青の一族

第7章 5世紀後半から6世紀にかけて


8 顕宗・仁賢・武烈天皇


8-1 仁賢天皇8-2 顕宗天皇8-3 武烈天皇


『記』『紀』は、清寧に子がなかったので、播磨に隠れ住んでいた市辺之忍歯王の息子二人を発見し、大和に連れて来て天皇にしたという。この二人は天皇系譜の中でどういう位置づけになるだろう。
 6世紀の前半には200メートルを越す古墳がまったくなくなる。4世紀後半から5世紀代に多くの古墳を作った佐紀・百舌鳥地域ではぱったり途絶え、馬見でもかなり縮小して少数小規模になる。王統は途絶えて新体制も確立されない状態だったと見える。
 仁賢・顕宗の二人の皇子子の説話は貴種流離譚の一種だ。それは、身分が高い赤子が捨てられるなどして苦難の流浪の旅の末に王位に就くという物語だ。ローマの建国神話のロムルスとレムスの双子の兄弟の話が特に有名だが、英雄譚には必ずこの要素があるとも言われる。この話を受難の後に地位を回復した市辺之忍歯王の子に当てはめたのだろう。隠れ住んでいた皇子を皇位につけるという意味ではこの物語は事実だったと思える。 

8―1 仁賢天皇

 仁賢は『記』では意富祁王(おおけのおおきみ)だが、オオケが何のことなのかわからない。『紀』には、億計王(おけのみこ)・島稚子(しまのわくご)・大石尊(おおしのみこと)と名前が並ぶがどれも何をさすかはっきりしない。〈シマ〉の名から志摩も連想されるが、それらしい伝承も見当たらない。二皇子の伝承は播磨にある。
 神戸市西区にある顕宗仁賢神社と明石市にある王子神社が二皇子を祭っている。小野市の近津神社は仁賢朝の創建と伝わる。これらの地域は履中天皇にゆかりが深く、かくまわれた皇子が実在したのは史実ではないかと思う。しかし私は、仁賢は大和には来なかったと考える。大和には彼に関係する伝承がなく播磨にあるのみだからだ。
 高屋築山古墳・白髪山墳・ボケ山古墳はそれぞれ安閑・清寧・仁賢天皇陵に治定されているが、これらは軽里大塚古墳を取り巻くような位置にある。7章3―2項で加古川流域の大日下勢力について述べたが、私は仁賢はその後継者だと思う。二皇子と一緒に逃げたのは日下部連使主(くさかべのむらじおみ)と、その息子の吾田彦(あたひこ)だ。仁賢は加古川流域の物部氏に擁立された天皇だったのではないか。それを企画したのは、播磨にいた青の一族と物部氏だ。仁賢と顕宗が兄弟というのも疑わしく、播磨にいたのは仁賢だけだったのではないか。または顕宗は彼の兄弟ではなく別の人物だったか。
 ボケ山古墳は青山地区にあって履中ゆかりの皇子の墓としてふさわしい。これが仁賢陵だというのは妥当だ。
 岡ミサンザイが雄略の墓ならそのそばに清寧陵があるのは自然なので白髪山古墳が清寧陵だろう。高屋築山古墳は6世紀初頭と前半築造の二説がある。前半まで時代が下るなら安閑天皇陵でもいいと思う。安閑は継体の息子だが、在位2年で没しているので(『紀』)、同時期の墓の造営があってもおかしくない。

8―2 顕宗天皇

 顕宗には久米稚子(くめのわくご)という名がある。二皇子を見つけたのは『紀』では山辺連小楯だが、顕宗仁賢神社の伝では伊予の久米部の小楯が見つけたとある。顕宗は久米氏が後ろ盾だった可能性が高いと思う。大和明日香村の八釣に顕宗神社があり、ここが顕宗の宮跡だという。久米氏の本拠地にも近い。しかし『紀』の記述では近つ飛鳥の八釣宮となっている。近つ飛鳥とは大阪府南河内郡太子町のことだ。だが、太子町には〈やつり〉という地名はない。顕宗天皇陵は太子町の東の香芝市にある。
 ところが、和歌山県にも久米の若子が住んでいたという〈美穂の石室(いわや)〉の伝説がある。日ノ御崎のある美浜町がその地だ。すぐ南には、弥生前期唯一の鋳造炉跡が出た堅田(かたた)遺跡のある御坊(ごぼう)市がある。久米・青銅器・日ノ御崎と並べれば大国主が思い起こされる。また、御坊市周辺には若狭湾と同じ、由良・美穂・美浜の地名があって、印南町もあり、やはり青の一族とのゆかりの深さもうかがえる。
 しかし、こちらの後ろ盾は久米氏で、紀伊国となれば大伴氏が思い出される。久米氏はこの頃は大伴氏の配下だ。とすれば、顕宗を天皇位につけようと画策したのは大伴氏だと考えられる。
 仁賢・顕宗はそれぞれ物部氏と大伴氏の覇権争いの構図と言えるのではないか。雄略没後、土地に根差した豪族たちが力を失う中で、伴造系の二大氏族が権力争いの中心になったことがこの時期を象徴しているように思う。
 大伴氏と久米氏の関係は、645年の大化の改新で有名な中臣鎌足に至る系図に見られる。
(久米氏の系図は『姓氏類別大観』)
系図

8―3 武烈天皇

 武烈の諱は小長谷若雀(おはつせのわかさざき)。仁賢の子となっているがハツセの名があるので允恭―雄略系と思われる。
 大伴金村は大臣の平群真鳥(へぐりのまとり)・鮪(しび)親子を征討して武烈天皇を位につけたとされる。平群氏が台頭するのは6世紀中期より後のことなので、この事件自体が架空だという説がある。ただ、ここで言う〈平群氏〉が仁徳側、つまり物部氏系なのに対し大伴氏が雄略系の天皇を立てようとしたことに違いはないと思う。 
 武烈はまもなく子もなく死んで、不名誉なことに歴史には性質が悪逆非道だったと記される。陵は顕宗天皇陵のすぐ北にある。金村はすぐにまた別の天皇の擁立を考える。