青の一族

第5章 大古墳の世紀:5世紀-なぜ天孫は日向に降りたのか


8 仁徳天皇


8-1 仁徳天皇はどの氏族に属するのか8-2 髪長媛8-3 仁徳は誰か

8―1 仁徳天皇はどの氏族に属するのか

 彼はどの氏族の首長だったのか。その豪族は仁徳陵に方墳がほぼない事実からして少なくとも丹後系ではない。この時期九州で畿内系氏族として一番勢力を持っていたのはいわゆる景行天皇の尾張氏で、主要な居留地は筑後川沿いだ。この時期最大の古墳群の西都原には様々な勢力がいたが、その中でも男・女狭穂塚を作った主力は埴輪の製作から見て吉備勢だと考えられる。『記』『紀』の記述でも、九州の媛と結婚して子を生んだのは景行と応神だけだ。この二勢力のどちらかが主力だろうと推測される。ここで西都原の北にある新田原古墳群にある百足塚古墳に注目すると、ここからは水鳥埴輪が出ていて近江や吉備の祭祀の伝統を伝えている。しかし、動物埴輪は西都原からはまったく出ない。古墳の築造の技術は同じでも祭祀の伝統は吉備から受け継がれていないのだ。
 とすれば西都原の被葬者と最も親密な関係を持ったのは尾張氏ということになるのではないか。それが仁徳ではないのか。仁徳の眷属には帆立貝形が多い。尾張と紀氏はつながりが深い。仁徳は竹内宿禰の息子の平群木菟(へぐりのつく)と名を交換している。仁徳の義父は葛城襲津彦だ。襲津彦はその名からしても〈ソ〉の国と関係があると考えられる。『紀』の景行は日向の髪長大田根と結婚して日向襲津彦を生んでいる。葛城襲津彦と日向襲津彦は同一人物と見ていいと思う。『記』では日向の美波迦斯毗売(みはかしひめ)と結婚して豊国別王(とよくにわけのみこ)を生み、この人が日向国造の祖となっている。歴史でも尾張系が日向の祖なのだ。

8―2 髪長媛

 仁徳妃となった髪長媛は諸県の人だ。諸県郡は志布志市・都城市・小林市・えびの市・宮崎市を含む広大な地域だ。その中心を大淀川が流れていて、西都原古墳群のある一ツ瀬川はその北にある。
 諸県に関する歴史の記述には、『景行紀』に「諸県君泉媛(もろかたのきみいずみひめ)が石瀬川のほとりで天皇に食事を献上した」とあり、その場所は大淀川の上流の石瀬川が流れる小林市だとされている。また、「日向の髪長大田根と結婚した」ともある。『応神記』には「諸県君牛の娘の髪長比売が美しいのでこれを召す」とある。また、同段で応神は日向の泉長比売(いずみのながひめ)と結婚している。日向の泉媛の本拠地は鹿児島県の八代海側の出水だという説があるが、ここには応神がいたと思われるような遺跡がないので石瀬川の泉媛に同じと見る。
 志布志湾に先に拠点を築いたのは、伊勢氏・尾張氏・葛城氏だった。4世紀末に作られた唐人大塚古墳がその先駆けだ。しかし、その後に現れたのは一ツ瀬川流域の男・女狭穂塚古墳で、これに吉備勢力が大きく関わったのは明らかだ。応神と仁徳の髪長媛争いの話は、諸県でどちらが優位に立つかの争いだったのではないか。髪長媛は仁徳についた。これは先にこの地に地盤を築いていた葛城勢から吉備勢がこの地の優位を奪おうとしたが果たせなかったことを表しているように思える。歴史では応神が仁徳に髪長媛を譲った形になっている。これが決定的な争いには書かれていないのは、すでに大勢は決していたからのように思える。
 髪長媛は大阪にやってくる。『紀』の本文では彼女は摂津の港に入ってそこにいたことになっているが、一書に加古の港に入ったとある。〈鹿の大群が泳いでくる〉というそのときの光景描写は圧巻だ。加古川市は景行にゆかりの地で、加古川の上流に彼女の息子の大日下に関係する人々が住むようになる。

8―3 仁徳は誰か

 以上のように検討してくると、仁徳とは誰かの問いには尾張の首長という答えしかないように思う。2―2―2項で述べた品陀和気だ。私は、彼が仁徳だと考える。彼の眷属は伊勢の水軍と筑後川流域の尾張氏、先に鹿児島に入っていた伊勢氏・葛城氏だ。仁徳と応神は、『記』『紀』の記述が重複するので同一人物ではないかという説はこれまでにもあった。
 そう考えれば2―2―3項で言及した吉野の国主の歌〈誉田の日の御子の大雀〉という歌詞が合理性を持つ。品陀和気自身が日の御子で大雀でもあるのだ。
 オオサザキという名は大陵のことではないかとする説がある。大きな陵を作った王という意味だ。私もこれはあり得ると思う。大仙陵の築造は一大事業だったわけで、これを作った王と呼ばれるのは自然なことだと思う。
『紀』に平群氏との関連でオオサザキの名前が決まったという記述がある。平群氏は紀氏から出て奈良の北の平群谷に移住したと伝えられ、その墓域は平群谷古墳群だという。紀氏と言っても海とは関係ない内陸の豪族になった。平群谷古墳群の調査から平群氏の台頭は6世紀中期より前には遡れないので、『紀』の平群氏関系の記述は7世紀に『帝紀』の記定事業や『墓記』上進役の氏族に平群氏が含まれていたことと関連があるようだ。二百年も昔のことを書くのだから記憶は曖昧だ。仁徳は〈平群が懐かしい〉という歌を詠んでいるが、それが創作だったとしても問題なかった。しかし平群氏も何も根拠がなければそうは書けないだろう。紀の川北岸の紀氏グループと仁徳が関係が深かったことが倉庫群の遺跡などから知られている(6章5―1項参照)。またそれは、仁徳陵の周りの圧倒的な帆立貝形古墳の数にも表れている。