青の一族

第6章 青の一族と多氏


2 多氏



2-1 青の一族と多氏2-2 関東地方の3世紀から4世紀の遺跡と古墳から2-3 『常陸国風土記』から2-4 関東の神社2-4-1 群馬県・栃木県2-4-2 埼玉県2-4-3 千葉県2-5 大国主・出雲族と多氏2-6 九州の海洋族から金属生産氏族へ2―7 鹿島・香取神宮

2―1 青の一族と多氏

 多氏の本拠地は奈良県田原本町の多坐弥志理都比古(おおにいますみしりつひこ)神社だ。祭神は神武天皇と神八井耳だが、現在神社では水知津彦(みしりつひこ)と火知津姫(ひしりつひめ)の二神が神八井耳と同体としてこれを祭っている。神主は代々多氏を名乗る。古い祭神は神社の名の通り水知津彦だろう。
〈水を知っている神〉とは海の道のことで、水先案内人にふさわしい名だ。神八井耳は井戸と関連させて水の神とされるが本来は海の水のことで、水知津彦を祭る多氏は佐賀県杵島郡に発し、丹後・若狭に移動した海洋族ではないかと私は考えている。その後、青の一族と共に南下し、瀬戸内の海のルートも知るようになった。
 多神社の神戸(かんべ)(神社に属す納税者)は806年の『新抄格勅符(しんしょうきゃくちょくふ)』では大和に10戸、播磨に35戸、遠江に15戸となっている。播磨の国、神戸市垂水は古くから日本海側から瀬戸内側に出るときの港だ。大和よりも播磨に多いのが多氏の海洋族としての出自を語っているように思える。そして宮津湾の内側に阿蘇海があることは、神八井耳(多氏)が九州の肥国や阿蘇国と関わりがあり、火君や阿蘇君の祖とされる根拠となり得ると思う。
 多神社のある大和の多集落は大和盆地南部のほぼ中央に位置し、弥生中期前葉から存在した。神社社伝は、ここに既に多氏がいてそこへ神武がやってきたと言う。その通りなのだろうと思う。椎根津彦は倭国造になった。多集落は大和盆地南部の真ん中、倭国造の名にふさわしい場所にある。
 神八井耳の後裔に、伊勢舟木直(いせのふなぎのあたい)がいる。伊勢の朝明(あさけ)郡に船木氏がいたと『後拾遺往生伝』にあり、ここが伊勢舟木氏の本拠らしい。朝明郡には三重県朝日町・四日市市と菰野町(こものちょう)の一部が含まれた。四日市市の耳常(みみつね)神社・太(おおの)神社、菰野町の耳常神社は神八井耳を祭る。菰野町には青の地名もある。

