青の一族

第5章 大古墳の世紀:5世紀-なぜ天孫は日向に降りたのか


9 なぜ天皇家の祖は日向から旅立ったのか


 天皇家の成り立ちに渡来人が大きく関わっていたことは事実だろう。九州は一般に渡来人の故郷といったおもむきがある。早い時期の渡来人は松浦半島から有明海沿岸に来て、さらに薩摩半島へ渡ったのだろう。それが天孫のアタの媛との結婚譚になっている。そしてそこから本州に渡るとき出航の基地になったのは日向だった。文字通り日に向かって、東へ出発したのだ。日向は瀬戸内海にも太平洋にも出られる港だ。
 宮崎市の檍遺跡から弥生前期の甕棺が出ている。一般に甕棺は弥生中期に普及するので、ここには早くから渡来人が住み着いていたのがわかる。そして中期にはここと瀬戸内海地方との盛んな交流が見られる。古墳時代になって、大和の箸墓と同時期に古墳が作られたのは瀬戸内・北部九州以外では日向だけだ。古くから近畿の氏族たちとなじみの深い関係だった。
 期せずして、朝鮮出兵に際し日向は基地港だけでない重要な役割を果たすことになり、髪長媛によって天皇の血筋を伝える氏族となった。
 最初の歴史は5世紀の後半に書かれ始めた。仁徳陵ができたすぐ後だ。記憶に新しいこの重要なできごとと共に、自分の祖先たちが旅立った歴史も記録しなければならないと彼らは考えたのだろう。多くの渡来人にとって日向からの旅立ちはごく自然なことに思えたに違いない。
 もうひとつ、伊勢氏の存在がある。なぜ、神武の東遷の案内役を務めるのが遠く離れた場所にある伊勢の氏族とされるのかが不思議だった。しかし、これまでの経緯と、この時期に各地に帆立貝形古墳が作られた事実を見れば伊勢水軍の大きな関わりが理解できる。このことは神武神話が5世紀かそれに近い時代に作られたことを証明している。
 尾張氏の一派、物部氏は武器を作るのが仕事の軍事氏族だから、朝鮮半島で戦闘に相当活躍したのだろう。戦利品も相当なものを手にしたと見える。物部氏のその後の伸長が目覚ましい。

 さて、これで本稿の最初に挙げた5つの疑問の答えを私なりに出したことになる。しかし、『古事記』を筆記したという太安万侶の多氏についての疑問の答えはまだ出ていない。そしてさらにもうひとつ新しいテーマを設定したい。青の一族のことだ。「市辺之忍歯王を経て敏達帝に至る系譜に青の名がつくことがある」として青の一族を想定されたのは谷川健一氏だ。そして私は青の一族と多氏は大いに関わりがあると見ている。多氏とは何者なのか。〈オオ〉の名は〈カモ〉と並んで日本中にある。谷川建一氏は〈オオ〉のつくところは金属関連の地だと言う。
 そして青の一族についての考察は、雄略天皇後の混乱期に何が起きて、中央集権が確立されたと思われる天智・天武朝にどのようにつながるのかを考察することだと考えている。
5世紀から後の歴史を見ることで、これらの疑問の答えを見つけたいと思う。