青の一族

第6章 青の一族と多氏


3 忌部氏


 忌部氏についてはの斎部広成(いんべのひろなり)が807年に天皇に提出したという『古語拾遺』に詳しい。彼は忌部氏独自の日本の歴史を述べた後、後発の中臣氏がしゃしゃり出すぎると不平を言っている。
 これによれば、忌部氏の祖の天太玉命(あめのふとたまのみこと)は高皇産霊(たかみむすひ)の娘、栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)の曾孫にあたる。姫の子は天津彦で、これが天孫だ。彦穂穂出見とも邇邇芸とも書かれていない。天津彦の子が天忍日(大伴氏の祖)で、その子が天太玉、つまり彼は天孫の直系となる。天太玉の配下には各地の忌部氏の祖のほかに出雲の玉造りの祖、櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)と鍛冶の神、天目一筒(あめのまひとつ)もいる。天津彦根も一族で、天岩戸の前で踊る天鈿女(あめのうずめ)は天太玉の娘だという。
 忌部氏がどのような仕事をしたかについては、天岩戸の前で儀式をするシーンに詳しく書かれているが、次のようなものだ。
1、銅を取ってきて鏡を鋳造する 1、麻を植えて青幣帛(あおにぎて)を作る 1、カジノキを植えて白幣帛(しらにぎて)を作る 1、布を織る 1、玉を作る 1、木材を採取し、神殿や笠・盾・矛を作る 1、刀・斧・鉄鐸を作る 1、榊を取ってきて鏡・幣帛・玉を懸け、称詞を唱える 
 祭祀に必要な様々なもの一切を作る指揮を執り、それらを使って実際に祭祀を行う。ほとんど祭祀の主役だ。驚くことに神殿まで作るのだ。木は植えると一晩で成長したという。このとき中臣氏の祖、天児屋(あめのこやね)は添奏役だった。天児屋の父は神産巣日(かみむすひ)だという。
 鏡を作ったとき初めのは失敗だったので紀伊国一宮の日前(ひのくま)神宮の日前神になったという。紀伊の神である高木神と高皇産霊は同じとする。忌部氏は紀伊と関係が深い。祖の天太玉は大伴氏の祖、天忍日の子となっている。大伴氏の一派は紀伊にもいた。天鈿女は伊勢の神と言われる。
 忌部氏は各地にカジノキ・楮・麻などを植えて産業を育成したようだ。これらの繊維を細く裂いたものを糸として布を織る。徳島市の忌部神社には天太玉の配下の天日鷲(あめのひわし)が祭られていて、この地は麻殖(おえ)郡と呼ばれた。阿波一宮の大麻比古(おおあさひこ)神社(鳴門市)の祭神は天日鷲の子の大麻比古だ。安房の忌部氏については2―4―3項で述べた。
 忌部氏も渡来系で初めは九州に来たのだろう。彼らは幣帛を作るので福岡の由布市と関わりがあったと思う。その後、四国、紀伊を経て安房にまで行ったとされるが、上総については、中臣氏が鹿島地域に力を持っていたので、これに対抗すべく安房殖産の話を作ったという説もある。安房神社の神職は忌部氏ではないそうだから、ありえることかもしれない。忌部氏の大和の本拠地は金橋村の忌部郷(橿原市忌部町)にあった。『古語拾遺』には伊邪那岐・伊邪那美の名が見えない。伊邪那岐・伊邪那美神話は1世紀頃のものと推測した。するとこれより後に来たのかもしれない。忌部氏の歴史では栲幡千千姫が重要だ。彼女が天孫の母だが父はただの天津彦とされ、まるで名前がないのと同じだ。3章2項で栲幡千千姫は庄内期の人ではないかと述べた。庄内期は大まかに200~230年頃だ。忌部氏はその少し前に日本に渡って来たのかもしれない。氏族として隆盛になるのは5、6世紀だという。
 斎部広成は中臣氏より古い家柄だということを強調する。927年成立と言われる『延喜式』でも、宮中の儀式では忌部氏の称詞の方が重要視されていたと言う。