2―2 関東地方の3世紀から4世紀の遺跡と古墳から

 特に関東の東側に〈オオ〉の地名が多く残っていることから、多氏は早くからこの地に勢力を持っていたと考えられる。関東の古墳や神社を調べてみよう。  
 千葉県八千代市にある沖中遺跡は弥生から古墳時代にかけてのものだが、ここから3世紀後半の精錬炉が出土した。これは国内最古だ。また、この時期にしかないかまぼこ型羽(は)口(くち)が北部九州と纏向遺跡とここに出ているから、北部九州―大和―千葉のつながりは3世紀に既にあったということだ。八千代市を南北に流れる新川沿いには宗像神社が13社ある。
 この八千代市を含んでその東の佐倉氏・富里市・酒々井(しすい)町と北の成田市までの広い範囲に17社あるのが麻賀多(まかた)神社だ。成田市が総本山で、社伝では倭建の創建で神八井耳八世の孫の伊都許利(いつこり)が社殿を作ったとされる。『異本阿蘇氏系図』では伊都許利は建借馬(たけかしま)の後裔だという。建借馬は成務朝に初代仲国造になり(『先代旧事本紀』)、仲国造の祖は神八井耳(『記』)ということだ。
 茨城県常陸太田市に100メートルの星神社(ほしじんじゃ)古墳がある。ここからは透かし孔のある土器片・赤色塗料の土器片・底部穿孔壺(せんこうつぼ)・線刻のあるもの・器台形土器片が出ていて、九州や出雲、吉備が揃ってここにいた様相を示す。この近くに梵天山古墳(151㍍)がある。星神社古墳とは別グループによる築造で、時期もはっきりしないが、5世紀中頃までとしても大きな古墳だ。これらの古墳があるのは久慈郡太田郷でその名に〈オオ〉が入っている。茨城県では旧新治(にいはり)郡、筑西市の葦間山古墳(141㍍)が大きいが、これも時期がはっきりしない。
 4世紀の古墳で大きいのは群馬県前橋市の天神山古墳(129㍍)と八幡山古墳(130㍍前方後方墳)だ。前者は赤色塗装の底部穿孔壺が円筒埴輪のように配列されていたといい、三角縁神獣鏡は桜井茶臼山古墳・黒塚古墳と同笵だ。宇土半島・尾張・大和と関連がある。足利市の藤本観音塚古墳(117㍍)も前方後方墳だ。二重口縁の壺形土器が出ていて尾張と関連がある。
 埼玉県東松山市の野本将軍塚古墳は115メートル。近くに水晶玉工房の反町(そりまち)遺跡があり、東松山市・鴻巣市・滑川村には古墳時代後期の窯跡がある。
 茨城県では4世紀に拠点となった地域におおむね1基ずつ古墳が作られたように見える。石岡市は茨城郡の国府があったとされるところで長堀2号古墳(46㍍)・丸山古墳(55㍍)があり、両者とも前方後方墳だ。大きめの古墳は以下の通り。

  那賀川河口の大洗町 日下ヶ塚(くさかげづか)古墳103㍍
  筑波郡下妻市 村岡柴崎1号 65㍍  2号 55㍍
  信太(しだ)郡土浦市 王塚古墳 84㍍ 前方後方墳
  茨城郡かすみがうら市 浅間塚古墳 84㍍
  行方(なめがた)市 勅使塚(ちょくしづか)古墳 64㍍ 前方後方墳

 全体として、古い古墳は前方後方墳で、これは美濃・尾張・東海勢力が早い時期から関東に入っていたことを示す。倭建の東国への遠征は200年から250年頃が始まりと想定したが、彼らがまず関東に古墳を築いたのだと思う。


2―3 『常陸国風土記』から

『常陸国風土記』はよく残っている。その記述からどの氏族が茨城県に入植したのかを見る【図39】。
図39 常陸風土記地図 (岩波書店『風土記』から)
常陸風土記地図
 多可郡は建御狭日命(たけみさひのみこと)が初代国造で、新治郡(にいばりのこおり)は比奈良珠命(ひならすのみこと)が国造の祖と『風土記』は言う。『風土記』は続けて建御狭日は出雲の臣と同族と記し、『先代旧事本紀』は両者とも天穂比の後裔とする。上述の葦間山古墳は比奈良珠の墓という伝承がある。那賀郡は多氏系の建借馬が初代国造だった。那賀郡に属した水戸市の飯富町(いいとみちょう)に大井神社がある。祭神は建借馬命だ。飯富は古代〈オオ〉と読まれ,大井も〈オオ〉だ。茨城郡は、須佐之男の子の天津彦根系の建許呂(たけころ)が国造の祖だ。茨城郡(うばらきのこおり)では国巣(くず)や土蜘蛛を大臣(多氏)の一族の黒坂命が討った。黒坂命は陸奥の蝦夷を討った帰りに久慈郡の十王村で病死したが、遺骸は霞ヶ浦の西岸、信太郡まで運ばれてそこで葬られたと『風土記』は言い、美浦村の大塚1号墳がその墓だという伝承がある。信太郡には経津主説話がある。また久慈郡では兎上命が国巣を討つ。兎上氏は天穂比が祖で千葉県の海上国が領地だが、兎上命は茨城の北にまで進出していたようだ。行方郡(なめかたのこおり)は崇神天皇のとき建借馬が来て平定した。筑波郡は饒速日を祖とする采女臣(うねめのおみ)の同族の筑波命が国造として来た。
『風土記』では、各地の祖と言われる人は饒速日を除いて、どれも出雲系、または多氏系だ。多氏はやはり古い氏族で出雲族の一員だと思える。但し、建借馬は崇神朝の人らしいので後代になる。
 霞ヶ浦周辺や鹿島灘沿いには倭武(やまとたける)伝承が数多く残っている。その多くが井戸を掘ったという伝承だ。鹿島郡には白鳥郷もある。久慈郡にも倭武伝承は多い。行方郡の名は倭武にゆかりがあり、島根県に同じ名がある相鹿(あいか)の里がある(行方市)。『常陸国風土記』では倭武天皇と表記している。また大生(おう)の里がある(潮来市)。麻生町には太田村(小牧)があった。潮来市の大生神社の祭神は建御雷で、社伝によれば彼は潮来町大生(おう)原(はら)から上陸した。また、この神社は飯富族が移住してきて氏神を祭ったもので、鹿島の本宮とも言われる古い社だという。

