青の一族

第8章 6世紀—豪族たちの抗争


4 天皇の系譜


 

4-1 途絶えた伝統的天皇の系譜4-2 安閑天皇4-3 宣化天皇4-4 蘇我氏と欽明天皇


4―1 途絶えた伝統的天皇の系譜

 継体は畿内の様子を大和の北部からうかがっていた。この時期、天理市一帯は物部系古墳ばかりになっていて大和の聖地、山の辺は物部氏が押さえていたと見られる。私は、大和には継体の痕跡がないので、結局彼は大和には来なかったと思うし、継体は必ずしも大和にはこだわらなかったとも思う。彼は新しい時代の王だからだ。磐余玉穂宮は後の編者による記録上皇統を途絶えさせないための架空のものに違いない。
 磐井の乱は527年に起こる。『記』ではこの年に継体も没している。『紀』では没年は531年だが、執筆者が534年かもしれないとも言っている。『百済本紀』には531年に日本の天皇・太子・皇子が死んだという記事がある。クーデターがあった可能性はおおいにありそうだ。天皇が兄弟同士で殺しあう話は多いが臣下が天皇を殺す話は歴史には記録されない。それはあってはならないことだからだ。しかし、この後に登場する欽明天皇と蘇我氏系の天皇を見ると、この時に歴史の流れが変わったという感想を持つ。
 歴史上継体の後に来る安閑・宣化天皇は継体と尾張の目子媛の息子だから物部一族だ。安閑天皇の諱は勾大兄で、勾金橋宮(まがりのかなはしのみや)で即位したという。橿原市曲川町(まがりかわちょう)の金橋神社がその場所だという。宣化天皇は檜隈高田の皇子で、檜隈廬入野宮(ひのくまのいおいりのみや)にいたという。これは明日香村の檜隈寺または於美阿志(おみあし)神社がその地だという。継体は大和には来なかったと述べたが、尾張氏の目子媛の子ならば桜井市周辺にはゆかりがあるので、上記の地に宮があってもおかしくない。
 しかし、継体の子とされる欽明天皇は、私の考えではこれまでの皇統と関係のない人だ。そう考える理由はひとつは欽明に諱がないことだ。天国押波流岐広庭天皇(あめくにおしはるきひろにわのすめらみこと)という彼の死後につけたことがはっきりしている名があるだけだ。また〈シキシマで天の下を治めたすめらみこと〉とも呼ばれるが、シキシマは古代から天皇の地として由緒があるので、これは儀礼的な尊称だ。つまり彼はどこで育ったのかわからず名前もない。もうひとつの理由は彼の母が手白香皇女とされ、彼女が皇后なのにもかかわらず妃の子である安閑と宣化が先に天皇になっていることだ。これまで妃の子が天皇になった例はない。血統を大事にする『記』『紀』では異例のことだ。 
 継体の没年がはっきりしないことやその後の二天皇の在位期間の短さなどから、安閑・宣化と欽明の二朝並立説など、この時期の天皇系譜には諸説ある。だが、この論争にはあまり意味がないと思われる。はっきりした中央集権ができていない段階で朝廷が二つ並び立ったと言うのがそもそもおかしい。二天皇と欽明の争いは、二大勢力の抗争だったという位置づけでいいと考える。

4―2 安閑天皇

『安閑紀』には大量の屯倉と犬養部の設置の記事が見える。屯倉が筑紫や豊に多いのは磐井の領地を没収したからだという説に当てはまるかもしれない。しかしそれ以外はどうか。
 群馬の藤岡市には緑野の屯倉が設置されたという。6世紀前半に藤岡市には145メートルの七輿山(ななこしやま)古墳ができる。関東でこの時期最大の古墳だ。群馬では5世紀の中頃に上毛野の首長の墓と見られる太田天神山(210㍍)が作られたが、6世紀には太田市には大きな古墳はできない。7章7―2項で見たように5世紀中、安定して古墳を作り続ける高崎市の首長は海洋族と見られる。剣崎10号古墳からは馬韓系軟質土器・大伽耶系耳飾が出た。馬韓系遺物は磐井との関連を示唆する。そして6世紀になって高崎市に隣接する藤岡市に七輿山古墳ができるのだ。円筒埴輪・形象埴輪があることは継体陵の今城塚と共通している。この地に安閑が屯倉を作ったのは、継体と彼に七輿山の主との協調体制があったからだろう。同じ『安閑紀』に武蔵国の首長同士が敵対したという記事が載る。一方には上毛野君が、もう一方には朝廷側がついて戦い、上毛野は敗れた。これは古い豪族を新勢力が打倒したことになるのだろう。喜んだ武蔵国造は4か所の土地を朝廷に差し出している。そのひとつは埼玉県吉見町にあったとされる。吉見町は行田市の雄略系と見られる稲荷山古墳を中心とする古墳群が築かれた場所と荒川を挟んだ南に位置する。あとの2か所の屯倉は横浜市(1か所は未詳)にあったらしい。武蔵国造が埼玉県の吉見町から横浜までの広範囲に力を及ぼしたとは考えにくいが、屯倉設置はあったのだろうと思う。
 安閑天皇は在位2年で没する。この短期間でそれだけの仕事を完遂できるとは思えない。しかしこれらの記事が安閑天皇の事績とされるところを見ると、はやり継体は雄略の支配の戦略を引き継ぎ、直轄領地の拡大に力を入れており、安閑は皇子として継体の仕事を助けていたのではないかと思える。
 安閑の諱は〈まがりのおおえのみこ〉で宮は勾金橋宮だ。金橋は忌部氏の本拠地で今も忌部町があり、彼はここで養育されたのかもしれない。忌部氏は出雲玉造の祖、櫛明玉を率いたというから勾の名はふさわしいと思える。安閑神社は高島市にある。継体の息子らしい場所だ。安閑陵に治定されている古市の高屋築山古墳(羽曳野市)には珍しいガラスの椀が副葬されていた。継体の同盟者たちの支配領域からして自然なことだと思う。安閑天皇は即位したかどうかは別として実績を残した首長だったことに違いはなさそうだ。

