青の一族

第7章 5世紀後半から6世紀にかけて


7 5世紀後半から6世紀前半の各地の古墳


7-1 九州7-2 関東7-3 中部・近畿


 5世紀後半の大古墳については検討した。もう一つ残っているのが古市古墳群の岡ミサンザイ古墳(245㍍藤井寺市)だ。これは仲哀天皇陵に治定されているが、年代が合わないことや、この時期他に類を見ない規模の大きさからして、これを5世紀末に没したとされる雄略天皇陵と見る説がある。その蓋然性は高いと思う。この古墳は葺石がなく横穴式石室を導入しており新しい形式になっている。陪塚もほぼなく、雄略の性格に合っているように思える。
 6世紀になると大型古墳はずっと少なくなるが、その中で5世紀後半から6世紀前半にかけて継続して中規模の古墳を作り続ける集団がある。それらを作ったのはどういう氏族だったのかを見ていき、雄略後の政権のありかたを考える。

7―1 九州

 朝倉市・うきは市・久留米市に50~90メートル級の古墳がある。
 まず5世紀中頃にうきは市に月岡古墳(80㍍)が、続いて塚堂古墳(80㍍)ができる。塚堂古墳から出土の馬具の文様は晋(265―316)で盛行したものに近く、東晋から百済に入っていたらしい。月岡・塚堂古墳からは韓国釜山市の福泉洞22号墳のものと同じ胡籙も出ている。6世紀前半には装飾古墳として有名な日岡(ひのおか)古墳(80㍍)・法正寺(ほうしょうじ)古墳(105㍍)・屋次郎丸(やじろうまる)古墳(60㍍)が作られる。うきは市はもとは生葉(いくは)郡であり、ここが的臣(いくはのおみ)の本拠地だと思われる。『仁徳紀』で武術の腕前を見せる的臣は軍事氏族、物部一族だと考えられる。
 朝倉市には5世紀中頃の堤当正寺(つつみとうしょうじ)古墳(70㍍)・小田茶臼塚古墳(54㍍)がある。朝倉郡筑前町に小隈(こぐま)・山隈(やまぐま)・八並(やつなみ)の窯跡がある。4章5―5―3項で述べた大阪の陶邑と変わらない時期に操業を始めたと見られる初期須恵器の窯跡だ。ここでは初めは陶邑とは違う須恵器を作っていたが間もなく陶邑系に変わったようだ。
 久留米市には5世紀後半に御塚(おんつか)古墳(76㍍帆立貝形)・浦山古墳(60㍍)、末に日輪寺(にちりんじ)古墳(50㍍帆立貝形)、6世紀前半に権現塚(ごんげんづか)古墳(51㍍円墳)ができる。これらの古墳群は水沼君(みぬまのきみ)の墓所と言われる。帆立貝形は海洋族が想定される。ここが雄略の対宋交易の港だったようだ。『雄略紀』に、雄略の命で青や博徳が呉に遣わされ、その帰りに水沼君と関わる話が出る。水沼君の本拠地は久留米市でも最西端の三瀦町(みづままち)だと言われる。すぐ西には磐井の祖父の墓とされる石人山古墳がある。
 6世紀の前半に乱を起こしたと言われる磐井の経済力は、彼の先代たちが雄略の外交によって得たものが大きいという。筑後川流域は雄略の中国への通り道だったと言えそうだ。
 九州北部では行橋市・糸島市・福岡市・北九州市などで古墳が継続していく。これは朝鮮半島への出航地として栄えたということだろう。
 八代市には6世紀代に物見櫓古墳(62㍍)・大塚古墳(55㍍)・中ノ城古墳102㍍)・姫ノ城古墳(80㍍)・端ノ城(はしのじょう)古墳(68㍍)・高取上の山古墳(77㍍)が作られる。これは古墳の石棺石材輸出で富を得た首長の墓群だろう。石棺を運ぶのは船だから海洋族の阿蘇氏も富を得たグループの一員だったろう。5世紀の始め頃には九州の海洋族が玄界灘勢に代わって有明海勢が多くを占めるようになるという。

