青の一族

第8章 6世紀—豪族たちの抗争


5 大和盆地の繁栄


5-1 大和盆地西南部5-2 大和盆地北部5-3 5世紀末からの古墳の高大化


 雄略時代の対外政策の結果、大和盆地には新しい渡来人グループの移住があり、新技術の導入や産業振興があったようだ。それらは蘇我氏の繁栄の基礎ともなったと考えられる。

5―1 大和盆地西南部

 名柄は葛城襲津彦の本拠地だったと思われるが、名柄から森脇一帯で5世紀初頭頃に鋤や鍬が作られ、土地が開墾された。そして少し南の南郷に集落ができ5世紀前半から中頃に最盛期を迎える。南郷には百済系の人が住んで、武器や帯金具ガラスなどを幅広く生産したようだ。
 長柄遺跡からは新羅系の甑が出ている。近くの下茶屋カマ田遺跡からは新羅・伽耶の女性の副葬品によく見られる陶製算盤玉形紡錘車が出ていて、ここには新羅系の人々がいたと思われる。
 新沢千塚(にいざわせんづか)古墳群は橿原市にあり、5世紀中頃から6世紀末までいちばん盛んに墳墓が営まれ、600基がある。この古墳群は雄略の外交集団の墓所とも、大伴氏の墓所とも言われる。新沢千塚古墳群の126号墳は女性が被葬者で、ここから出たガラス皿はローマ帝国伝来が立証され、中国を経由せずに新羅からもたらされたという。被葬者は金・銀・玉類のおびただしい装飾品を身につけていたといい、新羅の王族の女性ではないかという説がある。
 忍海は青海(飯豊)皇女にゆかりの地で、北花内大塚(きたはなうちおおつか)古墳(90㍍5世紀末~6世紀初頭)が彼女の墓ではないかと言われている。5世紀後半以降ここには百済からの人々も多く移住したが、忍海の中心部である地光寺からは新羅系鬼面文瓦が出土している。地光寺は8世紀までには成立していたと言われ、忍海氏の没落とともに消滅した。
 吉野川から葛城に入る道筋にある五条市の猫塚古墳は5世紀前半の築造で、ここからは珍しい鍛金工具類が出土した。工人がここから大和盆地西南部に入ったと見られる。
 5世紀後半以降は南郷では馬の飼育が始まり、拠点集落は忍海に移る。寺口忍海古墳群は200基を擁する百済・伽耶からの渡来集団の墓で、鉄塊などが供えられた。この鍛冶工房を直接経営していたのは二塚古墳(60㍍6世紀中頃)の主だという。ここでは金属のほかに馬具の生産も始めた。飛鳥寺の建立に忍海の金工が働いた記録があるので、忍海での生産は奈良時代まで続いたことがわかる。
 橿原市の蘇我遺跡では各地からの石材を集めて玉造りが行われた。5世紀最大の規模を誇る。これに隣接して忌部町がある。安閑天皇の宮はここにあったとされる。
 このように葛城を中心とした地域には5世紀に新羅、ついで百済・伽耶系の技術集団が多数入植したことがわかる。飛鳥地域では5世紀に全羅道の土器が集中して出るという。全羅道は朝鮮半島の前方後円墳が作られた地域で磐井とのつながりが深い。雄略・継体の対外政策のひとつの成果が葛城地域に結集し、それは蘇我氏のものとなった。蘇我氏の繁栄とともに、大和盆地南部はその後長きにわたって王宮が営まれる地となる。

5―2 大和盆地北部

 大和地域では南部以外にも産業が発展した地域があった。 
 布留地域では5世紀に武器生産が行われる。この地域に続けて作られる別所大塚古墳・東乗鞍古墳(6世紀前半)・ウワナリ古墳(6世紀後半)はいずれも横穴式石室で、雄略の政策による有明海沿岸との親縁関係があるという。
 柏原市の大県(おおがた)遺跡は、鉄の精錬鍛冶から製品にする鍛錬までを行い、鉄素材を各地に供給していた。大和でもいちばん規模の大きい生産地だ。6世紀後半に盛期を迎えるが、武器より土木・農工具を多く作っていたかもしれないという。これらの工人の墓は平尾山古墳群(柏原市)とされ、2000基という大規模なものだ。5世紀後半の高井田山古墳(大阪府柏原市22㍍円墳)は横穴式石室の原型と言われ、百済にそのルーツがあるという。小型古墳ながら豪華な副葬品が出て、昆支王(武寧王の父または祖父、叔父)の墓という説がある。

5―3 5世紀末からの古墳の高大化

 6世紀頃に新羅経由で入った土木技術により古墳の高大化が見られるようになる。それまでの古墳は平面積の大きさが強調されたが、5世紀末になると墳長に対する古墳の高さの比率が大きい古墳が登場する。これは横穴式石室という高さを必要とする施設を採用したことがひとつの原因だが、そうした墳丘の中でも葺石を使わずに土を硬く突き固める技法によって墳丘を高くした古墳がある。この技術は5世紀初頭の高句麗に始まり北魏や新羅、伽耶の一部に広まったものだ。
 日本でのその例は市尾墓山古墳・与楽鑵子塚(ようらくかんすづか)古墳(奈良県高市郡高取町)、小白髪山古墳(羽曳野市)、烏土塚古墳(奈良県生駒郡平群町)、黒田大塚古墳(奈良県磯城郡田原本町)、十善の森古墳(福井県若狭町)、壱岐の双六古墳ほか三つの古墳、王墓山古墳(香川県善通寺市)などだ。
 市尾墓山は継体の大臣だった許勢男人(こせのおひと)の墓と言われる。
 与楽鑵子塚古墳は6世紀後半に作られる横穴式の古墳(28㍍)だが、玄室の高さが4.5メートルもある。これと同時期に真弓鑵子塚(まゆみかんすづか)古墳(23㍍玄室高4.8㍍)、続いて与楽カンジョ古墳(36㍍玄室高5.2㍍6世紀後半~7世紀前半)が作られる。与楽カンジョ古墳と真弓鑵子塚古墳には渡来系の習俗であるミニチュア土器の副葬が見られた。これらの古墳は東漢氏の墓と考えられている。東漢氏は4世紀にはこの地にあり、その後蘇我氏の支配下に入ったとされるが、それでも先祖と故地とのつながりは消えず、新羅由来の新方式で墓所を営んだ。