青の一族

第8章 6世紀—豪族たちの抗争


2 6世紀前半の政治情勢


2-1 朝鮮半島の動向2-2 朝鮮半島の前方後円墳


2―1 朝鮮半島の動向

 5世紀には倭は多くのものを朝鮮半島から手に入れた。しかし6世紀の初頭には百済と新羅がそれぞれ力をつけてくる。その様子を見てみよう。
『三国史記』によれば、百済の武寧王が501年に即位する。この時期、百済は高句麗から攻められて都を本来の漢城(ソウル)から熊津(公州市)に移していた時代だが、武寧王は高句麗からの攻撃をたびたびしのぎ、512年には高句麗に壊滅的な打撃を与えたという。522年に梁に朝貢して「百済は高句麗を破るほど大きな国になった」と上表している。
『紀』は、百済が512年に倭から馬韓の四県を譲り受け、522年には己汶(こもん)と帯沙(たさ)の津も手に入れたとする。
 武寧王は462年に生まれた。これは武寧王陵から墓誌が出てはっきりしている。
『紀』に、日本の筑紫で生まれたが誕生後すぐに国に帰したという記述がある一方、41歳になるまで日本に留まりその後百済で即位したという説もある。正確に41歳のとき帰国したかどうかは別として、私は後者のほうがありそうだと思う。雄略が武寧王をかわいがる記述が『紀』にある。生まれてすぐに帰ったのではそれはあり得ない。武寧王陵出土の銅鏡は、倭の五王時代に中国南朝から倭に贈られたものと同じで、綿貫観音山(高崎市)・三上山麓古墳(野洲市)から同型の鏡が出ている。陵墓には日本産の高野槇が使われていた。副葬品は中国系のものが多く百済在地色のあるものは少ないという。高崎市には、それまでの上毛野の有力豪族ではなく5世紀以降急に伸長する海洋族と渡来人の痕跡がある。やはり、武寧王は雄略とつながりがあったと考えるのが妥当だ。
 523年には武寧王は没し聖名王が即位する。百済と新羅は婚姻で結んだり、共同して高句麗に対抗したり、また互いに戦ったりと関係は一定しない。百済は聖明王の時代も高句麗から攻められるなど戦争が多く、538年には都を熊津の少し南の泗沘(しひ)(扶余(ふよ))に移す。
 一方、高句麗は531年に王が戦死してから内紛が起こり、545年に王族の争いで王が死んでから弱体化する。この機に乗じて百済は漢城を奪還するが、552年には新羅に漢城を奪われてしまう。百済はこの頃倭に毎年援軍を要請している。554年には新羅との戦闘で聖明王が死ぬ。
 新羅は503年、智証王のときに新羅の国号を持つ。512年に法興王が即位して国家組織を整え台頭してくる。512年にはたぶん百済とともに初めて梁に朝貢する。532年、金官国が新羅に投降。この後、首露王を始祖とする王族は新羅の王族の一部になる。540年に真興王が即位し律令を頒布し官職を整備した。彼は領土を広げる。百済から漢城を奪った後、安羅も併呑する。562年には大伽耶に総攻撃をかけ征服する。
 この時期は高句麗の力が弱まり、代わって新羅が台頭してくるのがわかる。百済は朝鮮半島西南部を徐々に自分のものにしていくが、新羅・高句麗両軍と常に対峙するので倭からの援軍などで何とかしのいでいる。

2―2 朝鮮半島の前方後円墳

 馬韓地方には5世紀後半から6世紀前半にかけて十数基の前方後円墳が築かれる。これらは栄山江流域に多く、半島西側の黄海沿岸に固まっている。日本とまったく同形式の古墳ではなく作成法や形状は異なるものの、葺石や埴輪、木製品を使用するのは共通で、一部に九州系(周防灘沿岸・佐賀平野東部・遠賀川流域・室見川流域)横穴式石室が採用され、またある一部は有明海沿岸(菊池川流域)の古墳とほぼ同じ工法で、内壁にベンガラが塗られているという。副葬品は各地の文物が混在している。
 これらの古墳は在地の首長墓とは離れた位置に作られているという。また日本からの大量移住は認められない。この時期馬韓はまだ百済の支配下にはなく、馬韓独自の在地勢力の土地だったようだ。私は、倭人の将軍がこの地に遠征して、そこで没したときに作られたのが日本式の前方後円墳だと考える。そして、地理的な位置関係からしても古墳の工法からしても九州系の出張首長の墓と見るのが妥当だろう。これらの古墳の築造期間は80年ほどあるのだから将軍も代々世襲したかもしれない。
 福岡県福津市の奴山伏原遺跡は5~6世紀に営まれたが、オンドル住居があり出土の土器は馬韓・百済系が多い。
『紀』は、512年に百済が朝貢してきて、同時に任那の四県を割譲してほしいと上表し、これに穂積臣押山と大伴金村が賛成したと記す。大伴金村は継体天皇擁立派だった。『三国史記』ではその年は武寧王が高句麗に壊滅的打撃を与えたとしている。百済の力はむしろ北に向けられている。しかし、戦勝の機運に乗って南にも目を向けたと考えられないことはない。四県とは上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あるしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)で、押山は哆唎国の国守だった。この四県は、錦江流域の沘泗を含む論山市から全州市の東の丘陵地帯、完全州・錦山・鎮安郡とそれより南の南原市を挟んで求礼郡までという広大な地域だ。そして次の年には己汶(南原市)と滞沙(慶尚南道河東郡)も要求している。滞沙は津、つまり港で、これで南の海まで達したわけだ。このときの倭王は継体天皇だが、彼はこれらの要求をあっさり認めている。普通ではあり得ないだろう。私はこの上表自体があったかどうか疑わしいと思う。まず、押山が本当にこれほどの広域を領地化していたとは考えられない。しかしともかく朝鮮半島での自分の勢力を広げようとはしていた。この時代各地の首長はまだ独自に朝鮮半島攻略を進めていた。紀の大磐が三韓の王となろうとしたのはそう昔のことではない。しかしそうした状況でも、穂積・大伴によるこれらの地の占有の企ては他の氏族の大きな不安と反感を買ったと思われる。そして、そこには磐井の存在があった。
 馬韓の古墳の工法その他で有明の氏族、つまり磐井がこの地方での倭人の勢力拡張に介在した確度は高いと思われる。磐井が福岡の粕谷に領地を持っていたこと、乱の後に豊前の上膳県(豊前市)まで逃げたということ(つまりそこも自身の影響下に置いていたということ)、また磐井の墓である岩戸山古墳の特徴的な石の製作物の分布などから、この頃には北部九州一円を支配下におさめるほどの勢力を持っていたことがわかるという。福岡県みやこ町の扇八幡古墳(6世紀前半58㍍)は岩戸山と墳形がそっくりだという。
 磐井が北部九州から馬韓、そして朝鮮半島の南部の東半部分を支配下におさめる可能性が出てきたことは、そこに故地を持つ物部氏には特に大きな懸念となっただろう。