2―4 関東の神社

『風土記』は常陸については詳しいが他地域のことはわからないので、次に常陸(茨城県)以外の各地の神社を検討する。

2―4―1 群馬県・栃木県
 群馬には大古墳が築かれる。関東で最も大きい210メートルの太田天神山古墳は太田市にあるが、太田市の神社には特色がない。つまり多様なのだ。こうした大古墳が築かれるところには多数の氏族が関わっているということだろう。
 高崎市には100メートル級の古墳が比較的続けて作られるが、ここの神社も様々だ。ただ榛名地区には諏訪神社と榛名神社が多い。
 諏訪神社は大国主の子である建(たけ)御名(みな)方(かた)が祭神だ。神話では、建御名方は大国主の国譲りのとき承服せずに天照大神軍と戦って信濃へ逃げて行ったとされる。『先代旧事本紀』によれば彼の母は越の奴奈(ぬな)川姫(かわひめ)だ。越後国一宮の居多(こた)神社には大国主・奴奈川姫・建御名方・事代主(ことしろぬし)が祭られている。新潟地方の奴奈川姫の地元の神社では建御名方は大国主と奴奈川姫の子だという伝承が多いので、彼は初めから信濃地域の神だったのかもしれない。長野の諏訪大社の上社の大祝(おおほうり)は神氏(みわともじんとも言う)、下社は神八井耳の後裔の金刺氏だ。神氏の出自については金刺氏の支族とする説と大和の大神(おおみわ)神社の大神氏系とする説が主なもののようだが、ここは大和の大神氏系とするのが妥当ではないか。金刺氏系だとすると支族が上社で本流が下社なのが不自然だ。諏訪大社は蛇を信仰するなど大和の大神神社と共通点も多い。関東には諏訪社は非常に多くある。榛名神社は火と土の神を祭っている。
 前橋市は赤城神社が多い。祭神は大己貴と豊城入彦(とよきいりひこ)だ。飯玉(いいだま)神社も多く、ここは保食神(うけもちのかみ)(穀物神)と大国主だ。藤岡市にも飯玉神社が多い。
 栃木県で100メートル級の古墳は、足利市に4世紀のものが1基あって、あとは5世紀後半に小山市にできる。しかし数は少ない。神社も特徴的な集合はなく、栃木県には大己貴をはじめ様々な神がいる。