4―3 宣化天皇

 宣化天皇の宮は檜隈にあり、ここは渡来人が住んだ場所で蘇我氏の根拠地でもある。宣化の諱は〈ひのくまのたかたのみこ〉だから蘇我氏が養育したのかもしれない。宣化天皇のときに蘇我稲目が突然大臣になるのはそういう経緯からだと考えれば自然だ。
 宣化の息子は上殖葉皇子(かみつえのはのみこ)と火焔(ほのおの)皇子(みこ)で、前者は丹治比公と偉那公、後者は椎田君(しいだのきみ)の祖とされる。多治比氏については反正天皇の項で見た。偉那公と椎田君はともに摂津の猪名川流域の氏族だ。多治比氏の本貫は三島とも関係が深く、継体につながる。そういう意味では宣化は継体の息子でおかしくない。

4―4 蘇我氏と欽明天皇

 継体天皇のもうひとりの子とされる欽明天皇を擁立したのが蘇我稲目で、安閑・宣化を擁立したのが大伴金村だったという。
 蘇我氏はそれまで歴史にまったく出なかった名だ。しかし、宣化の娘はみな欽明の妃になる。その中の一人、石姫皇女が后で、その息子が敏達天皇だ。そして稲目の娘の堅塩媛(きたしひめ)と同母妹の小姉君(おあねのきみ)が欽明の妃になって生んだ子が三人天皇になっている。用明天皇・推古天皇・崇峻天皇だ。母が后でない天皇は、継体の子の安閑・宣化のときに既に誕生している。歴史が実際に書かれた時代に近づいて、蘇我氏がかなり強硬に権力の座を奪い取ろうとした様子が記録に残った形になっているようだ。
 蘇我氏の本拠地がどこかについては諸説あるが、私は大和盆地南部の蘇我川流域だと思う。蘇我氏が臣の姓を持っており、臣は土地に根づいた豪族の呼び名であることが理由だ。『古語拾遺』に「蘇我満智は渡来氏族を統率して斎蔵・内蔵・大蔵野三蔵を管理した」とあり、これは雄略時代のこととされる。実際には蘇我氏に管理の実績はなく、この記録は後の挿入だという説もある。蘇我川に近い葛城地域にはまず新羅系の人々が移住してきたが、雄略や継体―磐井体制で馬韓からの入植が増え、武寧王との関係で百済からの人々も移り住んだ。雄略後の政治の混乱、または空白時期に乗じてこれをそっくり受け継いだのが、初めはまだ弱小だった蘇我氏だ。高市郡や檜隈には阿知使主を祖とする東漢氏がいた。これらの人々も蘇我氏の支配下に入った。蘇我満智は子に韓子・高麗という名をつけているので、彼は蘇我家に入り婿した渡来人だった可能性が高いと思う。
 蘇我氏が擁立した欽明天皇は、『紀』の記述では任那を再建することだけを考えている。『欽明紀2年』に、卓淳が新羅に併呑されたという記事がある。私は、欽明は340年に新羅に併呑された安羅か卓淳、つまり大伽耶の支配層で、このとき日本に逃れてきた人ではないかと思う。卓淳は七支刀が百済から倭に贈られたときの仲介者だから、百済とのつながりが深い。
 蘇我氏の本拠地は雷丘・橿原市和田町・栄和町周辺らしい。欽明と堅塩媛の娘の推古天皇の小墾田宮(おはりだのみや)は明日香村豊浦北の古宮遺跡とされる。蘇我稲目の小墾田の家もこの辺で、稲目の向原の家が豊浦寺だという説がある。稲目の息子の蝦夷は豊浦大臣と呼ばれたといい、やはり豊浦に家があったようだ。
『欽明紀』には蘇我氏の政策で吉備の白猪の屯倉を置いたことが書かれる。
 また『欽明紀』には的臣・吉備臣・河内直は新羅に従っているとする記事がある。的氏は葛城襲津彦の後裔で釜山とも関係があること、吉備の造山・作山古墳周辺は釜山に河口がある洛東江下流域の遺物が出ることは述べた。彼らには新羅との歴史的交流がある。
 特に『紀』には、百済滅亡後の亡命者が多く日本の朝廷で文官として働いたことから百済寄りの記事が多いとされる。『紀』の記述とは異なり、実際には豪族たちは百済にだけ味方したのではないことがわかる。
『欽明紀』には有名な仏教伝来の記事もある。