Isidora’s Page
古雛の家

       ●本と子供●           2001年5月31日

 学校へ行って子供の担任と面談をすると必ず言われる。「よく本を読んでますよねえ」。小学校でも中学校でも、そうである。子供が本を読んだからどうだというのだ。「読めばいいというものではありませんからね」とにべもなく答える私。教師からすれば、褒めるところのない子供を褒めたつもりなのだろうが、親としては嬉しくもなんともない。その台詞は聞き飽きた。
 教師のあいだでは、いまだに「本を読む」→「読解力がある」→「勉強ができる」、もしくは、「本を読む」→「知識が豊富になり、思考力も高まる」というおめでたい図式があるものらしい。中学では朝の読書の時間というのがあって、強制的に本を読ませているが、そんなことをしても子供が読書好きになるわけもないし、おりこうになるわけでもない。もちろんごくごく一部、本に目覚める子もいるだろうから、出版に関わっている立場としては、バカらしいと切り捨てるわけにはいかない。しかし親の立場からすれば、やはり、読書が趣味ということ自体には格別の価値を見出せない。
 私には二人の男の子がいる。長男は現在高一で、次男は中二である。二人ともやたらに本を読む。長男はファンタシーの愛好家で、『ドリトル先生』は何度も読み返し、『指輪物語』も既に二回読んでいる。その他のモダン・ファンタシーも数多く読んでいるし、テリー・プラチェットなどもおもしろがるが、僕には教養が追い付かないなどと言い、日頃は『楽園の魔女』とか『スレイヤーズ!』、『足のない獅子』を楽しんでいる。そういう作品が文章的にも内容的にも『ドリトル先生』にはまったくかなわないことを知ってはいるが、しかしそれでもそういうものが好きなのだ。高校生にもなって『幻想文学』の読者になりそうな気配のかけらもない! まったくけしからぬ。
 次男はと言えば、これは何を読んでもいいようなただの活字中毒である。朝の読書時間に読むものがなかったから辞典を読んだというような輩である。休み時間はほとんど外に出ずに本を読んでいる。が、読んだ一時間後には内容を忘れているのではないかと思う。読書感想文など書けたためしがない。夏休みの宿題は、いつでも長男か母親の指導で書き上げる。「どんな話だった?」と聞けば、「どんな話だっけ?」と来る。いったい何を読んでいるのか?! ま、文字を読んでいるのであろうな。好んで読むのはギャグとSFで、昨日も北野勇作の『かめくん』を読み返してふふふふと笑っていた。何度読んでも笑えるところがすごいと言えばすごい。
 長男は国語能力が確かに高く、知識も語彙も豊富で、弁論大会やディベート大会で活躍しそうな感じではある。しかしそれは本を読んだからではなくて、私の影響を強く受けたからではないかと疑う。次男は弁論はおろか、日常会話すら苦手である。中一の頃までは何を聞いても「わからない」「覚えてない」としか言わず、小六の時に、最近は算数なら前に立って説明できるようになりましたよ、と担任に言われたものである。本を読むことは教育効果とは何の関係もないのだ。次男を見ていると、想像力を養うという最も基本的な読書の効用でさえ信じられなくなってくる。
 ともあれ我が家の子供らは、定期テストの前だろうが何だろうがおかまいなしに本を読む。むしろ、テストの前は部活動が休止になって時間が出来るから、より一層本を読むという感じである。それもほとんどすべて軽エンターテインメントで、読みだすと止まらないからいつまでも読んでいる。夜更かしをする。まったくとんでもないガキどもである。「本なんか読まなくてもいいから少しは勉強しろ!」と怒鳴る私。ああ、これが、世の中にはおもしろい本がたくさんある、本を読もう、と喧伝している私の実態である!
 本を読む子で良かったと思うのは、親子三人で出掛けたとき、電車の中でも、映画館で入場を待つ間や遊園地で乗物を待つ間も、とにかく待ち時間という待ち時間は本を読んで静かにしていてくれる、おかげで私も本が読める、ということぐらいである。
 本を読むからどうだというのだ、と思うようになったのは、しかしこういう情況になってしまったからそう思うので、子供らが幼いときには何とか本好きに育て、私の仲間に引き入れたい、と思ったものである。
 で、どの親でもやることだが、本の読み聞かせというのをさかんにやった。かなり長い間、子供たちが自分で本が読めるようになっても(下の子が小学校二年生になるくらいまで)、やり続けた。
 最初に子供たちが夢中になったのは長新太の『へんてこへんてこ』という絵本。これはある橋を渡ると、からだがにゅーっと伸びてしまうという話。『不思議の国のアリス』でアリスの身体が伸びてしまうところがあるが、そこからタイトルをもらっているのだろう。ともあれ、この絵本を毎日毎日何度も読まされた。もう少し大きくなると、いかにもイギリスの鉄道ファンが書いたという感じの絵本のシリーズ《機関車のぼうけん》に夢中になった。この本は当時品切れ状態だったのだが、その直後にポンキッキで取り上げられて有名になり、今では各種の本が出ている。それから『ムッシュ・ムニエル』をはじめとする佐々木マキの絵本、『ふくろうくん』などアーノルド・ロベールの絵本。挙げていけばきりがない。
 小学校に上がっても夜には本を読んであげるという習慣は続いた。本を読むのが面倒なときはいい加減な物語を作って聞かせる。それも面倒なときには、子供たちにお話を作らせる。とにかく、夜眠る前はお話の時間だったのだ。子供たちが夢中になった話としては、『長くつ下のピッピ』、『マルコヴァルドさんの四季』、『はれぶた』シリーズ、『ひとりぼっちのロビンフッド』など。彼らはやがて、おもしろかった本は自分で読み直すようになった。
 子供を本嫌いにさせないためには、おもしろいと思うような本を与えればいいのだ。子供がおもしろいと思うのはやはりユーモアのある作品、ギャグ調の作品である。また単純にどきどきするような冒険の物語である。日本では矢玉四郎、福永令三、三田村信行あたりを子供たちは好んだ。だから私はそういうものを与えた。その結果本好きにはなった。確かに。だから、本好きにしたいのなら、私のようにしてみたら、と言うことはできる。だが、本好きなら、それでいいのか?
 特に高一の長男は、もうそろそろ一般向けの作品、本当におもしろいあたりを分かってもいいのではないかと思うのに、まったくそうなっていかない。本の世界の楽しみは広大だというのに、いつまでも表層的なギャグだけで満足している。やはり本の与え方を間違えたのだろうか。
 本が読めるだけでもいいではないかという意見もあるだろうか。今私がこれを書いているあいだに、次男は『魔術師オーフェン』の外伝を一冊読み終わろうとしている。それって電車の中で西村京太郎を読むようなものだよね。私はそういう読書好きに育てたいわけではなかった。だがしかし、当たり前のことだが、子供は親の思う通りになんぞ育ちはしない。私の「子供たちを本好きに育てる計画」は、かくのごとき顛末となったのである。