2―4―2 埼玉県
 埼玉県では、銘入り鉄剣で有名な行田市の稲荷山古墳が5世紀の中頃に作られるのを皮切りに、次々に大型古墳ができる。行田市だけで100メートル級が6基、50メートル級が7基ある。本庄地域には50メートル級が4基、東松山市と久喜市に100メートル級が各1基ある。埼玉の中心は獲加多支鹵(わかたける)大王(おおきみ)の行田市にある。
 神社を見るとこれも非常に特徴的で、荒川流域には氷川神社がある。氷川神社が多い市は、八潮 ・川口・朝霞(あさか)・志木・ふじみ野・さいたま市大宮区/西区/南区/見沼区・上尾・桶川・鴻巣、川島町・吉見町と広範囲だ。氷川神社の祭神は須佐之男だ。氷川は斐伊川ではないか。斐伊川は出雲の源と言われる場所だから祭神は本来大国主であるはずだ。そうでないのはこれらが実際に大己貴が活躍した時代からのものではなくて新しい、つまり雄略一統が関東に進出した5世紀頃にできたからだと推測する。関東の他の地域には大国主の名が多く残っている。大国主の事績について主人公を須佐之男に替えて語る後代の傾向が現れていると思う。
 これに対して県の東側には香取神社がある。三郷(みさと)・越谷(こしがや)・春日部(かすかべ)・幸手(さって)・久喜に多い。総本社の香取神宮は千葉県にあって大国主に国譲りを迫った神である経津主(ふつぬし)が祭られている。経津主は『出雲風土記』にも登場し、そこには若経津主の名も出るので、もとは出雲の神だと思う。香取市に5世紀中頃に123メートルの三ノ分目古墳ができる。これは利根川下流域最大で、下海上(しもつうなかみ)氏の首長の墓だという。経津主は香取神社が海上氏の勢力内にあったときに祭られたと思う。

