青の一族

第8章 6世紀—豪族たちの抗争


3 継体天皇と磐井


3-1 今城塚古墳とその関連の古墳3-3 『紀』の記述3-4 隅田八幡神社蔵人物像鏡


 527年の磐井の乱は、『紀』では新羅に攻められていた安羅に倭が救援を送ろうとしたところ磐井に阻止されたので、継体が物部に命じて磐井を討たせたことになっている。しかし、私は継体と磐井は連携していたと考えている。そう考える理由はいくつもある。まずは継体天皇陵でほぼ間違いないと言われる今城塚古墳について見てみよう。

3―1 今城塚古墳とその関連の古墳

 この古墳には今は崩れてしまったが横穴式石室があって、そこに三棺の家形石棺が収められていた。横穴式石室は百済系で九州の豪族がいち早くこの方式を取り入れて東に広まった。家形石棺はそれまでの長持形石棺に変わる新しいもので、今城塚のものが畿内の家形石棺の祖形となったという。三つの石棺はそれぞれ二上山白石・阿蘇ピンク石・加古川竜山石で作られている。白石は大和盆地南部勢力(巨勢・葛城・尾張氏)、阿蘇石は有明海勢力、竜山石は従来の王者の系譜を表し、継体がこれらの首長と連携していたことを示す。三つの石棺を支えるための古墳の基底部の工事は当時最新の技術によるものだという。横穴式石室や家形石棺、土木技術など新しいものを取り入れつつも、竜山石を使い、造り出しに多数の円筒埴輪や形象埴輪を配するなど従来の形式も踏襲している。今城塚は歴史の転換点の王にふさわしい古墳と言える。
 雄略は有明海から宋へ遣いを送っていた。磐井一族もその恩恵にあずかった。既に述べたように筑後川河口付近には雄略系の首長がいた。雄略の外交官だった江田船山古墳の主は石人・石馬を採用していた。磐井の本拠地八女市は水沼君の領地の東だ。磐井が雄略派であれば意富本杼王の曾孫の継体ともよしみがあってもおかしくない。雄略没後は有明海勢力が磐井の支配下にあったことは疑う余地がないと思われる。
 島根県益田市にある小丸山古墳は全長52メートル、6世紀初頭の築造で今城塚古墳・磐井の墓とされる岩戸山と相似形、また奈良県高市郡の市尾墓山(いちおはかやま)古墳と縮尺が一致するという。市尾墓山古墳は継体の大臣、許勢男人(こせのおひと)の墓だという伝承がある。こうしたことからも雄略と磐井には関連があったこと考えられる。
 単なる想像だが私は、磐井の墓に大量にある石人・石馬は秦の始皇帝の兵馬俑を模したものではないかと思う。磐井は大陸の話を聞く機会が多かっただろう。九州の北半分を支配するようになって彼は大帝王になることを夢見たのではないか。だから生前からこれらの製作物に執着し、始皇帝陵に似たものを作ったのではないだろうか。

3―2 継体の宮と馬飼い

『紀』で継体は四度遷都している。樟葉宮(くずはのみや)(枚方市楠葉丘(かずはおか))・筒城宮(つつきのみや)(京田辺市同志社大学敷地内)・弟国宮(おとくにのみや)(長岡京市北部)、そして即位して20年かかって大和の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)に来たという。
 四条畷(しじょうなわて)市の蔀屋北(しとみやきた)遺跡は、5世紀の栄山江流域を故地とする馬飼集団の集落だ。5世紀の前半に集落が形成され、最盛期は5世紀中頃から後半にあるという。そしてその馬を出荷するときの港が樟葉にあったという。筒城宮は蔀屋遺跡と樟葉の中間点に位置する。4世紀の津堂城山の主もそうだったが、馬を確保することが軍事的に優位に立つことを意味し、それは当時の支配者にとって至上命題だったと見える。継体の即位に先立ち、河内の馬飼首が使者に立ったという話が『紀』に見え、このことからも継体が河内の牧を掌握したことがうかがわれる。栄山江は馬韓地域の川で前方後円墳が築かれた場所だ。この地と磐井一族は深いつながりがあると思われるが、蔀屋北遺跡は5世紀前半に入植が始まるので、雄略や磐井の父・祖父らの指導のもと朝鮮半島から馬飼集団が移植されたのかもしれない。
 騎馬文化はもともとは五胡十六国時代の中国に始まり、紀元前2世紀末には朝鮮半島北部で馬を飼育していた。新羅は4世紀代に騎馬文化を導入、4~6世紀の新羅の装飾馬具は燕・高句麗と共通点が多いという。5世紀に新羅の馬文化が伽耶・倭まで拡散した。その遺物が古市の七観音古墳や鞍塚古墳に見られる。津堂城山の主が掌握した八尾南遺跡の馬飼いは新羅からの人々だったと私は考えるが、その時代にはまだ馬の世話をする渡来人はいても集団として馬を飼う人々は日本にはいなかったと考えられている。馬を飼うには飼料の小麦などの生産から手掛けなければならない。この事業を進めたのが雄略で、継体がこれを受け継いだのだと思う。

