青の一族

第6章 青の一族と多氏


1 青の一族


1-1 青の名のつく神々1-2 縄文・弥生時代の若狭・丹後1-3 青龍年紀銘鏡1-4 青の地名・古墳・神社阿保の名


1―1 青の名のつく神々

 青の一族には名に〈アオ〉がつくという特徴があるので、まずはそれを追ってみたい。
 古くはモンゴルの聖なる色が白と青だった。日本でも木に青と白の幣帛や鏡を飾る儀式があったことを歴史が伝えている。
 朝鮮半島では金官加羅国の始祖、首露王は異名を悩窒青裔(ぬぇじるちょんいぇ)といった(兄の大加羅の始祖は悩窒朱日。しかし、内珍朱智が異名という説もある)。首露王はクジの岳に降り卵から生まれたという。その卵は青かったという伝説もある。彼は金海金氏の始祖で、在位は157年間に及ぶ。これらの伝承はまったく神話の域を出ないが、金官国は任那の中心で倭と密接な関係のあったところでもあり、天から山の上に降るという日本神話との共通性もある。
 日本では、まず福井県大飯(おおい)郡青郷(あおのごう)に青海神社がある(〈せいかい〉とも〈あおうみ〉とも言うようだ)。祭神は椎根津彦(しいねつひこ)だ。椎根津彦はもとは珍彦(うずひこ)で、神武の水先案内人で倭国造になったと『紀』は伝える。『記』では槁根津比古(さおねつひこ)だ。この神社は履中天皇の娘、飯豊青海皇女(いいとよのあおのひめみこ)とゆかりがあって、彼女が椎根津彦を祭ったとも、彼女自身がこの神社の祭神だとも言われる。新潟県糸魚川市青海町の青海(おうみ)神社も祭神は椎根津彦だ。そこから南に1キロメートルのところにある青澤(あおさわ)神社に、大国主の妻となったとされる沼河媛(ぬなかわひめ)が祭られている。新潟県加茂市の青海神社は、726年に青海首(あおみのおびと)一族が祖の椎根津彦を祭って始まったとされる。ここには大国魂神も祭られている。柏崎市大字青海川(おうみがわ)にも青海神社がある。このように、青の神社には日本海の海洋族の神が祭られていると考えられる。香川県坂出市青海町にも青海神社があるが、ここの祭神は崇徳天皇(在位1123~1142)だ。
 ほかにも青と名のつくものは土地や氏などいろいろあるが、まず青海神社のある若狭・丹後の歴史を見ていこう。