2―4―3 千葉県
 上総・安房について見る。
 飯富氏の本貫は上総国飯富の庄(千葉県袖ヶ浦市飯富)だという。神八井耳が創建したという飽富(あきとみ)神社(旧称は飯富神社)がある。しかし、祭神は大和の多氏の本貫の神社とは違って椎根津彦ではなく、倉稲魂(うかのみたま、もしくは、くらいねたま)だ。
 飽富神社から南西に3キロメートルほどの小櫃川(おひつがわ)の対岸に、5世紀前半に作られた140メートルを越す高柳銚子塚古墳がある(木更津市)。小櫃川流域にはその後も大きい古墳が作られ続ける。これらは祇園・長須賀古墳群と呼ばれ、馬来田国造(うまくたのくにのみやつこ)の造営だという。馬来田は大伴氏だ。飽富神社から反対方向に10キロメートルほどのところには姉崎古墳群(市原市)がある。養老川沿いのこの古墳群は海上(うなかみの)国造(くにのみやつこ)一族の墓らしい。袖ヶ浦は多氏の本貫とは言いながら、多氏系の大きな古墳は作られていない。
 馬来田国は今の袖ヶ浦市・木更津市のほとんどと君津市・鴨川市の一部を含む。『先代旧事本紀』によれば、天津彦根の子孫で茨城国造の祖、建許呂(たけころ)の子の深河意弥(ふかかわおみ)が成務朝に初代国造になった。馬来田国は旧望陀(もうだ)郡で、ここは望陀布(麻布)を調とした。天津彦根も麻布も忌部氏と関連が深い(次の3項を参照)。忌部氏は阿波から安房にやってきたという。そして同じ成務朝に大伴大瀧が阿波国造になったと『先代旧事本紀』は言う。大瀧は天穂比の子孫、美都侶伎(みつろき)の孫だという。
 大伴氏は5世紀の雄略朝で室屋が大連となって隆盛を迎える。軍事氏族として朝鮮半島侵攻に加わり力を伸ばした。それが祇園・長須賀古墳群の造営につながったと考えられる。千葉にも初めは出雲系氏族がいたが、後に台頭した大伴氏などによって排斥されたようだ。
 印波国(いんばのくに)は成田・佐倉・八街(やちまた)・四街道(よつかいどう)・印西(いんざい)市などを含む地域だが、『先代旧事本紀』に神八井耳八世の孫、伊都許利(いつこり)が応神朝に国造になったとある。『異本阿蘇氏系図』では伊都許利は建借馬の孫になっている。印波国造が奉斎するのは麻賀多神社で、祭神は和久産日(わくむすひ)、総本山は成田市にある。倭建時代の創建だという。
 千葉県は川ごとに地域の首長がいたようだ。小糸川流域にも5世紀以降多くの古墳ができる。その代表である内裏塚古墳群で最初に作られたのが5世紀中頃の内裏塚古墳(144㍍)だが、出土した胡籙(ころくともやなぐいとも言う/矢を入れる道具)の形から韓国の釜山―月岡古墳(福岡県うきは市)―内裏塚古墳(富津市)というつながりがあることがわかった。内裏塚古墳群は須恵国造一族の墓だという説があるが、大規模な古墳が同時期に存在するので複数の首長がいた可能性もあるようだ。福岡県宗像市の隣は福津市で、千葉の富津は福津の海洋族が名づけたと思われる。
 千葉県では3世紀頃から北部九州とのつながりはあったが、大きな古墳ができるのは5世紀中頃から6世紀にかけてだ。筑後川流域の人々とのつながりがあるので、やはりこれも雄略天皇の活動に関係がありそうだ(7章6―4、5参照)
 安房地方では長狭国造が多氏だという。『記』では、神八井耳がその祖だとし、『異本阿蘇氏系図』では建借馬の子が成務朝に初代長狭国造になったという。
 安房国一宮は安房神社(館山市)だ。ここの祭神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)だ。彼は『記』『紀』では邇邇芸の伴として天下る。忌部氏の祖だ。社伝によれば阿波から天太玉命の孫の天富命(あめのとみのみこと)が移ってきて、ここに麻・楮(こうぞ)を植えた。安房神社の周辺には忌部氏関連の他の神社も多い。安房はアワビの産地でこれで利を得たようだ。安房神社は神領を持ち、国造制廃止後も安房国造が祭祀を担ったという。天太玉が率いた神の一人、天日鷲(あめのひわし)も麻を植えた人で、これを祭る大鷲神社は市原市や栄町にもある。

 ここまで見てきた関東の氏族の祖の分布をまとめると、大国主系が圧倒的に多いのがわかる。それに並んで多氏系が多く、伝承から関東からさらに北へ遠征したこともうかがえる。倭建伝承は太平洋側に多い。5世紀には東山道経由で近畿勢が入り、雄略系が東京湾から入った。これに伴って大伴氏などの新興勢力が入り、千葉県の古い多氏は駆逐されたようだ。

