●書くことと権力志向● (2001年2月26日)
ジャンルというものについて、実にしばしば考える。『幻想文学』という雑誌を作っている以上、考えないわけにはいかないので、考えている。他人が使うホラーとかファンタジーとかSFとかいう言葉の意味も、気になる。この三つのジャンルは、境界が殊に曖昧だから、みんな大層いい加減に使っている。恣意的なのに、そのジャンルにこだわっているらしいことが、とても気にかかる。私はジャンル分けをものすごく細かくしてしまうタイプだ。例えば、SFホラーとホラーSFを分ける。そうした分類は、ある程度作品の構造を、場合によって内容までも示すので、少ない言葉で読者に内容を伝えねばならないときに便利なのだ。200字とか400字、場合によっては100字とか150字とかいう少ない字数で作品紹介をしてきた私の、慣習のようなものである。
ジャンル別の紹介などもさんざんしてきたせいで、ジャンル論は不毛だ、とつくづく思うようになった。だから『幻想文学』でもジャンル特集はあまり好きではなく、テーマ特集の方が気質に合う。
私の内には幻想文学の四次元的宇宙が一つあって、その中に無段階的にさまざまな作品が分布しているが、それは私のテーマの立て方で自在にその位置を変え、めくるめくように変幻する。もちろんジャンルでも位置を変えるのだが、あまり美しい宇宙を形成しない。特に〈純文学〉などというタームでそれをやろうとすると悲惨な混乱ぶりを示す。だから私はジャンルで切ろうとするのが嫌いなのだ。
私を幻想文学の書評家たらしめているのは、ただその宇宙一個であると私は思う。これなくば、ただの読者である。
ところで、その宇宙の境界の外には、当然、幻想文学外の文学があるのだけれども、その境界も実は不確定で、時と場合によって境目は変わってくる。というよりも、あいだを隔てているのが森のように幅広いもので、そのあたりの境目はいい加減に考えられているという感じだ。国境の紛争のように直線的に変化するというよりは、なんだかいつのまにか県境を越えているらしい、というようなものに近い。
もしも可能ならば、この世にありとあるテクストをすべて読み尽くして一つの宇宙を作り上げ、それをいろいろに弄んで楽しみたいのかもしれない。たぶん機械のようにそれができるということを、書評家であり、本の紹介者である私は夢見ている。例えばインターネットではキイ・ワードを入力すれば関連情報が引き出されてくるけれども、そのように。ネットになりたいのではなくて、サーチ・エンジンになりたいのだ。それも審美的な。
なんてばかげたことを書いているんだろうか。
ネットの中で必要な情報を集めていると、時折、非常に書誌的なものを作っている人たちがいて、こうして蒐集するのが好き、書誌的なものが好き、と言っている。そういうものにも近い。私の欲望を、そういう人たちは分かってくれるだろう。
だけれども、この欲望は、一種の権力志向だと私は認識している。もともとパワーを望んでいる人間なのだ。
その、たいていはとてもきれいな秩序を保っている幻想文学の宇宙を、私はときどき無為に転がして、楽しむ。まるでマーガレット・マーヒーの描いた魔女の少女のように。彼女も魔法を得たとき、地球という美しい球体を玩んでみる誘惑には勝てなかった。それを見た母親は、身の程を知れ、と諭すけれども、力を手に入れたものはそれを行使したいものだ。魔女の道を進めば、いずれその危険からは逃れられない。
何かものを書くということ、そして公の場所に発表するということは権力の行使の一つである。なんとささやかな、と思うだろうが、しかしそれは確実に影響力を持つ。
今私が情報を載せているこのネットは、権力の一般人への解放でもある。使い方さえ習得すれば、この機構は、論理的には本当に世界を変え得る。
ネットのことはともかく、以前から、書くことは権力の行使であるが、マス・メディアはそのことに無頓着に過ぎる、とずっと言い続けてきた。『幻想文学』のような零細というか極小のメディアが存在する意義は、そうしたマス・メディアの偏向した情報に対して、あるいは学者たちをも含めた国家的上部の方からもたらされる情報に対して、別の情報を提供することにあった。だがそうして別の情報の糸が紡がれてしまうと、それはまた別の権威となってしまう。
書くことは見えないものに一定の形を与えてしまうという意味で、一種の暴力である。だが、不可視の存在を可視の存在に変えていくことが必要な場合もある。ただ変えた途端にそれは権力機構に奉仕するように見えてしまうという側面が常にある。書くことの矛盾は、このように露呈する。
『幻想文学』は権威であってはならない存在、だが、この分野において否応なく権威たらざるを得ない存在という矛盾した媒体として活動してきたとも言えるのではないだろうか。少なくとも私の心情としては、常に反権威であるべき存在として『幻想文学』を想像したい。
もちろん東雅夫には別な考え方があるだろう。
そう言えば私はいつも東にもっと自覚を持て、と叱られる。私たちは否応なく、その発言が一つの指針として取られる、いわば先達となっているのだ、と。影響力があるのだと。私の権力は本当にものすごく小さいと思っているのだが、東はそれはもっとあるはずだ、と言う。
東は実際、以前と比べればずっと大きな発言力を持つようになったように見える。だが、私はそれをさほどのこともないと思って見ている。まして自分においてをや。
あるいは東の言を認めることができないのは、権威でありたくない自分、にも関わらず書いている自分という私の矛盾を強めるからなのかもしれない。
だが、そう言いながらも『幻想文学』を売るためには何でもするであろう私。あるいは『幻想文学』を続けていくために、新聞の書評などという、権力に追随する仕事をしている私。
私の中の欲望はこのように矛盾する。過激な権力志向とすべての権威や既成概念から逃れたい思いとに。この矛盾をつなぐのはたぶん、完全なる自由。
決して果たされることのない夢、死によってもおそらくは得られないのであろう、悲しい幻想である。