青の一族

第5章 大古墳の世紀:5世紀-なぜ天孫は日向に降りたのか


6 4・5世紀の九州の古墳群


6-1 宮崎平野6-2 福岡平野6-3 熊本県宇土半島・山鹿地域6-4 大隅半島の古墳6-5 その他の100メ-トル・50メ-トル超級の古墳


6―1 宮崎平野

 宮崎平野に最初にできた大きな古墳は、大淀川中流に300年頃にできた生目(いきめ)1号墳(136㍍)だ。これは撥形(ばちがた)に開いた前方後円墳で箸墓と密接な関係にあり、畿内との関連が考えられる。先にこれは久米氏が関わっていたのではないかと述べたが、そうだとしても彼らはこの土地の豪族になったと思われる。生目古墳群ではその後墳形は柄鏡型に変わって、続く首長系譜がたどれるが5世紀の後半の1基で最後となる。同じ大淀川のさらに上流に本庄古墳群があって、これも在地豪族の墓だ。生目より規模は小さいが4世紀前半から6世紀の終わりまで安定して続く。
 一ッ瀬川の北にある小丸川の中流に川南古墳群がある。4世紀の中頃から6世紀まで安定して首長墓が並ぶ。これよりもう少し河口に近いところに持田古墳群がある。ここも川南とほぼ同じペースで順調に首長墓が続く。持田古墳群は畿内直轄領的色合いが濃いという。ここには4世紀中頃に120メートルの計塚(はかりづか)古墳ができる。これらの古墳群のある新富町は児湯郡で朱砂の産地だ。また新富町の北にある都農町では牛馬の飼育が盛んだった。こうした産物によって安定した古墳群ができたと思われる。志布志湾の串間市も朱砂の産地だったようだ。
 176メートルの男・女狭穂塚古墳のある西都原古墳群は一ッ瀬川流域にある。この地域には4世紀から4系列の首長がいたことが古墳の造営で知られるが、両狭穂塚に吸収される。その後ほぼ築造がないが、6世紀の後半になっていくつか作られる。狭穂塚とほぼ同時期に一ッ瀬川を挟んだ対岸に児屋根塚(こやねつか)古墳(110㍍)ができる。これは中臣氏系首長が想像できる。
 畿内勢力が一ッ瀬川流域に根拠地を作った理由のひとつは、この川が人吉盆地を流れる球磨川につながり八代湾にも出られるからだろうと思う。
 五ヶ瀬川の河口にある延岡市には、5世紀前半に菅原神社古墳(140㍍)と延岡22号墳(110㍍)ができる。
 宮崎平野には、延岡・川南・西都の各市に100メートル級の古墳が6基も並ぶ。西都原古墳群には4・5世紀だけで50メートル超級前方後円墳が11基、本庄古墳群には7基もある。その他の古墳はほとんどが円墳で各古墳群に何十基もある。ここがこの時期いかに栄えたがわかる。

6―2 福岡平野

 宮崎以外の九州で4・5世紀を通じて作られた100メートル超級の古墳は10基ある。その中で最も早いのが4世紀後半に作られた糸島市の一貴山銚子塚(いきさんちょうしづか)古墳(103㍍)だ。糸島市には5世紀末まで50メートル級の古墳が継続して作られており、ここは朝鮮半島への渡航の拠点だったと考えられる。また、福岡平野の4世紀後半の50メートル超級古墳は、宗像市・那珂市・嘉麻(かま)市にあり、5世紀前半には宮若市にできる。これらの古墳はほぼ20キロメートルの間隔で存在している。兵を集める各地の首長がこれくらいの範囲をそれぞれ掌握していたものと思う。これらと同時期・同規模の古墳が大牟田市にもある。

6―3 熊本県宇土半島・山鹿地域

 4世紀末に宇土市に107メートルの天神山古墳ができる。天神山古墳の西に馬(ま)門石(かどいし)(阿蘇ピンク石)の石切場があり、古墳に使われる石材の供給で早く畿内との関係を持ったものと思われる。天神山の東には4世紀後半の向野田(むこうのだ)古墳(86㍍)があって、女性首長が被葬者だが、ここも馬門石と無関係だったとは思われない。天神山は単独で現れるというから向野田地域から石を運びやすい港湾地域に首長が進出したのではないか。
 5世紀の前半に山鹿市に岩原双子山(102㍍)ができる。菊池川流域の有名な古墳といえば銘文のある鉄剣が出た江田船山古墳だ。山鹿市・玉名市・熊本市植木町周辺には30メートルくらいの円墳が多くあり、6世紀に続く。
 九州各地の古墳は5世紀に増えるが、宇土半島で最大の古墳は天神山より後の6世紀に現れる。

