青の一族

第6章 青の一族と多氏


5 紀氏


5-1 和歌山市の古墳と紀氏内のグル-プ5-2 紀氏の活動5-3 紀氏と大伴氏


 多氏の項で椎根津彦・宇豆比古にふれたので、その関連で紀氏について述べる。

5―1 和歌山市の古墳と紀氏内のグループ

 和歌山県御坊市には日本最古の溶炉遺跡があることは述べた。銅鐸は和歌山県の31箇所から41点出土している。滋賀県と同数で全国で4番目に多い。弥生中期の太田黒遺跡(和歌山市)からは韓国を含む広い地域の土器が出土した。和歌山の人々は古くから金属関連の渡来人と関わりがあり、広い地域との交流を持っていた。
『孝元記』に木国造の宇豆比古の妹の山下影媛と比古布都(ひこふつ)押信(おしのまこと)が結婚して竹内宿禰が生まれたとある。宇豆比古は神武の水先案内をした椎根津彦と同じという。氏族間の伝承を見る限り両者が同一とは思えないが、紀伊半島には北部九州や丹後・若狭地域と同じ地名が併存するし、後述するように丹後や玉造りと紀伊に関連ができて、後に習合したと考えられる。
 紀氏は和歌山市が根拠地の豪族だ。和歌山市には紀伊国一宮の日前・國懸(くにかかす)神宮がある。日前神宮の祭神は日前大神で天照大神の別名だという。神体は日像鏡(ひかたのかがみ)だ。思兼命(おもいかねのみこと)と石凝姥命(いしこりどめのみこと)(鏡作連の祖)も祭られている。國懸神宮は國懸大神を祭り、神体は日矛鏡で、玉祖命(たまのおやのみこと)(玉造部氏の祖)と明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)(神功皇后の祖)が祭られている。この二つの鏡は天照大神の八咫鏡と同じものだといい、社伝にはこれらの鏡を作ったときの逸話が伝えられている。天照大神の鏡と同等を主張するのだから、大国主のように天孫族より古い氏族だとわかる。この両神宮を奉斎するのが紀伊国造家と言われる。この氏族は天道根命(あめのみちねのみこと)の嫡流を主張する。天道根は『先代旧事本紀』にある饒速日とともに来た32神の一人だが、『姓氏録』によれば火明命の後裔だ。紀伊国造家は由緒のある氏族で、国造制度が廃止された後に国造が許されたのは出雲とここだけだったという。

 神宮の周りにはかつて秋月古墳群があった【図40】。これが国造家の墓所と言われる。今は墳丘は残っていないが、1号墳は古墳時代前期の前方後円墳で、その他は前期から中期は方墳、後期は円墳になる(3世紀後半~5世紀初頭)。秋月遺跡と、紀の川対岸の鳴滝遺跡・楠見遺跡から出土した土器は韓国、釜山の東を流れる洛東江流域に多数出土するもので、日本では他は池島遺跡(東大阪市・八尾市)からしか出土がないという。池島遺跡は3章2項で述べた庄内期に吉備型甕が多く出る旧大和川沿いの集落のひとつだが、縄文から近代まで続く遺跡だ。古墳時代には滑石製品を作る玉造りの工房があった。窯跡も多く残っているという。秋月遺跡前期の方墳や池島遺跡の玉造りなど、紀伊国造家は丹後との関連がありそうだ。天御影神の本拠地は野洲市三上というから近江との関連もあった。
図40 紀氏の本拠地 (『和歌山の歴史』から)
紀氏の本拠地
 紀氏の中にもいくつかのグループがあって栄える時期が違うが、紀氏でいちばん大きな集団は600基を数える岩橋千塚(いわせせんづか)古墳群で、安定して古墳を作り続ける。秋月に続く最初の前方後円墳は4世紀後半の花山8号墳。割竹式木棺・粘土槨だ。続く花山10号・井辺前山(いんべまえやま)24号墳は九州の形の柄鏡形だ。紀北には5郡、名草・伊都・那賀・有田・海部があるが、まるで北部九州そのままの名前だ。もっとも紀氏の中心は名草郡だが。
 5世紀は紀ノ川北岸のグループが隆盛になる。まず鳴滝遺跡の大型倉庫群跡がある。5世紀前半のもので物資の貯蔵施設だったようだ。大阪市にも同時期に同様の倉庫群がある法円坂遺跡がある。今の大阪城に近い地域にあるが、この北に難波の堀江があったという。これは仁徳が掘らせた人工河だ。紀氏のこのグループは仁徳天皇との関係がありそうだ。
 木ノ本遺跡は独特の技法の淡輪式埴輪で知られ、和泉の西陵(さいりょう)古墳(5世紀前半)や国東半島の真(ま)玉大塚(たまおおつか)古墳(5世紀後半)にこの埴輪がある。淡輪埴輪は三重や静岡にも多数分布しているという。この勢力が後に平群谷に移動したらしい。 
 5世紀後半の車駕之古址(しゃかのこし)古墳(86㍍)からは朝鮮製金勾玉が、大谷(おおたに)古墳(67㍍)からは阿蘇溶結凝灰岩の組合式家形石棺が出ている。 
 6世紀代、岩橋千塚では、大日山(だいにちやま)35号墳(86㍍6世紀前半)・天王塚古墳(88㍍6世紀中頃)・井辺八幡山(いんべはちまんやま)古墳(70㍍6世紀中頃)・将軍塚古墳(42㍍6世紀後半)と大型古墳が続けて作られる。このうち大日山は埴輪の一部に今城塚との共通性が指摘されている。この岩橋千塚勢力の中心は紀直(きのあたい)氏だった。
 紀南には日高・牟婁の二郡があり、有田川から南の沿岸地域には、由良町・美浜町・印南町・吉備町と若狭や瀬戸内の地名が並ぶ。日高川の河口には出雲と同じ日ノ御碕もある。しかしこれらの地域には目立った古墳はない。わずかに南部のすさみ町と那智勝浦町に上ミ山古墳(40㍍後期箱式石棺)と下里古墳(40㍍柄鏡形二重口縁壺4世紀末)がある。
 また和歌山県には大伴氏も多く住んでいたらしい。倭建の東征に従った大伴武日(おおとものたけひ)(『紀』)の墓が和歌山市にあるという伝説がある。その墓は大伴狭手彦の子孫の領地の中にあるという。和歌山県のそのほかの地域にも大伴氏の流れをくむ氏族が多く住むという。