1―2 縄文・弥生時代の若狭・丹後

 若狭町に縄文時代中期の遺跡、鳥浜貝塚がある。ここから縄文前期の丸木舟、隠岐の黒曜石製の石器、赤漆塗の櫛が出土した。縄文時代に日本海を回って沖縄まで新潟の漆塗製品が伝わっているという。日本海には縄文の中期から後期にかけて漁労文化圏が繁栄していて、その伝統は弥生にまで続く。若狭町の縄文人もそうした海の広域文化の一員だっただろう。
 弥生時代になると若狭湾では北部九州の銅剣・銅戈を忠実に模し、実用にも耐える製品を作っていた。この頃九州との結びつきは強くなったようだ。宮津湾のさらに内側に阿蘇海がある。阿蘇からの海人が移り住んだか、頻繁にここを訪れたということだろう。阿蘇氏は宇土半島周辺を本拠地とする海洋族で、そこからさらに南洋への航海を担っていた。
 丹後半島を流れる竹野川の中流に扇谷(おうぎだに)遺跡(京丹後市峰山町)がある。これは弥生前期末から中期初頭の集落で陶塤(とうけん)・管玉(くだたま)・鉄製品・ガラス塊・紡錘車などが出土した。近畿最古の鉄斧も近隣から出ている。ここには当時のハイテク集団がいたらしい。中期後葉には奈具岡遺跡(京丹後市弥栄町)で、加工だけで加熱しない玉造りだけでなく加熱式の技術も使った玉造りが行われていて先進性を見せている。
 弥生時代後期には丹後はガラス製品の一大生産地になる。後期前葉の三坂神社墳墓群(京丹後市大宮町)と前葉から中葉にかけての左坂墳墓群(同前)を合わせると一万点を超えるガラス小玉が副葬されており、ほとんどが銅イオンで着色した青色だという。コバルトイオンの紺色のものは稀ではあるが集中して出土するようだ。後期後葉の大風呂南(おおぶろみなみ)1号墳墓(与謝野町)からは青色の透明なガラスでできた見事な釧(くしろ)が出ているが、これはそれまでとは違う鉄で青色を出す技術だという【図38】。この古墳の第一主体は長大な船底状木棺だ。似たガラス釧は糸島平野の二塚遺跡と出雲の西谷2号古墳からも出ているが、それらは青というより緑色だ。
図38 大風呂南一号墳出土のマリンブルーの釧
マリンブルーの釧
 こうしたガラス出土の多量さは北部九州と丹後のみだが、ガラスの斉一性が高いことから丹後はガラス交易の独自ルートを持っていた可能性が高いという。この時期ガラスの原料はすべて輸入されている。原料はどこから来たのだろう。
 三坂神社古墳群の頃から台状墓の築造が始まり装身具として多数のガラス製品を副葬するが、台状墓の形式は中国の江南に原型があるという。また、桃谷古墳(金山町)は古墳時代後期の古墳だが、ここから出土した耳飾りは中国やベトナムのものと似ていて弥生からの伝世品の可能性が高いという。 
 大風呂南と同じ時期の古天王5号墳には鉄器があるのにガラスがない。ガラスの流入ルートが変わり丹後にガラスが入らなくなったらしい。この時期は、各地が独自の祭祀形式を持って対峙していた時代が終わり、九州の習慣が近畿に、また近畿の物が九州にといった交流が盛んになる。いわゆる瀬戸内流通網だ。また倭国大乱と言われる時期でもある。丹後にガラスが入らなくなったのは、それまでの交易ルートが絶たれてしまったからだろう。瀬戸内の海洋族が丹後・若狭の海洋族の通行の障害になったと考えられる。もし、朝鮮半島経由のみでガラスの原料を輸入していたなら、丹後から半島まで行くのに瀬戸内の海洋族は支障にならない。
 その後も丹後にはガラス製品はあるが、違う素材で少量になる。弥生末期の大型台状墓、赤坂今井古墳(峰山町)は船底状木棺で被葬者は海洋族の首長だったと考えられる。この地域の古墳の状態から見て、押し寄せる外からの勢力に対して在地の力を結集したのがこの古墳だったらしい。ここから3.7センチメートルの大型のガラス勾玉と人工着色料の漢青(ハンブルー)が検出された管玉が出た。この頃最高の装飾品はガラス勾玉だと考えられていたようだ。漢青は中国が独自に開発した着色料で秦時代頃まで盛んに使われた。秦の始皇帝陵の兵馬俑の着色にも使われているという。特異な台状墓、赤坂今井の被葬者のガラス製品作りと青色にかける意地を見る思いがする。

1―3 青龍年紀銘鏡

 弥栄(やさか)町と峰山町の中間にある大田南5号墳は4世紀後半の方墳(12×19㍍)だが、ここから青龍3年銘のある銅鏡が出土した。中国ではなく日本で作られたものだとか、卑弥呼が魏から下賜された百枚の銅鏡がこれだとか論争があるようだが、青の字の入った鏡がここから出たことに意味があるように思う。
 同笵鏡は3世紀後半築造の安満宮山(あまみややま)古墳(高槻市)から出土している。ここは後の継体天皇陵とされる今城塚古墳のある三島地域の古墳群の東の端にあたる。安満村は弥生時代前期から中期にかけて安定して発展した。その理由のひとつは石包丁・石斧・石鏃の製作・供給で、もうひとつは交通の要衝だったことだ。北陸からもたらされたアメリカ式石鏃は西日本で唯一ここから出土した。しかし弥生後期後半に石器の需要が減ると急速に衰えた。安満宮山古墳はその直前の繁栄を表しているのだろう。古墳の規模自体は小さいが、朱が撒かれ高(こう)野(や)槇(まき)の割竹形木棺が置かれ、鉄刀・鉄斧・スカイブルーのガラス小玉1600点が出土した。安満村は丹後・若狭の人々が奈良や京都に進出したときの拠点のひとつということだと思う。後にはここには春日神社ができる。春日は中臣、そして多氏系だ。