3―3 『紀』の記述

 磐井を討ちに行く将軍は『記』では「大伴金村と物部荒甲大連(もののべのあらかいのおおむらじ)」とある。『紀』では、物部麁鹿火(もののべのあらかい)だけだ。大連たちの合議で物部麁鹿火が征討に行くことになるが、このとき継体が物部麁鹿火に対して言う言葉の意味が深い。「長門から東は私が制する。筑紫から西はお前が制せよ」と言うのだ。私が、継体が磐井と連携していたと考える理由のもうひとつがこれだ。賊は筑紫にいるだけなのに、なぜ長門から東は私が制すると言わねばならないのか。〈私が制する〉場合の軍とその相手は誰なのか。これは継体が磐井に向けて言ったものではなかったか。それなら意味が通る。継体は主要豪族の擁立で天皇になったのではない。中部日本の首長を味方につけて近畿一帯を支配しようと企てたのだ。そしてこの頃九州地方で勢力を張っていた磐井と連携してその仕事を進めようとした。それを象徴するのがこの言葉だ。彼らの敵対勢力は物部氏だ。7章の古墳で見たように、この頃には物部氏が各地を席巻していて、他に氏族はいないかのような躍進ぶりだった。
 磐井を制したかったのは継体ではなく物部麁鹿火だった。そして北部九州で両軍はぶつかった。『紀』の記述にも両者の戦力は伯仲し死者も多かったとあるが、結局物部が勝った。三者の力関係は6世紀前半の古墳の大きさに端的に現れていると思う。継体の今城塚古墳は190メートル、磐井の岩戸山古墳は135メートル、天理にある物部氏の墓と言われる別所大塚古墳は126メートルだ。磐井と物部に大きな差はないが序列はある。物部氏は氏族の力としては弱かったが武器作りの集団としての力が勝ったのだろうと想像する。となると別所大塚古墳は物部麁鹿火の墓ということになるだろうか。
 
3―4 隅田八幡神社蔵人物像鏡

 継体は503年に既に大和の忍坂にいたという説がある。その根拠は、和歌山県橋本市の隅田八幡(すだはちまん)神社蔵の人物画像鏡だ。これは5~6世紀のもので金石文がある。銘文は「癸未の年に男弟王が意柴沙加宮(おしさかのみや)にいるときに斯麻(しま)が長寿を念じて河内直(かふちのあたい)と漢人(あやひと)の今州利(いますり)を遣わして作らせる」と読めるという。癸未の年は443年か503年だと言われる。斯麻は武寧王だという説が有力だ。443年説でこの金石文に名のあがる人々を推測する見解もあるが、それは5世紀後半に生きた人には関係がないので省く。503年だとすると武寧王は41歳だから、ここから彼が日本に41歳まで留まったという説が生まれるのだろう。
 私は、この銘文を根拠に継体が503年に大和に入っていたとか、既に大和で天皇として支配していたという説には賛成できない。
 継体の生きた年月について『紀』には531年に82歳で没するとあり、『記』は没年は527年で43歳だったとする。『記』に従えばこのとき継体は19歳だ。41歳の斯麻王が19歳の人の長寿を願うとは単純におかしい。『紀』に従えばこのとき継体は54歳だが、まずこの時代に82歳まで生きたということはかなり怪しい。このとき継体が即位していたという証拠があれば別だが天皇でもない傍系の皇子に武寧王がわざわざ鏡を作るのもおかしい。さらに、82歳説を取るのは不可能とは言えないまでも様々な系図自体がゆがんでしまう。しかも男弟の読みは継体のヲホドとは音が違うという。この男弟は継体ではないというのが私の考えだ。
 この鏡には同型鏡がある。郡川西塚(こおりがわにしづか)古墳(八尾市)・長持山古墳(藤井寺市)・トツカ古墳(京田辺市)・西塚古墳(若狭町)・亀塚古墳(狛江市)から出ている。八尾市は桜井市とは縁が深い。京田辺市も若狭も息長系勢力範囲だ。忍坂にいる王の連合者たちとしておかしくない。では忍坂にいる王とは誰か。癸未を503年とするなら忍坂大中姫の兄の意富本杼王と考えるのがいちばん自然だろう。長生きしている一族の長に斯麻が、たぶん帰国に際して鏡を贈る―これなら納得できる。もし斯麻が武寧王ならこの鏡の意義はむしろ、彼が雄略の根拠地の忍坂にいたのがわかることで、そうだとすれば当然後の継体の行動にも影響があったはずだ。