7―2 関東

 4世紀末に群馬の西上毛野(にしかみつけの)を代表する浅間山(せんげんやま)古墳(171㍍高崎市)を作った勢力はその後、東上毛野に吸収されたように見えたが、高崎市には5世紀後半に立て続けに舟形石棺の古墳が作られる。平塚古墳(105㍍)・井戸二子山古墳(108㍍)・八幡塚古墳(102㍍)・薬師塚古墳(105㍍)だ。剣崎長瀞西(けんざきながとろにし)遺跡に5世紀中頃のかまど住居が認められ剣崎古墳群から伽耶や馬韓系遺物が出る。川崎市の海洋族は半島との新しい交流を持ったらしい。
 埼玉県行田市では稲荷山古墳が5世紀後半に作られてから、6世紀代に二子山古墳(128㍍)・丸墓古墳(105㍍)・鉄砲山古墳(109㍍)・真名板高山(まないたたかやま)古墳(104㍍)と続く。
 千葉県では小糸川南岸の富津(ふっつ)市に5世紀の中頃、内裏塚古墳(144㍍)ができる。この古墳から福岡の月岡・塚堂古墳出土の胡籙と同じものが出ている。内裏塚からは朝鮮半島製の鏑矢(かぶらや)や鉄製武器も出ている。この古墳を皮切りに5世紀後半に弁天山古墳(87㍍)・上野塚(うわのつか)古墳(44㍍)、6世紀に九条塚(くじょうづか)古墳(103㍍)・稲荷山古墳(106㍍)・三条塚古墳(122㍍)が続く。この地域は須恵国造(すえのくにのみやつこ)の支配地だという。

7―3 中部・近畿

 名古屋市の守山区には5世紀まで多くの古墳が築かれたことは3章6―2―2で述べた。しかし、6世紀前半には大須二子山古墳(100㍍中区)・断(だん)夫(ぷ)山(さん)古墳(151㍍熱田区)へと古墳の造営地は移る。 
 和歌山市には岩橋千塚が6世紀代に安定して古墳を作る。
 天理市には5世紀の中頃に西乗鞍古墳(118㍍)が、6世紀の初頭に御(み)墓山(はかやま)古墳(74㍍)が作られる。その後6世紀代に別所大塚古墳(125㍍)・ヒジリ古墳(43㍍)・東乗鞍古墳(75㍍)・石上大塚(いそのかみおおつか)古墳(107㍍)・ウワナリ古墳(110㍍)ができる。これらは物部氏の古墳と言われる。

 これら中規模の古墳群を見ると、ひとつ特徴的なのは雄略の政策の実働部隊が、雄略後もそのまま活動を続けているように見えることだ。筑後川流域と有明海への出口、それと関連した関東、房総の古墳群。紀伊半島はその道の中継点だ。上毛野の高崎市にも新しくそうした勢力が台頭している。もうひとつは物部氏系の窯業や鉄器の利益によると思える古墳群だ。
 中規模の古墳は作られたが、この時期は一般に全国的には古墳の空白期だ。雄略死後、強大な首長がいなくなり、それによる混乱で古墳が作られなかったと見られる。
 それでもいちばん大きい古墳はやはり畿内にある。それが継体天皇陵と言われる今城塚(いましろづか)古墳(190㍍高槻市)だ。それに続くのが上記の断夫山、次に天理市の別所大塚。次に、いずれも天皇陵に治定されている高屋築山(たかやつきやま)古墳(122㍍安閑陵)・白髪山(しらがやま)古墳(115㍍清寧陵)・ボケ山古墳(122㍍仁賢陵)が古市にある。もうひとつ、宇治市の五ヶ庄二子塚(ごかしょうふたごづか)古墳(112㍍)がある。
これらの古墳の被葬者が雄略の跡を継いだ実力者たちだろう。