2―5 大国主・出雲族と多氏

 大国主と多氏の関係はどのようなものだったのか。
 まず、神武の子の名から、東征に向かったのは大国主だったと推測した。このとき水先案内をしたのが多氏の祖、瀬戸内海に伝承が残る椎根津彦だった。
 椎根津彦=水知津彦は若狭から由良川経由で神戸の垂水に出る道も由良川から安曇川、琵琶湖への道も知っていただろう。近江とは琵琶湖のことだが、この名前ももとは青海だったとも考えられる。琵琶湖に〈近い江〉という字を当て、駿河湾のことを〈遠い江〉というのは出雲から見た距離感だ。もし、大和から見れば両者は近い遠いというよりも方角の違いの方が先に立つだろう。出雲人が近い海と言ったので青海が近江となったのではないか。名付け親になるほど昔から出雲人は各地へ出かけていた。関東の氏族の祖がほとんど出雲族なのがそれを裏付けている。
 大和の多集落は弥生の中期、200BC頃からある。大国主の越地方への進出は、彼が八千矛(やちほこ)の神として語られているところから、出雲地方が中細型銅剣を祭祀具として使っていた頃のことと推測した。これは100BC~AD100頃(一説1~100年頃)のことだ。多氏は出雲族に従って信濃遠征にも出かけ、そこで諏訪神社に関係を持った。出雲族は越を征服したので、丹後は除くとしても山陰から北陸の広大な地域を支配するようになった。その端的な表れが200年頃に出雲に建設される最大の四隅突出墳だ。大国主神話では、越から大和に上ったという表現があるので、100~200年頃に大国主の東征があったのではないかと考える。大国主の話が『古事記』に多いのは、それが出雲族と共に旅をした多氏の物語でもあるからだ。
 そして、この神武譚がもとは大国主のものだとすれば、神話の後の後継者争いの話にも筋が通る。大国主の出雲系の後継者は多芸志耳(たぎしみみ)だ。多芸志の小浜は現在の出雲大社の南の地だ。そして神沼河耳(かむぬなかわみみ)は越系、神八井耳は多臣(おおのおみ)の祖だ。後二者は共同で征服者である大国主系を滅ぼした。その争いは大国主の息子の代の話だから、大国主は国譲りのときに息子に相談するのだ。国譲りの場所が多芸志の浜なのも、殺されたのが多芸志耳だからだ。そして長く出雲族とともに旅をした多氏は多芸志耳を殺すのに忍びなく、畏れ多くもあったのだろう。それでその魂を鎮める役を自ら務めることにしたと記述したのだと思う。しかし資料を調べると多氏が祭りを仕切る氏族だったようには見えない。祭祀をつかさどったのは時代が下って、多氏一派の中臣氏になってからだ。
 1章でなぜ出雲は特別なのかの問いに、銅鐸祭祀、治水工事、疫病封じといった大国主の事業を挙げたが、出雲族が関わった地域の広さも実際大きかったのだ。西日本だけでなく関東も、彼らが開発した跡が見える。交易も、中国、洛陽付近産の朱が西谷墳墓群から出土した例からわかるように広大だった。「大国主には皆が従う」と歴史書に書かれたのは文字通り当時日本の王は出雲の大国主だったからなのだ。
 しかし、上に述べたような事件でいわば配下に出雲は滅ぼされる。その後倭の国は混乱に陥っただろう。それがいわゆる『魏志倭人伝』に言う倭国騒乱の始まりだろうと思う。神武(大国主)の跡を継いだのは沼河耳で越の人だが、その後を越系が継いではいない。その代わりに当時大和地域で力を持っていたと思われる豪族たちが欠史八代として歴史に登場してくるのだ。強大な出雲を倒したものの、これを継ぐべき首長は定まっていなかった。だから倭国騒乱は200年から260年頃のことだと私は考える。

