)・坊主山(ぼうずやま)古墳(10㍍?)、そして銅亀山(どうがめやま)古墳は方墳とされるが墳形は定まっていないらしい。これらの陪塚は、丸保山・竜佐山・狐山が5世紀後半の築造なのを除くと5世紀中頃に作られている。陪塚の内容もあまり明らかになってはおらず、わずかに塚廻に銅鏡・勾玉・鉄剣・鉄刀、収塚に単甲や須恵器が出たことが知られるだけだ。しかし、これを見ると大仙陵の被葬者の眷族が近隣の他の古墳の被葬者の眷族とは種類が違うのがはっきりわかる。方墳はなくなり帆立貝形と円墳ばかりになって、しかも帆立貝形が円墳より大きい傾向がある。
 このことから推測できるのは、大仙とその周辺の古墳は九州(円墳)と伊勢(帆立貝形)が眷族で、それ以外の古墳ははおおまかに言って東の勢力(方墳)が眷族だったということだ。帆立貝形の古墳はこの時期群馬から九州まで広い範囲に作られている。各地の氏族がこの型を取り入れたように見える。しかし、海洋族が中心になったことは間違いないと思う。
 同じころ岡山には造山古墳ができるがこれはどうか。内容は阿蘇凝灰岩製の刳抜式長持形石棺があることくらいしか知られていない。陪塚は円墳・方墳・前方後円墳・帆立貝形とバラエティに富んでいて誉田御廟山の構成に似ている。
 5世紀初頭の古墳の築造には1尺を23センチメートルで測る方式が取られていた。技術革命の時代と言われる5世紀にふさわしく、応神陵以降の土木技術の発展はめざましかったようだ。中津山・誉田御廟山・上石津ミサンザイ・大仙は1尺23センチメートルのグループだが、次の世代は1尺25センチメートルで反正陵(田出井山古墳)や允恭陵(市野山古墳)がそれだ。その次は35センチメートルで清寧・安閑・白鳥陵がこれに入る。つまり、応神陵と仁徳陵の被葬者は同じ時期の技術者を使ったということで、古墳の作られた時期は多少ずれても彼らの朝鮮半島侵攻はほぼ同じ時期だったと見ていいということだろう。誉田御廟山も大仙も造山も4世紀末に始まる朝鮮半島支配による利益で作られた。捕虜として日本に来て労働力として使役された朝鮮人も多かったことだろう。
 仁徳天皇の諱は氏族や育ちの記述のないただの大雀だ。しかし、彼は倭建や応神とは違って複数の人物を合体させた人ではない。そうした背景は全く語られていない。仁徳とは誰なのか。九州の勢力が眷属なのは間違いないとしても、彼らは曽於の人々か、日向かそれとも筑後か福岡周辺なのか。どれもあり得ると思う。それを検証するために、九州の古墳群を少し詳細に見ていくことにする。