6―4 大隅半島の古墳

 4世紀末に鹿児島県の東串良町に唐仁大塚古墳(154㍍)ができる。唐仁大塚は、形は九州伝統の柄鏡形だが南北方向に向いていて(ふつう九州・四国は東西方向)、主体部の竪穴式石室も南北方向、舟形石棺だ。短甲が出土している。葺石はあるが埴輪がないので吉備勢はここには進出していないと思える。東国の海洋族の首長が被葬者のようだ。そしてこれと直行する箱式石棺も見つかっている。これが土着の首長かもしれない。唐仁古墳群は130基を擁する大規模な古墳群で、この大塚がその始まりだという。東から来た首長のもとで発展したと見える。
 5世紀初頭の岡崎20号墳(鹿屋市串良町)からは二重口縁壺が出ている。これは尾張のものだ。
 上のことから、ここには尾張の人々が伊勢の水軍とともに太平洋側を通って九州南部に達したという推測が成り立つと思う。

6―5 その他の100メートル・50メートル超級の古墳

 100メートルを越すその他の古墳は、5世紀初頭の亀塚古墳(116㍍大分市)・長目塚古墳(111㍍阿蘇市)、5世紀前半の石人山(せきじんさん)古墳(107㍍8女郡)、中頃の船塚古墳(114㍍佐賀市)、後半の御塚(おんつか)古墳(121㍍久留米市)・真玉大塚古墳(100㍍大分県豊後高田市)・御(ご)所(しょ)山(やま)古墳(119㍍福岡県苅田町)だ。
 亀塚は海部君、長目塚は阿蘇君、御塚は水沼君(みぬまのきみ)の首長の墓だと言われる。みな海洋族だ。亀塚古墳の近くでは朱砂を産したという。海部氏は海洋族として半島侵攻に参加しただろうが、この地に大型古墳ができたのは朱砂の生産も要因に違いない。石人山は磐井の乱で知られる磐井の祖父の墓ではないかと言われている。真玉大塚古墳からは淡輪技法の円筒埴輪が出ているので、紀氏との関連が考えられる。御所山古墳は頂上に白庭神社があって饒速日・大国主などが祭られている。被葬者は物部氏と見られる。このすぐ近くに豊前石塚山古墳がある。船塚古墳は百舌鳥の履中陵と馬見の新木山古墳との類似が指摘されている。佐賀市は佐嘉県主の本貫だが、その祖は大荒田だという。ここには近江系勢力が入っている。
 そして5世紀代に50メートルを越す古墳が多く見られるのが、苅田町・朝倉市・うきは市・佐賀市だ。国東半島・中津平野・筑後川流域の線は、古いつながりがあることがこれまでの考察からもわかっているが、これに加えて阿蘇氏を含めた地域がいわゆる景行の九州征討譚と一致する。
 九州の古墳は福岡県の北部と宮崎県の生目古墳群を除けば、ほぼ4世紀後半から作り始められる。これは4世紀前半の近畿勢を中心とした朝鮮半島への移住の動きに連動したものと思える。朝鮮侵攻に参加した豪族は当然近江・丹後・若狭以外にも数多くいた。九州の豪族も地の利を生かしておおいに活動に参加しただろう。この時期の古墳についてまとめると、まず宮崎が朝鮮半島侵攻によって突出して利益を得たことがわかる。福岡平野は在地の首長がそれぞれ兵を出した。宇土は巨大古墳に使われた石材の輸出で利益を得た。 
 国東半島周辺から筑後川を経て佐賀市に至る道には景行天皇の影が多く見える。そして南端の大隅半島には尾張の跡が見える。
 景行天皇は実はこの時代、5世紀の人ではないだろうか。彼の業績について見てみよう。