2―6 九州の海洋族から金属生産氏族へ

 多氏の始まりは長崎県の杵島(きしま)郡だろうと推測した。その理由の一つは建借馬命(たけかしまのみこと)だ。彼が杵島出身なのは『常陸国風土記』に彼が肥前「杵島に伝わる唱曲を歌い舞った」とあることでわかる。『肥前国風土記逸文』にもその唱曲に類するものが残っている。建借馬は豊城入彦の命で来たと水戸市の大井神社社伝に言う。これは大国主時代に比べればかなり後代のことだ。しかし多氏は九州の氏族と同祖なので、やはり彼らはもとは有明海周辺の海洋族だった可能性が高いと思える。椎根津彦は安曇氏の一派だったかもしれない。
 北部九州の海洋族は若狭湾に行っている。多氏もその流れで丹後氏族とのかかわりを持ったと思う。阿蘇の人々はさらに長野や山梨にも行った。これらの地域には蹴裂(けさく)伝説がある。神が岩や山を蹴破って水を通したというもので、開墾の歴史が語られている。ここに登場するのが阿蘇の神、健磐龍(たけいわたつ)だ。中国山地にも伝説がある。信州には健磐龍とともに安曇の名も残る。そして多氏も諏訪神社の大祝として後裔を残す。大和に多神社を作った頃は多氏の祖は椎根津彦だった。しかし、多氏は出雲の大国主に国譲りをさせた天孫系に主を変えた。そして、関東に進出する頃から性質を変えていったように見える。
 伊勢に多氏系の船木直がいると述べた。多氏は伊勢湾から出発して静岡県磐田市に於保(おほ)・飯宝(おほ)の名を残し(『和名抄』)、東京湾に来た。これは倭建の東征のときだと思う。このときはまだ海洋族だ。だが、上総国に飽富神社を建てたときには多氏の祭神は倉稲魂になっていた。倉稲魂は宇迦之御魂(うかのみたま)とも言い、またの名を豊受神(とようけのかみ)とも言う。豊受神は豊穣の神で、伊勢神宮に天照大神と共に祭られているが、丹後の籠神社の神でもあり、籠神社は元伊勢と呼ばれる。丹後の影響を受けたものと思える。
 もともと海洋族は物作りと縁が深いが、伊勢から尾張に入った頃から、尾張氏との関係で金属製作集団としての多氏が発展するのではないか。多氏が後発の金属製作集団で古い伝統を持っていないだろうと考える理由は、『記』と『古語拾遺』の天岩戸シーンでの鏡を作る描写による。『記』は、「天の金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅(かぬちあまつまら)を求(ま)ぎて……」と記す。これは鉄を鍛金によって加工する過程を表している。初期の鉄製品は鉄の板を輸入して鍛金で品物にするものだった。鍛人とはその工人だ。しかし鏡は銅で鋳造するものだ。『古語拾遺』は「天香久山の銅を取りて太陽の像を鋳させ……」と正しく記している。忌部氏の方が鏡作りとしては古い家柄だということを示している。多氏は青銅器時代には金属生産氏族ではなかったが、尾張氏との関係を深める中でそうした性格を強めたのではないかと思える。

2―7 鹿島・香取神宮

 鹿島神宮の祭神は物部氏の武甕槌(たけみかつち)だが、香取神宮の祭神は経津主だ。〈カシマ〉はもとは〈キシマ〉だろうと思うし、経津主は出雲地域に伝承のある古い神だ。『常陸国風土記』でも経津主伝承はあるが武甕槌はない。『紀』で、大国主を降伏させるために経津主を差し向けようとすると、武甕槌が横から私も適任者だと主張して経津主に同行することになる話がある。明らかに武甕槌は後発だ。
 鹿島神宮の社殿のつくりは出雲大社に似ている。出雲では社殿内部に心御柱(しんのみはしら)があり、そこで祭祀が行われる。鹿島には心御柱はないが神を拝む殿内の場所が出雲大社と同じ位置にある。伊勢神宮では社殿は神のすみかなので祭祀は庭で行われる。出雲が丹塗りなのに対し伊勢は白木だ。両者は神に対する考え方がまったく違う。伊勢神宮の社殿の床下には、床を支える必要のない柱が立っている。私はこの柱は元の心御柱で、天照大神が出雲の神の上に君臨することを象徴したものではないかと思っている。
 しかし鹿島は出雲時代の神の形を残している。もとは出雲族そして、天照大神族の中に生き残った出雲族である多氏が奉じたのが鹿島・香取神宮だと思う。『記』には経津主は登場せず、経津主と武甕槌は同じだと言う。これは多氏が出雲族(経津主)から天孫族(武甕槌)に主を変えたことの表れではないか。物部氏は5世紀以降力をつけ、神話が書かれた頃には鹿島神を経津主から自分たちの神である武甕槌に変えたのだと考える。
 多氏にゆかりの深い鹿島神宮は中臣氏とつながり、中臣氏と忌部氏は朝廷の二大神祇官だった。中臣は言うまでもなく後の藤原氏で、歴史的に重要な氏族だ。この二氏族を見る。