Isidora’s Page
古雛の家

       ●間口の広さについて●           2001年9月8日

 間口が広い、と言われる。そうか? と思う。それは単に仕事柄ではないか、という気もするのだが、多くの人に言われるのでとにかくそうなのだろう。前のページにも書いたけれど、すべてのテクストを読みたいという欲望がそうさせるのかもしれない。
 要するに人一倍好奇心が強い。内視鏡検査は感染症などの危険が大きいのでやるな、と言われているけれど、一度はやってみたかったなどという理由だけで受けてみるようなバカな人間である。好奇心は猫をも殺す、と昔から言う。もちろんこれも権力志向の一形態なのだと知っている。
 それはそうとして、私に間口が広いという人たちもみな、それぞれにいろいろと雑多な本を読んでいるのではないだろうか、と私は思う。間口が広いのは私だけではあるまい。
 東雅夫は今はホラー評論家を名乗っているけれど、それは商売になるからそうしているので、彼の読書範囲も相当に広い。好き嫌いがどうなっているのか、これだけ長い間つきあってもよくはわからないが、怪奇幻想文学関連に限って言えば、それこそ読まない分野はないだろうし、そこそこ好きだというものならば、きっと実に多彩な作品が上がってくることはまちがいない。
 私にしても事情は変わらない。むしろ自分では怪奇幻想ものとその関連書に異様に偏っていると感じる。だからこそ『幻想文学』なのだが。
 とはいえ、私はリアリズム小説が嫌いなわけでもなんでもなく、小説に関して言えば、若いころは、かなりオーソドックスな文学史に従った読書をしてきた。以前『幻想文学』50号で述べたので繰り返さないが、要するに岩波文庫の海外文学や日本古典文学のラインナップ、そして新潮文庫の日本文学の棚を読んできた人間なのである。(およそ20年から25年前のそれである)
 例えば 高校時代の愛読書は『源氏物語』とボーヴォワールの『他人の血』だったりする。『源氏』は空想的ではあるけれども『宇津保』のような幻想物語ではないし、『他人の血』に至ってはプチ・ブル批判的な視線のあるただの恋愛小説である。フェミニスティックな哲学が両者には共通してあるけれども、少なくとも高校時代にそんなことを考えて読んでいたわけではない。
 私は結局、幻想ものだけが好きという感じにはなっていない。例えば西鶴なら『日本永代蔵』とか『世間胸算用』が大好きである。あの商人的ど根性が、庶民的な私の琴線に触れるのだ。だからといってもちろん篤胤や秋成を読まぬわけではない。
 現代文学も、例えば太宰は私の世代の文学少女がすべからく読むべきもので、私も御多分に漏れず全作読んでいるが、リアリズムものも好きだ。『御伽草紙』も良いが、『津軽』だって良いのだ。川端康成にしてもかなり普通の『山の音』のような、幻想派には好まれないようなものの方が、例えば幻想ものの中に入れられるような『眠れる美女』や怪奇短篇「片腕」よりも好きだったりする。
 今でもだから幻想文学ではない本を書評で読むのに苦労はない。下手なのにうんざりするだけで、上手な小説ならば、リアリスティックを装うか、完全なファンタジーにしてしまうか、どちらの表現方法でもかまわない、と思う。
 書きながら、やっぱり誰でもそうなのではないか、と思う。例えば、本格ミステリしか読まないという人間の方が珍しいような気がする。こういう傾向が好きだ、と一つに括れるわけはなく、雑多な趣味を誰でも持っているものだろう。いわゆる「趣味」ということで言えば、いろいろなことにチャレンジして、みんなそこそこおもしろい、というようなものであるような気がする。そして、これはダメだ、というのと、これは本当に好きだというものができる。残りはやれば楽しい、やらなくても生きていける、というものだ。
 結局、文学でもものすごく好き、そこそこ好き、パスというものに分かれるのだろう。それはジャンルで分かれているわけではない。
 それでもやはり幻想文学でなければならない、と思う。そこそこ好きなものにも幻想文学が多いということ以上に、私が心底描いてほしいと思う世界は幻想文学でしか描けないからである。あるいは私が最も愛する作品が幻想文学としか呼べないものだからである。
 間口は広くても、結局行き着く先は心の片隅であって、偏狭なこときわまりない。その偏狭さがわかっていればこそ、せめて間口を広くとっておくことで、自分のかたくなさに始終目を向けていなくても良いようにしているだけ。そうも思う。
「山の音」初老の男性が息子の嫁に恋着を覚える話、と要約すると、しょうもないような印象を与えるが、たいへんにデリケートな(ソフィスティケイトされた)作品で、随所に印象的な描写がある。横山さんに「これはクスリ漬けで、充分におかしい小説である」と言われた。そうだったのか……。とすると川端についての部分は理論的に変だということになる。一般的には幻想小説とは言われず、中流家庭のそこはかとない悲しみを描いたものと理解されているので、その線で押し通すことにしよう。いずれにしても川端は比較的好きな作家なのである。