1―4 青の地名・古墳・神社

 福井の青海神社の祭神は椎根津彦だが、神知津彦(かむしりつひこ)・弥志理都比古(みしりつひこ)も祭られていたという説があり、『和名抄』によればこれらは同体だ。丹後一宮の籠神社に伝わる海部氏系図「勘注系図」に「彦火明(ひこほのあかり)―建位起(たけいたて)―宇豆彦(うずひこ)」「彦火火出見―建位起―倭宿禰」とあるという。この宇豆彦が別名椎根津彦・神知津彦とされる。最も古い名は〈ウズヒコ〉だったと思われる。宇豆彦は亀に乗って現れ神武天皇を先導して大和に入ったと伝わる。宇豆彦を祭っている神社が大分市佐賀関にある。岡山市の亀石神社も籠神社と同様の宇豆彦説話を伝える。またここには海童神が祭られている。安曇氏の奉斎した海の神は三童神だった。神戸市東灘区の保久良神社は椎根津彦が青木(おうぎ)の浜に青亀(おうぎ)に乗って現れたと伝える。このように瀬戸内一帯にも丹後の一族の痕跡がある。
〈オオキ〉の語に関連して思い出すのは、宮崎の〈アワキハラ〉だ。これも〈アオ〉だったのではないか。というのは、丹後の籠神社の名の由来となった籠は山幸彦が竜宮へ行くときに乗った竹の籠(かご)だと言われるからだ。前述したようにそれは南洋民族の伝承だ。丹後にある籠神社が北部九州の竜宮伝説ではなく南の伝承を伝えている。瀬戸内と宮崎は弥生時代から交流があった。丹後の人々ははるばる江南にまでガラスの原料を求めて出かけて行ったかもしれない。または南から来た貿易相手と宮崎や万之瀬川河口の金峰町で取引したかもしれない。そこまで行く航路が瀬戸内海と日向灘を通過するものだったのではないか。そして吉備が主導する瀬戸内海上交通網のために、ガラスの原料入手が困難になったと考えられる。
 青の一族は南下する。応神陵のある古市古墳群の中に青山古墳(5世紀中頃)がある。ここは藤井寺市青山町だ。青山町に隣接して225メートルの墓山古墳がある。5世紀前半の築造で、竜山石の長持形石棺と大量の滑石(かっせき)製勾玉が出ている。滑石は石を磨いてガラスのようにツルツルにしたもので非常に美しい。竜山石は播磨との関連を示し、滑石製勾玉はガラス作りの伝統を感じさせる。
 中部地方では岐阜県大垣市に青墓町がある。大垣(籠神社は宮津市字大垣にある)は荒尾南遺跡に代表される弥生時代の一大流通拠点だった。この周辺には4世紀頃の前方後方墳や前方後円墳が相次いで作られる。さらに南の犬山市字青に青塚古墳がある。123メートルの古墳で愛知県では二番目の大きさだ。この古墳は丹羽県君の祖、大荒田を祭る大縣神社の敷地内にあり、丹羽氏は多氏と同じく神八井耳の後裔と伝えられる。
 谷川氏によれば〈敢〉も〈アオ〉だという。伊賀一宮の敢国神社(伊賀市一之宮)は大彦が祭神で、阿閇(あえ)氏が氏神として祭ったという。大彦は前述したように北陸が拠点の人だ。〈敢〉が〈アオ〉なら〈あへ〉も〈アオ〉だろう。つまりたぶん阿閇氏も青の一族だ。伊賀市石川はもと阿拝(あえ)郡(あはいとも言う)で、ここに穴石神社がある。ここの祭神は木花開耶姫(このはなさくやひめ)と天児屋根(あめのこやね)だ。『伊勢国風土記逸文』に、「大国主の子の出雲建子がここに石の城を築き、阿倍志彦(あべしひこ)が奪いに来たが追い返した」とあって、かつては出雲族が住んでいたと考えられている。安倍志彦は青の一族だろう。この話は青の一族が各地に進出した過程を描写していると思う。
 雄略に殺された市辺之忍歯王の息子二人が身分を隠して住んでいたとされる播磨の志自牟(しじむ)は、兵庫県三木市の志染(しじみ)町だという。ここは『風土記』で履中天皇伝説が語られるところで、二皇子が隠れた岩屋の伝承地がある。志染町には青山地区があり、また隣は粟生(あお)町だ。粟生町は青野ヶ原台地のふもとにある。神戸市西区の顕宗仁賢神社によれば、二皇子が働いていたのは忍海部造細目(おしぬみべのみやつこほそめ)の家で、細目は押部谷(おしべだに)の統括者だという。忍海(おしぬみ)は青海皇女の部民と考えられる。古市古墳群にあるボケ山古墳は122メートル、6世紀前半の築造で仁賢天皇陵に治定されている。この古墳は青山町域内にある。
 京都府城陽市市辺(いちのべ)に粟(おう)神社がある。神社の創建は古く、祭神は少彦名と高皇産霊(たかみむすひ)。粟ということで、粟の穂で飛ばされたという少彦名に関連づけられたのだろうが、元の神は何だったかはっきりしない。市辺集落の人々の神だったことに違いはない。ここには青谷川(あおだにがわ)が流れ、市辺集落の東は青谷村だ。粟の〈おう〉は〈アオ〉なのではないか。市辺からは履中天皇の息子とされる市辺之忍歯王が連想されるが、彼の本拠地はここから3キロメートルほど南の玉水だったという。彼はこの一帯を支配した氏族の首長だったと思われる。
 長野県の諏訪大社の諏訪下社の近くに青塚古墳(57㍍6世紀後半)がある。ここは青塚と呼ばれる場所で、古墳は神社の管轄内にあり被葬者は下社の大祝を務める金刺(かなさし)氏(し)の首長と言われる。金刺氏は科野国造(しなぬのくにのみやつこ)の後裔だといい、『記』では科野国造の祖は神八井耳だ。

