青の一族

第6章 青の一族と多氏


4 中臣氏


 中臣氏の隆盛は645年の大化の改新で有名になった中臣鎌足に始まると言っていいと思う。鎌足は鹿島神宮の神官だった中臣御食子(なかとみのみけこ)の子として生まれた。母は大伴智仙娘(おおとものちせんのいらつめ)で、6世紀の継体天皇即位を支援した大伴金村か、金村の兄弟の孫にあたるらしい。その兄弟に大伴長徳(ながとこ)・馬来田(まくた)・吹負(ふけい)がいる。長徳は大化5年に孝徳朝で右大臣になっている。馬来田と吹負は672年の壬申の乱で功を挙げ、吹負は天武朝に常陸守になる。関東で血縁を結んだ大伴と中臣の躍進は歴史の流れを味方につけたかのような上り坂と言える。
 中臣氏系図では祖は天之御中主だ。『記』『紀』では中臣氏の祖は天児屋根命となっている。天児屋根は単独で出る神だ。係累がほとんど語られない。この点からもかなり後発の神だと思える。中臣氏系図では天児屋根の子に天押雲根命がいるが、この人の別名は天村雲だという。しかしそれは尾張氏の祖、天香語山の子だったはずだ。2章9―1項に書いたが、振魂命は尾張氏と多氏の祖でもあるという。そして中臣連の祖だという説もある。
 もっと後代の中臣氏の人では『仲哀記』に、四大夫の一人として中臣烏賊津連(いかつのむらじ)の名が見える。この人は雷大臣とも言われる。神功皇后の審神者と記録され、対馬に彼を祭る神社が多くあることから、神功の新羅征討に関わった人だと思える。その子の真根子は中臣氏の系図では一岐卜部(うらべ)氏・津島氏の祖だとある。卜部氏は奈良時代に亀甲での占いを仕切った氏族で、一岐氏から出たとされる。和泉国大鳥郡の大鳥神社は中臣と同祖の大鳥連が中臣氏の祖を祭ったといわれる。大鳥は倭建を祭ることが多い神社だが、鳥は山陰地方の特徴でもある。こうしたことから中臣氏も初めは一岐や出雲地方の出とも考えられる。
 豊前国中津郡中臣郷が故地ではないかという説がある。『神武紀』で、日向から旅立った神武がまず宇佐(福岡県宇佐市)に立ち寄って、そこで菟狭津媛に娶(めあわ)せるのが中臣氏の遠祖の天種子命だ。
 また中臣氏の本貫は河内一宮の枚岡(ひらおか)神社だとされる。東大阪市の出雲井町にある。祭神は天児屋根命・建甕槌・経津主だ。社伝によれば創建は神武東征の三年前で、天押雲の子の天種子が神武に先だって国を平定するために来たという。出雲井町の北には額田・石切・日下と物部氏の本拠地が並ぶ。中臣氏は奉ずる神が剣ということなので初めは武器を作るのが仕事の物部一派だったとも思える。
 中臣伊香津臣という人が『近江国風土記』に出る。これは中臣氏系図では前述の烏賊津連よりずっと前の人で、天種子の曾孫にあたる。『風土記』ではその息子の臣知人(おみしりひと)が、近江国伊香郡伊香郷(大社郷という説もある)が本拠地の伊香氏の祖だという。その二代後の 神聞勝(かみききかつ)が鹿島中臣の祖で『常陸国風土記』に記載がある。『垂仁紀』では中臣の祖は大鹿島命になっている。そして『古事記』を誦したという稗田阿礼も中臣氏の系図にいる。
 中臣氏は九州に地盤があり、出雲や壱岐に係累があり、近江にいたことがあって関東に進出するという多氏と非常によく似た歴史を持つ。『記』はそうした多氏と中臣氏の歴史が混在するような形で語られている。しかし、『記』『紀』の記述でも明らかだが、多氏が神武の子の神八井耳を祖とする皇別氏族なのに対して、中臣氏は臣下であって出自を変えることはできない。5世紀後半に各氏族が自らの歴史をつづり始めたとき、彼らは天皇家の主に欠史八代の誰かに血縁を求めた。中臣氏はその時代にはまだそうした豪族ではなかったのでそれができなかったということだ。そこで来歴の似ている多氏の歴史を自分のものとして取り込んでいったのだと思う。鹿島神宮も初めは多氏が奉斎する神だったが中臣氏のものになったのだ。