5―2 紀氏の活動

 紀の川北岸グループは仁徳と行動をともにしていたが、南岸の岩橋の人々は雄略と組んだようだ。雄略の活動時期が5世紀後半で、大きな古墳がここに次々に作られるのが6世紀頃からだからだ。また紀氏は洛東江流域になじみがある。朝鮮、慶尚北道の慶州は古くからの鉄生産地なのでその関連で日本の氏族がここに集まったことはあるだろうが、倭軍による慶州攻撃が激しくなるのは5世紀だ。その中心になったのが紀氏ではないか。
 しかし、彼らは天皇の指示だけで動いていたようには見えない。『雄略紀』に、天皇の命で紀小弓(きのおゆみ)・大伴談(おおとものかたり)・小鹿火宿禰(おかひのすくね)・蘇我韓子宿禰(そがのからこのすくね)が新羅征討に向かったと記されるが、小弓が病気で死ぬとその息子の大磐宿禰(おいわのすくね)はすぐに新羅に行って権勢を占有したという記述がある。天皇の命があったとは書いてない。彼は自分の利益のために自分で判断してそうしているのだ。『顕宗紀』には、「紀の生磐(おいわ)(=大磐)宿禰は三韓の王となろうとして官府を整え自ら聖王と名乗った」とある。  
 紀氏は古い家柄だと述べたが、独自に朝鮮半島とのつながりを持っていた紀氏は我こそが王という感覚を持っていたかもしれない。大磐の進撃は目覚ましいものだったらしいが、結局三韓の王にはなれずに帰国したようだ。 

5―3 紀氏と大伴氏

 雄略の命で新羅征討に向かった大伴談はそこで戦死する。談は雄略朝で大連となった大伴室屋(むろや)の息子だとする説がある。この室屋が実在性の高い最初の大伴氏らしい。談の息子が武烈朝の大連の金村で(室屋の子という説がある)、その息子は狭手彦だ。狭手彦は欽明朝に朝鮮半島侵攻で大きな戦果を挙げたと歴史に言う。 
 大伴氏の祖は神武天皇の道案内をしたという日臣命だ。彼は日臣だったが道案内をしたので道臣と名を変える。大伴氏は日を大切にしていたことがうかがえる。また案内をしたのは紀の川流域から大和に至る道で、紀伊が地元のようにも見える。『景行紀』に大伴武日が倭建の東征に従ったとあり、彼の墓は和歌山市にあるという伝説がある。大伴氏の本拠地は摂津・住吉・難波・高石などと言われるが、どこも海辺で、海洋族とも考えられる。和歌山市だけでなく和歌山県下には大伴氏の流れをくむ氏族が多く住むという。こう見てくると、紀氏と大伴氏は重なるところが多い。
 室屋は允恭天皇時代に歴史に現れる。大伴氏は軍事氏族で近衛兵のようなものだと言われる。経緯はわからないが允恭に重用されたのだろう。『紀』の「天皇はことのほか道臣をかわいがった」とは、允恭・雄略時代のことを言うのだろう。
 だが、紀氏と大伴氏は同族とは言われない。『記』に神武の道案内として現れるのは八咫烏で日臣は登場しない。大阪府南河内郡南町記は、その地が大伴氏の源郷だという。つまり大伴氏の出身地は紀伊半島ではないし、伴造(とものみやつこ)の性格上土地に根差した豪族ではない。大伴氏と紀氏は雄略朝での軍事活動で一緒になることが多く、天皇の側近であることから当時大伴氏のほうが紀氏より力があった。そこで大伴氏は、氏族の歴史を記す段になって紀氏のものを借りたのではないかと思う。

 ここまで青の一族、多氏、それに関連する出雲族や忌部氏・中臣氏・紀氏などについて見てきた。多氏、紀氏が古い歴史を持つ氏族だということ、後に彼らが中臣氏、大伴氏の登場によって中心的役割から退いた歴史の輪郭が見えたと思う。
 天皇については仁徳まで述べた。ここからはまた古墳や文献などの手掛かりを追いながらそれ以降の天皇について検討し、『記』『紀』誕生の道筋を考えてみる。