1―5 阿保の名

 伊賀市に阿保(あお)の地名がある。この一帯は今は白山町だが古くは青山と呼ばれたところで、今も青山のつく駅名が三つ並んでいる。阿保には大村神社があり、祭神は大村神だが社伝ではこれを垂仁の息子の伊許婆夜和気(いこばやわけ)にあてる。彼は阿保村に住み、その4世の孫、須禰都斗王(すねつとのきみ)が居住地の名にちなんで阿保姓(アホともアボとも言う)をもらい(『続日本紀』)、子孫は阿保朝臣になった(『新撰姓氏録』)という。阿保君は允恭天皇の頃、青山町と名張市・伊賀市柘植にいたという。伊許婆夜和気の母は丹波の阿耶美伊理毗売(あざみのいりびめ)だから、彼が青の一族だとしてもまったくふしぎはない。
 姫路市を流れる市川の両岸に阿保地区がある。ここにある阿保(あお)神社は今の祭神は天照大神だが古くは天児屋と大国主だという。
 福井市に3世紀末から4世紀の安保(あぽ)山古墳群がある。
 芦屋市打出に阿保親王塚と呼ばれる古墳がある。阿保親王(あぼしんのう)は794~842年の人だがこの古墳は4、5世紀のものなので本来は彼の墓ではないだろう。しかし、芦屋は阿知使主(あちのおみ)を祖とする芦屋漢人(あしやのあやひと)の拠点で、阿保親王の別邸があったという。阿保親王塚は松原市にもある。阿知使主は履中天皇の危機を救ったと伝えられ、履中の系譜に縁の深い人だ。

 ここまで見てきて以下のようなことが推測できる。
 青の一族は丹後・若狭から三島へ、そして木津川沿いに伊賀に進出した。たぶん琵琶湖経由で大垣に行き、そこから伊勢湾に達した。伊賀から伊勢湾に出たかもしれない。また由良川沿いに播磨に出た。そこから瀬戸内経由で九州の南に達する海の道も持っていた可能性もある。一部は信濃にも行った。そして彼らは履中天皇の系譜に関わりが深い。そして多氏とも関わりが深い。